その8「世界を守る最短の方法」
まるで冗談を言われたかのような顔をして、初知は笑った。
「あり得ないわ。治すことなど不可能だわ。『器』以外の兄妹は必ず死ぬ。それは決まりきった運命だもの」
そう、運命だった。佐種司が五歳で命を失くすことは、決まっていたのだ。
ただ一つ、天使という要素の存在を考慮しなければ。
「その運命にもし、天使が介入しておったら、どうじゃ」
なおも初知は否定を続ける。
「それでもあり得ないわ。たとえ天使が介入したとしても、並みの天使では決して治すことなど出来ないわ。命の搾取は魔王の呪いのようなものよ。それを捻じ曲げるのなら、それこそ神に匹敵する力でないと——」
「……」
導華はひたすらに初知の目を見つめる。たった数秒間だが、声に出さずに二人は会話をしているかのように視線を合わせる。そして徐々に、少しずつ初知の笑みが消え始め、ガタンッ! と大きな音を立てて立ち上がった。
「まさか……【神の奇跡】を使ったとでも言うの⁉︎ この天使が⁉︎ 一体この天使はなんなのよ‼︎」
突如声を荒らげて片穂を指差す初知。その異常な動揺に、導華は落ち着いて答える。
「『今はまだ』ただの天使じゃ。それ以上でも、それ以下でもない」
ただそれだけ伝えた導華。しかし、今の説明で納得できないのは片穂の方だった。
「お姉ちゃん……? 何のことを言っているの? 私、司さんを助ける時に、何をしたの?」
片穂の中にあの時の記憶は鮮明に残っている。当たり前だ。人生が変わった日なのだから。でも、ただ一つ分からなかったのは司を治したあの力だ。あの時は病気だと思っていたが、実際はそれ以上の運命を覆す力だった。しかしそんな力を使った覚えも、会得した覚えも、片穂にはない。
「そんなこと、今はどうだっていい‼︎ それよりも、問題はこの佐種司が『器』ではないことなのよ!」
戸惑う片穂を尻目に、初知の向ける矛先が司へと変わった。大切な人の仇を睨むような、そんな目。ほんの少し揺れる黒目に籠る感情は司には判断しきれなかった。
「俺が違うってことが、そんなにも問題なのか……?」
初知はまるで悪魔のように顔を歪めた。
「…………そうよ。問題よ‼︎ 私が……私のずっと考えていた計画が台無しよ。佐種美佳……どれだけ世界を危機に晒せば気がすむの……!」
「何を言っている」
一つ息を吐いて心を無理やり落ち着かせた初知は、司たちを睨みつけながら口を開く。
「……元々隠すつもりはなかったし、気になるなら教えてあげるわ」
大きく深呼吸をして息を整えた初知は再び椅子に座り、コーヒーカップを手に取り、中身をかき混ぜ始める。
喫茶店で暮らしているから、このような動作で心を落ち着かせているのだろうと、司は思った。
数秒立ってから、初知は手に持っていたコーヒーをテーブルに置いた。ずっとかき混ぜる動作をしていたからか、カップの中でコーヒーは渦巻き、回転していた。それを見つめながら、初知はカップを軽く叩く。
そして、初知は幸せそうな笑顔を浮かべた。それはとても狂気的で、そして美しい笑顔だった。
「——私の目的は……佐種司、つまりサタンの『器』を殺すこと。あなたを殺して、魔王を下界に干渉させることなく、この世界を守ってみせる」
瞬間、寒気。おぞましいほどの殺気が身体中を貫通した。体が動かない。怖い。魔女という存在の異質さが再び司に襲いかかった。
マズい。殺される。殺される殺され——
「司さんッ‼︎ 後ろへ‼︎」
咄嗟に片穂に襟筋を掴まれ、椅子から無理やり移動させられた司は、臨戦態勢となった『天使』の後ろへ……
「…………あれ?」
「どういうことじゃ……これは……‼︎」
司の前で立つのは人間としての片穂と導華。剣を構える、弓を引く腕だけのみの人間。その手には何もなく、白銀の翼も見えなかった。それはつまり天使の力が発動していない、ということ。にわかには信じがたい。しかし、二人も自分たちが力を使えていないことに動揺している。
慌てる片穂と導華を、恍惚とした表情で魔女は見つめる。
