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俺と天使のワンルーム生活  作者: さとね
第三章「不屈の英雄に最高の誉れを」
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その4「悪魔の手」

 朱理の手から鎌が弾きとんだと同時に、司の放った【灮焔(こうえん)()太刀(たち)】の威力で、朱理は後ろへと飛ばされた。

 司の放った攻撃は、もちろん片穂が打つ攻撃よりも数段弱い威力だ。しかしそれでも、一人の女子高生の体を飛ばすには十分だった。


 司は腹部に感じる痛みを必死に堪え、やっとの思いで立ちあがる。

 地面に足を磨りながら歩き、司は倒れる朱理に白く輝く剣の切っ先を向ける。


「俺の勝ち、だよ。雨谷さん」


 朱理は司から視線を逸らし、自分の元から離れた鎌の位置を確認した。


「動いたら、もう一度太刀を打つ。警告だ。動かないで」


「なんで……ッ!」


 唇を噛む朱理。恐らく、司がなぜ片穂の技を使えるのか理解が出来ないのだろう。

 正直なところ、司も何故打てるのかはよく分からない。力を込めて叫んだら斬撃が出た、ぐらいの感覚だ。

 でも、それは悟られてはいけない。


「俺にそれだけの素質があるって認めてくれたのは、他でもない雨谷さんじゃないか」


「……!」

 ゎ

 司はさらに歩を進め、もう少しで切っ先が触れてしまうくらいまで剣を朱理に近づける。


「教えてくれないか。君は一体、誰なんだ」


「私は、私でございますわ」


 剣を向けられてもなお、朱理は笑みを浮かべて答えた。

 底の見えない朱理に得体の知れない気味悪さを感じた司は、声を荒らげる。


「そんなことを聞いているんじゃない!」


 威圧的な声を出しても、朱理の表情は変わらない。

 しかし、ここで引き下がる訳にはいかない。司の事情を知っていて、それでも司を殺さないように確保しようとするのは彼女が悪魔側の人間であると証明しているようなものだ。自分のためにも、情報を聞き出さなくてはならない。

 どうすればいいか。恐らく、この調子で質問をしても全て先ほどのように煙に巻かれてしまうだろう。

 ならば、この朱理の余裕を崩せるような言葉が必要だ。彼女を動揺させるための言葉がが。

 司は今までの朱理との会話を思い出し、言葉を探す。


 はっと思い出したように、司は口を開いた。


「アスタロト、だっけ?」


 朱理の顔から余裕が消えたのを、司の目ははっきりと捉えた。


「それが、どうかなさったのですか?」


「さっき言ってたよね。アスタロトって悪魔の命令で、雨谷さんは俺を狙ったんだよね?」


「……それが、どうかなさったのですか」


「最低な、悪魔だよね」


「……」


 黙る朱理を見て、司は口角を上げた。


「最低な悪魔だよ。アスタロトってやつは。本人は全く表に出ないで、雨谷さんに全てを任せてさ。きっと、自分が危険になるから出てこないんだよ。雨谷さんのことなんか考えてない、最低な悪魔さ。きっと、雨谷さんのことなんて微塵も──」


「黙れッ‼」


 朱理は、司を睨みつけて声を荒らげた。声も震え、握りしめた拳も小刻みに震えていた。


「黙れ。黙れ黙れ。黙れ黙れ黙れぇええ‼ アスタロト様へのそれ以上の侮辱は許さないッ‼」


 完全なる敵意の目。今まで司を慕ってきたとは思えないほどに朱理は牙を剥いた。

 このような反応がくるのは、司もある程度予想していた。さすがにここまでは予想外だったが。

 普段は感情を表に出さない朱理が、ここまで取り乱しているのだ。触れてはいけない場所に踏み込んだ責任は取るつもりだ。


「それほど、アスタロトって悪魔が大切なのか?」


「大切……? そんな次元の話ではないッ! あのお方は私の生きる意味だ! 理由だ!」


「何が、君をそこまで……」


 悪魔への盲信。取り憑かれたようには見えない。ならば彼女の心に根付くのは宗教と呼んでもいいほどの信仰心だ。しかし、悪魔へそれほどまでの信仰心が簡単に生まれるとは考えにくい。

 そんな疑問に答えるように、朱理は口を開く。


「私が、幼い頃に孤児院にいたことは、覚えていますでしょうか」


 いつの間にか、朱理の言葉遣いが敬語に戻っていた。表情からも落ち着いたのが確認出来た。

 いつもの調子に戻った朱理は、おもむろに話し始める。

 それはある一人の、少女の話。

 何の才能ももたない、天涯孤独の少女の話。

 そして何も持たないが故に悪魔に魅入られた、ある一人の少女の話。




 物心つく前から、雨谷朱理は両親という存在が自分にはないということを理解していた。

 親と呼べるのは自分が生活する孤児院の院長を務める年配の女性だけだった。

 しかし、朱理はその女性をお母さんやママと呼んだことはない。自分に親はいないと、理解だけはしていたから。どんなに親切にされても、親という存在に代わりはいないのだと、確信していたから。


