その4「人として」
司の通う高校では、放課後にテストが全教科返却されてから、廊下に総合順位が張り出される。
待ちに待った、いや、正確には見たくないのだが、結果発表の日がやってきた。
司たちは、文化祭が終わり、勝負をすることを決めてから一週間、高校に入ってから一番濃い勉強をした。
それぞれ考えることは違えど、勝つつもりで勉強を頑張ったのは皆同じだった。司に至っては焼肉の奢りまでかかっているのだから手を抜くわけにはいかない。
「司さん、私……ドキドキしてきました」
「俺もバクバクだよ。結構頑張ったからな」
今は放課後となり、廊下に出れば総合順位は簡単に見える。
「はっ、そんな自信がないのかしら。充分な努力が出来ていない証拠よ」
「むぅ〜。私だって頑張ったもん」
自信に満ちた顔で片穂を見下ろす誉。そのドヤ顔を、片穂は頬を膨らませて細い目で見つめた。
「まぁまぁ、とにかく見に行こうぜ。俺と司の勝負も残ってんだ」
英雄に言われ、皆が教室から廊下へと出る。司はすぐに壁へと目をやるが、やはり結果が掲示されているあたりは人が多く、よく見えない。
とりあえず自分の順位を確認しようと、司は人をかき分けて視線を紙の一番上へと向ける。
もちろん一番上には司たちの名前はない。気にせず視線を下げていくと、まず最初に映った名前に、司は目を丸くする。
「んなっ……⁉︎ なんで片穂があんな上なんだ⁉︎」
四人の中で一番高い点数を取ったのは、まさかまさかの天羽片穂。しかもその順位すら学年でもかなり上の方だった。
「やったやった! 司さん! やりましたよ!」
「凄えじゃねぇか! やったな!」
飛び跳ねる片穂と共に司も喜ぶが、正直なところ、喜びよりも驚きの方が大きい。
思い返せば、確かに片穂の方が飲み込みが早かったし、一週間の努力は相当なものだった。妥当と言えば妥当だが、ここまで結果に素直に反映されるのも驚きだった。
「はい! 司さんはどうでしたか?」
片穂の勝ちは確定したが、司と英雄の勝負はまだ見えていない。
司はさらに片穂の名前から下へと視線を下げていく。すると、少し間を空けて、「佐種司」の名前が見えた。
「おっしゃ! 俺も勝ったぜ!」
「うげっ。四点差で負けてんじゃねぇか! ちくしょー!」
司の名前の一つ下には「嘉部英雄」の文字があった。その差はたったの四点。問題にすると一問か二問の差だ。あと一歩で司に負けた英雄は、悔しさに声を上げた。
「そういえば、俺と司の名前が先に出たってことは……」
未だに名前が見えていないのは誉だけ。彼女の負けは、確定していた。
英雄は自分の名前の少し下に映る「進撞誉」の名前を見る。片穂と比べれば完全に負けだ。とはいえ、勝負自体はただのテストだ。向き不向きも、調子もある。この勝負に負けたところで、誉はきっといつものようにまた勝負を──
「私と勝負しなさい‼︎ 天羽片穂‼︎」
普段とは全く違い、怒鳴るように突然誉は声を上げた。
周りにも普段との違いに気づいているようで、賑やかだった廊下は一気に静まりかえり、全ての視線が誉に向けられる。
皆の眼に映る先には、拳を握り、歯を噛み締め、床を睨みつけている誉か立っていた。
その変化の異常さを一番感じた片穂は、怯えたような少し震えた声で、
「イー……ちゃん?」
「テストは私の負けよ。だから勝負をしなさい」
自分の負けを見た瞬間に、誉は次の勝負を持ちかけた。その様子を見た英雄は、誉の肩に手を置いて声をかける。
「お、おい。誉。そんなに急ぐ必要はねぇって。またいつでも機会はあるんだから──」
「うるさい‼︎ いいから勝負しなさい‼︎」
下を見たまま叫ぶ誉。頑なに引かない誉を、英雄はなだめようと優しく言う。
「だから、誉。また今度に……」
「……お願い」
それまでずっと下を向いて表情が見えなかったから誉が初めて顔を上げ、英雄を見つめた。英雄は誉の顔を見て呼吸を乱す。理由は単純だった。
誉の表情には怒りも、憎しみもなかった。片穂に対する負の気持ちなど、誉には一つもなかった。だから、英雄は誉の肩から手を離した。
「……そっか。そうだよな。わかった。行ってこい」
そして英雄は送り出す。いや、送り出すと言うよりは、止める術が見つからず送り出す他なかった、と言う方が正確だろう。
それは英雄が、自分への失望に潰されてしまいそうな、悲哀に満ちた目をした誉を見てしまったからだった。
「お、おい。英雄。どうしたんだ、誉ちゃん」
急に態度を変えた英雄を、そして悲しそうな顔で勝負を挑む誉を見て、司は理解が出来ずに取り乱した。
「悪りぃ、司、片穂ちゃん。誉との勝負、受けてくれねぇか?」
英雄の要求に、片穂は素直に頷く。
「……はい。わかりました」
「おい、片穂……」
引き止めようとする司に、片穂ははっきりとした言葉を放つ。
「お願いします」
