その3「凡夫のプライド」
同時刻、場所は司たちとは別のもう一つの勉強会へと移る。
家具は少なめ。女の子が一人暮らしをしているとは思えないほどに華やかさのない部屋の真ん中で、何も敷かれていない裸のフローリングから感じる冷たさを気にもかけず、嘉部英雄は胡座をかいて座っていた。
シャーペンをカチカチとノックして準備を完了させると、英雄は自分を励ますように言う。
「よっしゃ。じゃあ、早速勉強しますか」
「ここまで自分の家のような雰囲気を出されると気にくわないわ。本当に図々しいわね」
呆れた顔をして誉はやれやれと肩をすくめた。
「そんなこと言わなくたっていいじゃねぇか。仲良くしようぜ」
ヘラヘラと笑いながら顔を近づける英雄に、誉は嫌悪感まるだしの鋭い視線を向ける。
「別に私はあなたと友達ごっこをするためにあなたをここに呼んだわけではないわ。あなただって佐種司と勝負するために数学をどうにかしなきゃいけないから、私に教わるためにここに来たんでしょう?」
そもそも、勉強会をしようと誘ったのは英雄の方だった。というのも、司たちが片穂や朱理と勉強会をするという話をしていたので自分も混ぜてもらおうかと思っていたら、横でその様子を物寂しげに見ていた誉が英雄の視界に入ったのだ。
きっと、勝負を挑んだ矢先に片穂と共に勉強をすることに躊躇いがあったのだろうと英雄は考え、誉を誘ってみたのだ。
誘った時も相変わらずツンツンとして可愛げはないようにも見えたが、少し押したら頷いてくれたので、どこか寂しい気持ちがあったことを確認できた英雄に嫌な気持ちはなかった。
「まぁ、その代わりに残りの教科全部俺が教えるっていう条件も付いてるから、大変なのは俺の方なんだけどな」
「うるっっっさいわね! 一々細かい事ばかり気にする男ね!」
「わりぃわりぃ。ほら、早くやろうぜ」
ぺこぺこと頭を下げて英雄が謝ると、誉は鼻から息を大きく吐いて腕を組んだ。
「全く……それで、どこから教えればいいのかしら」
「あ、意外とすんなりと教えてくれるのな」
「……次は拳で会話しようかしら」
「あ、すいません」
さすがに危機感を覚えた英雄は真面目に勉強を始める。
基本的に、英雄の学力は中の上だ。可もなく不可もない学力、と言いたいところなのだが、他に比べて数学がめっぽう弱い。数学さえ出来れば学年でも上の方までいけるのだが。
少し問題を説明して、英雄の学力を見た誉は数学だけが出来ない英雄を逆に感心したように見つめる。
「本当に苦手なのね。他の教科は平均以上なのに」
「俺は元々そんなに勉強出来るわけじゃねぇからさ。勉強しても昔から苦手な数学はこの有様さ」
「随分と謙虚なのね。数学以外ならこれだけ出来れば充分じゃない。卑下することはないわ」
素直に自分を褒める言葉を聞いて、英雄は少しだけ口角を上げて笑う。
「実はかなり勉強してたりするんだぜ? 飲み込みも早いわけじゃねぇから、みんなよりもかなりやってんだ。センスは無いんだよ」
元々、英雄は勉強自体が苦手だった。それでも、努力してこの地域でもそこそこな偏差値のある今の高校にギリギリでなんとか入ったのだ。他よりも優れているという感覚は無かった。
しかし、誉は真剣な表情で英雄に言う。
「なら尚更誇るべきだわ。出来ないことを出来るように努力することはとても素晴らしいことよ。胸を張りなさい」
「誉って、本当にたまにすげぇかっこいいよな」
「『たまに』が抜けていたら百点の受け答えね」
微笑を浮かべ、誉は少しだけ得意げな顔をした。自分への自信が感じられるその佇まいに、英雄の頭に一つ疑問が浮かんだ。
「なぁ、誉ってどうしてあんなにも片穂ちゃんとの勝負に拘るんだ?」
「勝ちたいから。それ以下も、それ以上もないわ」
予想してたよりも端的な答えが返ってきて、英雄は少し戸惑いを見せた。
「随分と単純な理由だな。もっとこう、昔からの因縁、みたいなのはないのか?」