 孤児院に住む子供は、もちろん朱理だけではない。多くはないが、片手では数えきれないということぐらいは覚えている。

 彼らは皆、朱理がお母さんと呼ばないその女性をお母さんと、ママと呼んでいた。

 幼い頃は朱理の親への感覚に疑問を持つ人は一人もいなかった。

 何かが変わったとすれば、院長が死んだ時からだろうか。

 自分でもはっきりと覚えているのは、院長の葬儀のことだ。親のいない自分たちに愛情を込めて育ててくれた院長の死を、皆は涙を流して悲しんだ。


 その時に涙を流さなかったのはただ一人。雨谷朱理だった。

 常に心にぽっかりと穴が空いている感覚を抱き続けてきた彼女にとって、院長の死で自分の中の何かが変わることはなかった。空いた穴は広がることも閉じることもなく、無機質な風が変わらず朱理の胸を通過していた。

 朱理にとって、院長は他人だった。それ以上でも、それ以下でもない。確かに自分を育ててくれたことは感謝しているし、皆が泣きたくなる気持ちも分かる。

 しかし、院長は親ではない。血の繋がりなど一切ない、赤の他人だ。

 そんな他人の死で悲しみが生まれるような感性を、朱理は持ち合わせていなかった。


 そして、そうやってほんの少しだけ生じた僅かなズレが、のちに彼女を苦しめていく。

 確か、初めはかけっこだったと思う。

 どれだけ逃げてもすぐ追いつかれるし、どれだけ追っても追いつかない。走ることが苦手だった。

 次は恐らく、料理だったと思う。

 レシピを見ても、他の人を見ても、人が食べられる味の物を作ることができなかった。

 次第に、皆は朱理を異質な物として見るようになる。幼い子供たちにはよくある光景だ。無自覚のいじめ。本人たちの気付かないところで誰かが傷つく。これは、どう努力しても消えることはない。

 幼くして何となくそれを理解していた朱理は、特に気にかけることはなかった。


 何かが変わったと自覚したのは、この世のものではない『何か』を見た時だった。

 その『何か』は一般に悪魔と呼ばれる存在なのだが、幼い彼女はそんなことを知る由もない。

 驚いた朱理は、皆にその『何か』について話し始めた。もちろん、朱理以外に『何か』を認識できる者などいない。

 結果的に、それが朱理に対するいじめを苛烈にする契機となった。

 根も葉もない噂は、後を絶たなかった。

 院長の死で泣かないのは、彼女が悪魔だから。

 皆ができることを彼女が出来ないのは、彼女が悪魔だから。

 極めつけに、院長が死んだのは悪魔である朱理のせいだと言い始める者まで現れ始めた。悪魔の子だ。近づくな。殺される。


 自分の命に価値があるのかを疑問に思ったのは、この時だった気がする。

 そんな事を思いながら半年が過ぎた頃に、雨谷朱理の人生に転換点が訪れた。


 目の前に現れたのは、つい最近一〇歳を迎えた朱理と同い年くらいの、黒い服に身を包んだ少女だった。

 身を包む服は一枚の布で出来ており、衣と表現した方が近いかもしれない。

 漆黒の長髪に褐色の肌。しかし身だしなみには興味がないのか、衣も髪もボロボロだった。


「あなたは、誰?」


「私は……悪魔…………だよ」


 途切れ途切れで小さな声だった。しかしその声は心の底にある芯をぐらぐらと揺するような禍々しさを孕んでいた。

 言葉の内容ではなく、その言葉が纏う雰囲気で、朱理はその少女が悪魔であると確信した。

 今まで自分が見てきた『何か』は悪魔だった。

 その事実が朱理の思考を埋め尽くし、目の前にいる悪魔へ何も声を出せなかった。


「あなたは……私の、こと…………見えて、るん……だよ、ね?」


 朱理は声を出そうとしたが、どれだけ口を動かしても震えない声帯に痺れを切らし、小さく数回首を縦に振った。


「やっぱり……ここに来て……正解、だった」


 そういうと、目の前にいる悪魔はそっと朱理に向かって手を出した。


「私の名は、アスタロト。あなたの人生…………私が変えてあげる。だから、私のために……生きて」


 染み込んでくるようなその声は、朱理の心を真っ黒に染め上げた。

 気が付いた時には、朱理はその、希望に満ちた悪魔の手を取っていた。


 悪魔アスタロトのいう通り、この日を境に雨谷朱理の人生は変貌を遂げた。

 アスタロトの手を取った瞬間、朱理の体に別の血が流れていく感覚があった。それと同時に、自分の体が別の体になったような奇妙な感覚もあった。

 その奇妙な感覚は、間もなく目に見える形で表れることになる。


 今までどれだけ追いかけても捕まえられなかったかけっこだったはずが、ほんの少し走っただけで誰でも捕まえられるようになった。そして、足だけではなく身体能力が全て向上していた。