普段の生活では見ることない、片穂の真剣な表情。この表情になっているということは、片穂は今、『天使カホエル』として司にお願いしますと言ったのだ。
そんな片穂を止める術を、司は知らない。
「……わかった。気をつけて」
司の言葉を聞くと、片穂は歩き出す前に司の目を見て、言う。
「司さん。一つ、お願いを聞いてください」
「ああ。言ってみてくれ」
「私のこと、嫌いにならないでください」
そう言って悲しそうに笑ってから、片穂は歩き出した。
「か、片穂……! どういうことだよ!」
返事はない。司の声を無視して、片穂は誉の元へと歩き始める。
「ついてきなさい。こっちよ」
先に歩き出す誉に片穂が続く。その二人に、英雄はついていこうとするが、
「英雄、ごめん。この勝負の観戦は遠慮してくれないか?」
「どうしてだよ」
「多分、俺たちが関わっちゃいけない勝負だ。あいつらだけに、任せよう」
これから始まるのはきっと、人間同士の戦いではない。そんな戦いに、絶対に英雄を近づけるわけにはいかない。そもそも一度記憶を消さねばならない状況になってしまったのだ。これ以上、英雄に迷惑をかけるわけにはいかない。
司の真剣な表情を見たからか、英雄はゆっくりと頷いた。
「……わかった。じゃあ、俺は帰りの準備でもしてるよ。また後でな」
ポケットに手を入れて、気怠そうに英雄は廊下を歩き始めた。寂しそうなその背中を見て、司は胸が締め付けられる感覚がして、グッと拳を握った。
「ごめんな、英雄」
英雄には決して聞こえない声でそういうと、司はすぐにスマートフォンを取り出し、電話をかける。
すぐに電話は繋がった。司はすぐに声を出す。
『導華さん、今、大丈夫ですか?』
『うむ。急にどうしたんじゃ、司』
『片穂と誉ちゃんが勝負するらしいんです。多分、導華さんには連絡した方がいいと思って』
司がそう言うと、導華は電話越しでも分かるくらいの緩んだ声で答える。
『別にあの二人なら勝負など、いつもことじゃろう。気にかけてやることなどなかろう』
『──あの二人、天使の力で戦う気です』
『……なんじゃと?』
導華の声が瞬間的に鋭くなったのを、司の右耳は感じ取った。
『二人とも何か思うところがあっての事だと思って、どうにも止められなくて……。すいません』
耳元で、深い深いため息が聞こえた。
『もういい。ワシが行こう。場所はどこじゃ』
『学校の屋上です』
『どうして人が多くいるところを選んでしまうのかのぉ。あの馬鹿どもは。……仕方がない。待っておれ、すぐに行く』
導華がそう言うと、一方的に通話は途切れた。スマートフォンをポケットにしまい、司は上を見上げる。
「じゃあ、俺もこっそり行くとしますかね」
司が歩き始めたちょうどその時、閑散とした屋上で、片穂と誉は向かい合っていた。
側から見たら、二人の間は十メートル以上離れているので、一目で昔からの友達同士とは思えないだろう。
二人の間に流れる沈黙に、片穂は小さく切れ込みを入れる。
「イーちゃん。何の勝負、するの?」
「聞かなくてもわかるでしょう? 早く剣を抜きなさい」
片穂は表情を変えない。真剣な中にほんの少しだけ寂しさが残るような瞳のまま、片穂は誉を見つめる。
「……天使同士が戦うのは、私たちの役目じゃないよ。イーちゃん」
「……うるさい。早くしなさい」
「でも……」
「いいから、闘えって言ってるのよ‼︎」
誉は叫び声を上げると、瞬く間にその姿を天使へと変え、その翼を大きく羽ばたかせる。
右腕を伸ばして手を広げ、誉はさらに叫ぶ。
「【滔碧之大鎚】‼︎」
碧く輝く巨大なハンマーを強く握りしめると、誉は地を蹴り片穂へ向かって勢いよく飛び出す。
「イーちゃん……」
片穂の表情に浮かぶ感情に、危機感はない。変わらず悲しそうな顔をしたままの片穂に、誉はハンマーを振り上げながら声を上げる。
「死ぬわよ! 早く剣を出しなさい‼︎」
片穂は、少しだけ唇を噛んだ。
「──【灮焔之剣】」
誉と同様に瞬間的に天使の姿になると同時に、片穂は黄金に輝く剣で誉の攻撃を防いだ。
ただ、一撃で誉の攻撃が終わることなどなく、更なる攻撃が片穂を襲う。
しかし、その打撃を片穂は全て見切り、剣でいなし、回避していく。この明らかに防戦一方の片穂を、誉は睨みつける。
「ただ防ぐだけじゃ意味なんてないわ‼︎ あなたの力はそんなものじゃないでしょう⁉︎」
声を出しながら打撃を続ける誉。それを躱し続ける片穂。そして、片穂は静かに口を開く。
「……本当に、いいの? イーちゃん」
「何を躊躇っているのかしら⁉︎ 私の覚悟はずっと前から決まっているわ‼︎」
「違うの、イーちゃん」
戦闘中だとは思えない片穂の声色に違和感を覚えた誉は、一度攻撃を止めて後ろへと下がる。
「だったら、何を──」
「天使としての勝負なら、私、イーちゃんには絶対負けないよ?」
片穂の表情からは、未だに悲しみの感情しか感じられなかった。