「そんな大袈裟なものはないわ。強いて言うなら、私のプライドの問題よ」
「そりゃあ、俺が見てた限りは負け越してる感じだったしな」
ことあるたびに片穂に勝負を挑む誉だが、英雄が見ていた限り、ほぼ全て片穂の勝利だった。運が絡むじゃんけんでは何回か勝っていたが、それくらいしか勝った印象がないのだから、誉の勝ちは無いに等しい。
英雄の言葉で、誉は目を細めて呟くような声を出す。
「……そうね。今は、ずっと負け越してるわね」
「……誉?」
雰囲気の変わった誉を英雄が不思議そうな顔で覗き込むと、目線を下に、机を見たまま誉は口を開く。
「昔は、負けたことがなかったのよ。勝負をすれば必ず私が勝ってたわ」
「そんな昔からの仲なんだな」
「えぇ。生まれた時期が近いのは私とカホ……天羽片穂だけだったから。自然と話すようになったわ」
「そうなのか」
誉が少し言葉に詰まったのに英雄は若干違和感を感じたが、水を差すような空気ではなかったので英雄は素直に相槌を打った。
「私は小さい頃から勝負を挑んでいたの。大体三歳くらいね。その頃は、どんな勝負でも必ず私が勝っていたわ」
「えっ、そんな前から勝負挑んでたのか⁉︎」
想像以上に古い付き合いだったことを知って、英雄は驚嘆に声を上げた。
「……でも、ある日を境に天羽片穂は変わった」
(あ、無視された)
「五歳くらいだったかしら。あいつ、勝手に遠くへ行って一人で迷子になったのよ」
自分の世界に入ってしまっているのか、誉はどんどんと語り出す。
「でも優秀な姉を持っていた天羽片穂はその日のうちに無事帰ってきた。そこまでは特に気にすることはなかったのよ」
「じゃあ、なんで片穂ちゃんに勝てなくなったんだ?」
「変わったのよ。劇的に」
「片穂ちゃんが、か?」
英雄が問いかけると、誉はゆっくりと頷いた。
「えぇ。でも、身体的な変化は一つもなかった。変わったのは心よ。弱気で消極的だった天羽片穂は、たった一日で強気で諦めの悪い貪欲な天羽片穂になった」
「それだけで、勝てなくなったのか?」
この質問には、誉はすぐに首を横に振った。
「いいえ。元々才能の塊よ、あいつは。素質はあるの。ただ、それを覆い隠すほどに不器用だっただけよ。文化祭のメイドだって、初日こそ失敗していたけど、二日目は一度も失敗しなかったでしょ?」
「確かに、言われてみればそうだな」
英雄の記憶では、確かに片穂が二日目に大きなミスをした記憶はない。むしろ接客も上達していたため、客の回りも速くなっていた。
英雄は、誉の放つ言葉になんとなく力が入っているような気がした。
「だから『出来るまで続けるメンタル』が備わった時点で異常に伸びるのは当たり前なのよ。あいつは選ばれた側よ」
形だけでも続けていた誉の勉強の手は止まっていた。目線はノートだが、見つめているのはもっと遠くの何か。その何かを見つめたまま、誉は続ける。
「その日から私の連勝は止まり、徐々にあいつが勝つ回数が増えていった。そして気がつく頃には、私は天羽片穂に勝てなくなった」
司がいつか、勝ち星の数だけなら誉が上だと言っていた。それはつまり、片穂の心が変わる前に誉が積み重ねてきた勝ち星たちのこと。今は実力の差が逆転してしまっているから、勝ち星『だけ』などという言葉遣いだったのだろうと、英雄は思った。
どんな声を誉にかけたらいいのか、英雄には分からなかった。簡単に次は勝てると励ますのは違うと思った。無責任に励ましの声をかけるのは、今まで勝とうと努力してきた誉を愚弄するかもしれないから。
考え込み、口を真一文字に結ぶ英雄の顔を見て、誉は自分を嘲るように笑った。
「滑稽でしょう? 次は勝てると見栄を張って、無意味に敗北を重ねるこんな私は」
英雄は誉の顔を見た。寂しそうな、悲しそうな、自分のことを好きになれない人の顔だった。
そんな誉を見ていたら、英雄はいつのまにか無意識に口を開いていた。
「いいや、俺は好きだぜ。おまえの真っ直ぐな心」