 さらに、成長したのはそれだけではなかった。


 料理もできるようになった。出来ない事は、全て出来るようになった。そして、皆が朱理を見る目も一気に変わった。朱理を蔑み、嘲る者はいなくなった。

 それは小さな孤児院の中の、小さな変化。たったそれだけで、朱理の世界は変わった。

 まるで黒に染められた絵が、白に戻ったような感覚。もう一度人生をこれからやり直せる、そう思った。


 数日経って、再び悪魔は朱理の目の前に現れた。


「返事……を、もう一度、訊く……ね?」


 再び出された悪魔の手を見て、朱理は静かに膝をついた。


「この身が果てるまで、あなたに忠誠を誓います。アスタロト様」


 そうして少女は悪魔の力を受け入れ、悪魔に捧げる第二の人生が始まった。

 従者として必要な礼儀や動作は、全て覚えた。アスタロトによって与えられた【朱血之大鎌】を使いこなすための身のこなしも、長い時間をかけて体に染み込ませた。

 特別な用がない限り、アスタロトは朱理の前に姿を見せなかったが、それで構わないと朱理は思っていた。

 アスタロトに自分が必要とされていると感じれるだけで、朱理は幸せだった。


 そして時は流れ、雨谷朱理は一七歳を迎える。そんな彼女の前に、アスタロトは久しぶりに姿を見せた。


「あなたの力が……必要に、なった」


 胸の高鳴りを感じた。自分の人生の価値を、朱理は再確認した。この悪魔のために自分の人生はあるのだと、信じて疑わなかった。


「はい。なんなりと、申しつけくださいませ」


「サタン様の『器』にあなたの人生を捧げてほしい」


 悪魔は、笑った。


「かしこまりました。アスタロト様のご命令とあらばこの私の人生、その『器』に捧げさせていただきます」


 この命令にも、朱理は一切の疑問を抱かない。別の人物に人生を捧げるのが自分の幸せだと、朱理は盲信していた。

 自分の生きる意味はそこにあると、自分の価値はその行動の末にあると、朱理は確信していた。


 そして朱理は、荷物を持って廊下の角を曲がろうとしていた佐種司の進路に、自ら足を進めた。


 そうして司とぶつかった彼女は、こういうのだ。


──あなたは、私が探し求めていた運命の人なのですわ。



 雨谷朱理が自分の過去を語り始め、それが終わるまでたったの数分だった。ただ、その数分が、司にはとても長く感じて仕方がなかった。


 声が出ない。司は声を出せない。それは彼女の悲しい過去や、悪魔との邂逅に驚いたわけではない。

 彼女は、『器』に自分の人生を捧げるのが、自分が今生きる意味だと、そう言った。

 問題は、『その生きる意味が空白である』ということだ。つまり、雨谷朱理が今生きている意味が、存在していないのだ。だって、だって、


(俺は、サタンの『器』なんかじゃないんだぞ……!)


 天使の事情も、悪魔の事情も、佐種家の事情も熟知していた魔女、初知真理ですら知ることの出来なかったたった一つの重大な事実。


 サタンの『器』は、佐種司の妹で佐種家の長女である佐種真穂だ。

 サタンの『器』に人生を捧げることが、朱理が今を生きる理由なら、司のそばにいる意味も、価値もない。それを知ったら、彼女は一体何を思うだろうか。


 悪魔を盲信し、その忠誠に依存し、その他への依存に人生の意味を見出した少女に、司は何を言うべきか。

 それを思うと、司は声が出せない。


「いかがなさいましたか、司様」


 朱理は笑っていた。体勢を崩し、地面に腰をついて切っ先を向けられている朱理は、笑っていた。

 何故か、無性に腹が立った。朱理に対してではない。

 こんな状況でも悪魔のための人生を歩もうという深い忠誠心を植え付けた悪魔に対してだ。アスタロトが朱理に死を命じたら、きっと彼女は喜んで身を投げるだろう。

 きっと今もそうだ。悪魔のために生きて、悪魔のために死ねる幸福を感じているから、剣を向けられた朱理は笑っている。


 そんなことは間違っていると、司は思った。

 彼女を忌々しい悪魔の手から助けたいと、思っている自分がいた。

 だから司は、口を開く。


「君を、悪魔から救ってみせる」


 今度こそ司は、無理やりではなく本心から不敵に笑った。


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