その11「文化祭」
まだ少し暗がりが残る朝。いつもとは違った鼻腔に染み込むような空気の匂い。最近は暖かくなってきているが、この時間帯は気持ちの良い風が体を撫でてくれる。
登校路で優しい風を手を広げ感じる片穂は上りかけの太陽を眺めながら口を開く。
「いいですね。この、特別感があるいつもより早い朝って」
共に歩く華歩が、この言葉に答える。
「そうだね。片穂ちゃんは行事とか初めてだろうし、私もちっちゃな頃は好きだったな」
「俺は高校に入るまで大人数でワイワイと行事とかやったことなかったから、今でもワクワクするぜ」
都会二年目の司も、片穂と同様に興奮を覚えていた。自然と口角が上がる司を見て、朱理が微笑む。
「それは大変素晴らしいことですわ。司様が心から楽しめるように、私も精一杯奉公させていただきますわ」
「お、おう。ありがとう」
「恐縮でございますわ」
先日教室で司を待っていた朱理が司たちと共に登校する理由は簡単で「朝早すぎてまだ門が開いていなかったから」だそうだ。
ちなみに今日の集合時間は六時半(英雄が念には念を、と限界まで早く設定したので恐らく半分近く遅刻するとは思うが)であり、開門は六時。一体いつも何時に家を出ているのだろうか。
「片穂ちゃん。今日は導華ちゃんって来るの?」
「はい! でも、『こんな朝早くから動けるわけないじゃろうが。昼になったら顔を出そう』って言って二度寝してました!」
「ふふっ。そっか。ありがとう」
「片穂……それ、華歩に言ったのバレたら導華さんに怒られるぞ」
「大丈夫です! お姉ちゃんには聞こえてませんから!」
「俺は知らないからなー」
導華に怒られると思うだけでも寒気がした司は、今のうちに無干渉を公言した。その司の視界に、一人で小さく笑う華歩が映った。
「な、なにニヤニヤしてんだ、華歩」
「な、なんでもないよ! 何も企んでないから!」
「本当に何も企んでないことを祈ってるよ……」
そして、司たちが学校に着いたのは六時半に入る少し前。完璧な時間調整である。案の定クラスの半分以上は間に合っていないが。
しかし、やはり誉は時間通りに来ており、朝からガミガミと片穂に突っかかってきた。そんな事をしているうちに、六時半になったのを確認すると、早朝から元気溌溂の英雄が拳を高々と掲げる、
「皆の者! 用意はいいか! 覚悟は決めたか! 今こそ我らの力を一つにして、集客数一位を二年生にして勝ち取ってみせる!」
戦でも始めるのか、というほどの気合いに、誉はやれやれと腕を組んで首を振る。
「なぜそこまで息巻くのかしら。さすがにこんな朝から元気すぎよ」
「おぉー! 頑張りますぅー!」
冷めた誉とは反対に、片穂は楽しそうに跳ね上がった。
「片穂しか乗ってくれてないけど、いいのか?」
「気にしねぇさ。なんたって俺は英雄だからな!」
「その因果関係は天地がひっくり返ってもありえねぇからな」
「うるせぇ! こんな時にテンション上がらねぇ方がおかしいだろうが! つべこべ言わずに準備だ!」
「はいはい。りょーかいしましたよ」
司との会話を終えると、英雄は今いる人数で準備を始めるために役割を振っていく。
「じゃあ、司たちはカレーと味噌汁の準備を頼む。荷物は向こうに置いてあるからさ。調理室の鍵も借りてある」
カレーや味噌汁を商品とする申請や、場所の確保は、昨日のうちに英雄が全てやってくれた。ギリギリだったのでかなり強引な説得をしたらしいが、それでも通すのは英雄の人望だからこそだろう。
調理室の鍵を受け取った司は、手の中でジャラジャラと鍵を鳴らす。
「料理部も使うんじゃないっけ?」
「全部使うわけじゃないから文化祭が始まる前に引き上げてくれれば大丈夫だってさ」