「なっ……⁉︎ 何を……!」
一気に紅潮して誉は目を丸くした。英雄は自分でもなんでこんなことを言ったのか分からなかったが、それでもさらに言葉が止まることなく溢れ出す。
「だって誉は次は勝ってやるって心から思って片穂ちゃんに勝負を挑んでるんだろ?」
「そ、それはそうだけれど……」
「だったらいいじゃねぇか。その負けは無意味に重ねた負けなんかじゃない。勝ちに続く、意味ある負けだ」
言ってから、英雄はどこかのテレビでこんな台詞を聞いたことがあるような気がした。でも、これが本心なのは変わらない。
別に命を賭けた戦いではないのだ。負けたって、強くなってまた挑めばいい。そう、英雄は本気で思った。
しかし、明るくなる気配など微塵もなく、誉は俯いたまま呟く。
「……だったら何よ」
「だから、今は負けたって──」
「あいつを越さなきゃ、私の努力に意味なんて無いわよ‼︎」
突然、誉は英雄に向かって怒鳴りつけた。睨みつけるその目の中で小刻みに震える黒目が、目尻に滲む透明な液体が、やり場のない怒りをこれでもかと感じさせた。
触れてはいけない場所に触れた感覚が一切なかった英雄は、戸惑いながら誉を見る。
「ほ、誉……?」
はっ、と我に帰った誉は強張った肩から力を抜いて座り直す。
「……ごめんなさい。取り乱したわ」
「い、いや……俺は気にしてねぇけどよ」
「……情けないわね、私。あなたに当たった所で、強くなんてなれないのに」
誉は学校では一度も見せたことのない、全てを諦めたような腐った目をしていた。
「いいよ。悔しいんだろ? 俺で良ければいくらでも聞くさ」
「……悔しいなんて、もんじゃないわよ」
小さく呟く誉の目から、ポツリと一つ、涙が溢れた。
「無力な自分が恥ずかしい。勝てない自分が情けない。弱い自分が憎たらしい。私には恵まれた才能なんてない。強い自分なんてどこにもいない。無意味なのよ。全部全部全部……‼︎」
一粒の涙が落ちたのを皮切りに、誉の目からボロボロと涙が流し始める。勉強をするために握っていたはずの鉛筆は、誉の指で強く握られ、まるで軋む彼女の心のように鈍い悲鳴を上げていた。
初めて見る、弱気な誉。自分が想像していた誉よりもずっと脆い彼女の心を見て、英雄は静かに拳を握った。
「……だったら、勝とうぜ。誉」
「ぇ……?」
「勝たなきゃいけないなら、勝とうぜ。負けが無意味なら、勝とうぜ。俺も一緒に戦うから」
「……」
何かを言おうと誉は口を僅かに開いたが、声は出ていない。そんな誉の目を見て、英雄は自分の胸を握った拳で軽く叩く。
「俺は司を超える。んで、誉は片穂ちゃんを超える。これが、『英雄』への第一歩だ」
英雄は今日一番の笑顔で、誉に言った。
自信に満ちた英雄の顔を見て、誉は呆れたように吐き捨てる。
「…………バッカみたい。滑稽よ。何度負けても挑むだなんて、泥臭いにも程があるわ。大馬鹿よ。愚の骨頂よ。『英雄』なんてこのご時世にいるわけないじゃない」
バカバカしくて堪らないと、たかがテストで何が英雄だと、夢を見るのもほどほどにしろと、誉は思った。
だから、彼女は笑った。その方がなんとなく自分らしい気がして。
「……でも、そんな馬鹿も……悪い気はしないわね」
「だろ?」
少年のように笑う英雄に、誉は手を出す。開かれたその手は、両者の決意を示す、誓いの証。
「ええ。戦いましょう。一緒に」
「おう。頑張ろうな」
握った互いの手を強く握って、誉は言う。
「あなたが言ったんだから、必ず勝ちなさいよ」
「ははっ。負けっぱなしの誉には言われたくねぇな」
眉間にシワを寄せて、誉は英雄を睨みつける。
「本当に一言余計な男ね、あなたは」
そして、ぷっと吹き出した英雄につられて、誉も笑い始めた。
何が可笑しかったのか、自分ではよく分からなかったが、何故か笑わずにはいられなかった。
笑い終わって、二人は勉強を再開する。
自信の無い表情をした二人は、もうどこにもいなかった。