「どうしたもこうしたも、あなたたちのその状態が真実じゃない。何を驚く必要があるの?」
「天使に…………なれない……⁉︎」
「魔女があなたたちに殺される原因になる要因の一つよ。私は……魔女は、生身で天使と戦う力を持つのよ」
「これが、魔女……!」
天使に抗う力を持った、悪魔への高い適性を持つ眷属。それが魔女。その力は、天使の力すらも封じ込める。
「そんな顔する必要はないわ。魔女は天使や悪魔とは違い、人間の延長線にいる。あなたたちみたいに姿を変えて戦うこともできないし、制限なしにどんどんと力を使えるわけではないわ」
初知の説明を聞いても一向に警戒心を解かない二人。その様子が不満なようで、初知は椅子に腰かけたまま二人に告げる。
「とりあえず座りなさい。私だってずっと佐種司がサタンの『器』だと思って計画を練ってきたから動揺してるのよ。前提が破綻した以上、これからのことはまた考えなくてはならない」
「だからといって、司さんを殺すなんて言う人の言葉を素直に聞けるわけないじゃないですか!」
珍しく片穂は敵意を露呈させた。
「まぁ、それもそうね。あなたたちの力を無効化する結界を張っている以上、私がこの場で負けることはないもの。いいわ。その場でいいから、もう少しお話ししましょう」
笑みを浮かべた初知は座ったまま、空のコーヒーカップを持って再び中をかき混ぜるような仕草を始める。そして、空のカップをコン、とテーブルに置いた。
「あなたたちの警戒心を解くためにも、もう少しだけ魔女の力について教えてあげる」
依然として二人は初知を睨みつける。その様子は全く気にならないようで、そのまま初知は続ける。
「もう一度言うけれど、私はれっきとした人間よ。あなたたちよりも下の次元の存在なの」
「力を無効化する結界と言っておったな。それはどういうことじゃ」
「その名の通り、この喫茶店自体を天使の力が介入できない結界で覆ったのよ」
「……いつからじゃ」
「それは秘密よ。言うならば『さっき』かしら」
得体の知れない、魔女の力。魔女がいつの間にか発動した結界によって、片穂たちは天使の力を封じられた。つまり、片穂と導華は生身で武器もなしに戦わなくてはならないのだが、
「そんなにピリピリしなくてもいいのよ。佐種司に敵意を向けたら何を言う暇もなく攻撃されると思ったから結界を張っただけ。今日はこれ以上力を使うつもりもないし、力を使う条件も整っていないわ」
「他に話すとしたら、どんなことなんだ?」
「そうねぇ。あなたたちとはあと少しだけ話したいことが残っているから、興味がありそうな話題から振ってみようかしら」
「……言ってみよ」
もう一度、初知は笑った。
「佐種美佳の安否と彼女の所在について、かしら」
「——ッ‼︎」
反応せざる終えない、佐種美佳という名前。幼い頃に姿を消した親の名前。自分が片穂と出会うきっかけになった親の名前。サタンの『器』という運命を兄妹に負わせた親の名前。そして、初知が今ここにいる理由となった、『神に愛された女』の名前。
無視していいような名前ではなかった。
「そこに座るつもりがないなら私は話さないわ。もう帰っていいわよ。今、ここを覆っている結界は出入りが出来るようにしてあるから」
一つ息をしてから司は二歩前へ、そして片穂と導華の前に出る。
その背中を見て、片穂の表情が少し変わった。
「司さん……」
自分を殺すと言った人の前に無防備で出ていく愚かな行為。二人の心配を裏切ったそうな感覚。でも、それでも——
「ごめん。俺は訊きたいんだ。母さんと、父さんのこと」
司の目を見て、導華は体から少しだけ力を抜いた。
「わかった。ワシも少し冷静になるとしよう」
そう言うと、導華が最初に椅子に戻った。それに続くように、司と片穂が座る。
「ありがとう。じゃあ、先に結果から話すわ」
初知は少しだけ遠くを見た。異常に長く感じたたったの数秒間。その数秒を経て、初知は口を開く。
「——佐種美佳は、生きている」
十年前に回り始めた運命の歯車は、今も錆びることなく回っていた。