「なるほどね。上手くやっておくよ」
「おう。任せた」
「よし、じゃあ行こうか」
司が一歩踏み出したところで、華歩が引き止める。
「あ、待って。片穂ちゃんと誉ちゃんにメイド服を着てもらいたいの。キツイところあったら、整えちゃうから」
華歩が袋から取り出したのは、見事な装飾が施されたメイド服。派手過ぎず、しかし地味過ぎず、絶妙なバランスを保つその服を、恍惚とした表情で片穂は受け取って見つめる。
「はぁあ〜……可愛いですぅ……」
「はい、誉ちゃんも」
「なかなかにいい出来じゃない。褒めてあげるわ」
誉がメイド服を眺めているほんの少しの間に着替えを終えた片穂が心を弾ませながらクルリと回った。さすが華歩が丁寧に作ってくれただけあって、丈夫な上に片穂の体に見事にフィットしていた。
「司さん! どうでしょうか!」
「おお。似合ってるぞ」
「ありがとうございます!」
まだ数着ほど残っているようで、華歩は朱理に合ったサイズの服を取りだす。
「雨谷さんも着る? まだ何人分かあるけど」
「いえ、私は元々別のクラスですから、あまり目立つような役割は遠慮させて頂きますわ。それに私は本日、司様の補助に徹するつもりですから」
「そ、そっか」
残念そうに袋に服を戻す華歩を見て、司はふと問いかける。
「華歩は着ないのか? せっかく作ったのに」
「え……? 私はいいよ。そんな柄でもないから」
手を振って遠慮する華歩だったが、その会話を片穂が聞きつけたようで、ぐいぐいと華歩に近づく。
「そんなことありません! 華歩さんだって、きっと可愛く着こなせるはずです!」
「ちょっ……片穂ちゃん?」
「すいません! 華歩さんのサイズに合うもの物はありますか!」
片穂がクラスメイトに呼び掛けると、華歩の袋から丁度良いサイズのメイド服を取りだし、片穂に手渡した。
「さぁ! 華歩さん、お着替えです!」
「つ、司くん……」
涙を浮かべながら助けを請う視線が自分の元へ向けられていたが、司は見て見ぬふりをして片穂に任せることにした。そして数分経って帰って来たのは、もじもじと恥ずかしそうにしながら教室に入ってくるメイド姿の華歩だ。
「わ、私はこんなの似合わないよぉ……」
「ははっ。導華さんと同じこと言ってるぞ」
「導華ちゃん、こんな気持ちだったんだね……」
自分のしてきた事の報いをこんな朝早くから華歩が噛みしめていると、着替えを済ませた誉が堂々と入って来た。
「天羽片穂! どうかしら、私の着こなしは!」
「イーちゃん、すっごく可愛い! とっても似合ってるよ!」
「ふふん。当たり前よ」
腕を組んで鼻を鳴らす誉を見て、英雄も声を上げる。
「おお! 似合ってんじゃねぇか! 本番も頼むぜ、誉」
「もちろんよ。私に任せなさい」
「頼もしさマックスだぜ!」
「じゃあ俺は調理室に行ってくるぞ。出来たら連絡するよ」
「よっしゃ! 任せたぜ! 相棒」
ピンと親指を立てて決め顔をする英雄に教室の装飾を任せて、司は調理室へと向かった。
司は調理室の鍵を開けて、中へと入った。教師や料理部もまだ来ていないようだ。両手に抱えた大量の食材を台に置くと、司は「よし」と気合を入れる。
「それじゃあ、どんどん作るぞ。制限時間は今から文化祭開始までの約二時間。ちゃんとやれば間に合うから、しっかりやろう」
「はい!」
「かしこまりました」
ここに来ているのは司、片穂、朱理、誉の四人だ。本当はもう少し人がいたほうがいいが、割り当ての都合上この采配になった。実際は司と朱理の二人がいればなんとかなるのだが。
「片穂はカレーの具材を洗ってくれ。俺と雨谷さんがカレーの調理全般。誉は味噌汁を頼む。かなりの量作るから、分量とか正確にな」
「わかったわ」と頷く誉に司は続ける。
「今回は速さで勝負せずに完璧な分量、ちゃんとした味で出来るかを勝負だ。どれだけ早くても二時間。遅くても二時間後だ。いいかな?」
「面白いじゃない、受けて立つわ」
「なら、試合開始だ」
司の合図で、一斉に調理が始まる。司と朱理の二人だけであるのに、食材がどんどんと細かく切られていく。決して質を落とさぬように完成までの道を最短距離で走っていく。
万一にも料理が闇堕ちしないように、片穂を食材から離してその他の雑用を任せている。途中で皿を割っていたが、誰かに気づかれる前に朱理が割れた皿を闇に葬ってくれたから大丈夫だろう。
そして、作業工程の全てが終わる。
大きく深呼吸をして司は紐が切れた人形のように脱力して椅子に腰を下ろした。
「残り時間、十五分。完璧だよ。お疲れ様」
「はふぅ……こんなにたくさん作るのってとても大変ですね……」
正確には片穂は調理には関わってはいないが、作った気分にさせてあげよう。
「はっ! 情けないわね! 私はまだまだ余裕よ!」
「じゃあ、もう一つ味噌汁作るかい?」
「……遠慮しておくわ」
微笑してから、司は皆に言う。
「とりあえず午後の分は端に置かせてもらって、午前の分を持っていこう」
「了解致しました。では後片付けは全てやっておきますので、司様は教室へ行ってください。終了次第、私も戻ります」
「本当にありがとう。めっちゃ助かる」
「とんでもありません。何かあればご連絡下さい。司様のケータイに私の電話番号は入れておきましたから」
「……いつの間に?」
「秘密、ですわ」
朱理は可愛らしく指を唇に添えて答えた。若干恐怖を感じたが、今は詳しく聞いている暇はない。
「その話はまた後で聞くよ。片穂、誉ちゃん、戻るよ」
それぞれに返事をする二人と共に、司は教室へと歩いていき、片穂が先導してドアを勢いよく開けた。
「ただいま戻りました!」
教室の装飾は完成しており、机の配置も小さな飲食店のように変わっていた。今は全ての工程が終わり、最後の清掃に取り掛かっているところだった。
大量のカレーの入った鍋を汗だくで運んだ司に、英雄は笑顔で迎える。
「完璧なタイミングだぜ! 向こうに置く場所は準備しておいたから、そこに持っていってくれ」
司が鍋を移動していると、変貌を遂げた教室を見た片穂が目を輝かせる。
「凄いです! 凄いです! いつもの教室とは思えないです!」
「だろ? みんなが頑張ってくれたんだ。最高に文化祭にするぜ」
「はい! 頑張ります!」
「誉も頼んだぜ。集客数一位を目指そう!」
「もちろんよ。私に任せなさい」
一息ついた司は、もう一人の存在を思い出した。
「そうだ。雨谷さんの方も手伝わないと……」
司がスマートフォンを取り出して電話をかけようとした瞬間に、教室のドアが開かれた。
「ただいま戻りました。遅くなり申し訳ありません」
「……速すぎるよ」
「恐縮でございます」
深く頭を下げると、朱理は英雄に視線を移して、
「嘉部さん。白米の準備も整ったらしいのでそちらをお願いしますわ」
「了解した!」
クラスメイトに頼んで白米を運んでもらい、これで完全に文化祭のスタートに間に合った。
パンッ、と手を叩くと、英雄は大きな声で皆に話しかける。
「よし、準備完了だ! みんな、本当にありがとう! 本番はこれからだけど、全力でやっていこう!」
ここまで時間と手間をかけて準備したため、英雄と共に拳を挙げる人も増えていた。
司もこれからの楽しみを想像して自然と笑みがこぼれる。
しかし、この日を境にして、佐種司を中心に複雑に絡み合っていた歯車が噛み合い、動き始めようとしていた。




