その9「とある朝の教室」
英雄と別れた後は普段と同じように帰宅、就寝、起床。そして登校だ。あの一日で様々な事があったが、あれから二日経過し、文化祭は明後日まで迫っている。今日までの二日間は、まぁ大変だったとだけ伝えておこう。
いつも通りに登校した司がまだ少し感じる眠気がどこか遠くへ行ってくれることを願いながら教室のドアを開けると、
「おはようございます。司様。本日も良い日でございますね」
「えっと……雨谷さんってクラス、違うんだよね?」
「それが、どうかなさいましたか?」
司の目の前に礼儀正しく立つのは雨谷朱理。実は昨日、一昨日とで司が朝、自宅の玄関のドアを開けると、そこで既に彼女は待っており、片穂と朝早くからバチバチと火花を散らすものだから「出来れば学校で待ってて欲しいんだけど」と伝え、朱理の残念そうな顔に感じた罪悪感を心の片隅に放置したまま司は学校に来たのだが、まさか教室で彼女が待ち構えているとは思わなかった。
当たり前ではないですか、と表情で主張してくる朱理に、司は諦めを言葉に染み込ませて言う。
「いや……やっぱいいや」
少し目線を逸らすと、朱理の後ろで手を振る男が一人。
「司! 久しぶりだな!」
「おう、おはよう」
「おはよう。英雄くん」
司と共に登校してきた華歩も英雄に笑いかけた。
「おう。華歩か、おはよう」
二人に挨拶を交わした所で、いつも司の隣にいるはずの人物がいないことに英雄は気付いた。
「あれ? 片穂ちゃんは?」
「あー。あいつらならもうすぐ来るぞ」
「あいつ『ら』?」
少し苦笑いしながら答えた司の言葉の中に違和感を覚えた英雄が首を傾げると、バタバタと騒がしい音が廊下から響いてきた。
バンッ! と大きな音を立てて教室に入り、汗を流しながら誉は声を上げる。
「はっ! 遅い。遅すぎるわ! そんな余分な脂肪が胸についているから遅いのよ!」
誉の言葉に返事をするのは、息を切らし、重い足取りで胸についた余分な脂肪を揺らしながら教室に入ってくる片穂だ。
「い、イーちゃん……速いよぉ」
「今回も、私の勝ち……ね」
勝ち誇っている割には息切れしている誉に、司は不思議そうに問いかける。
「何も校門から教室までを競争することなくねぇか?」
「うるっっさいわね! 別にあなたには関係ないでしょう!?」
「あ……はい」
鋭く指を差してくる誉の威圧感に圧倒された司を見て、誉は鼻息を荒くして腕を組む。
「全く。カホ……天羽片穂と契約したぐらいで図に乗るんじゃないわよ! ふんっ!」
(え? なんで俺、ちょっと質問しただけでこんなに怒られてんの?)
女心はよく分からないな、と司が思っていると、自分の席に歩いていく誉の視界が英雄を捉えた。
「あら、英雄じゃない。おはよう」
「おう、おはよう。誉」
「あれ? お前らそんな仲良かったっけ?」
「あぁ。この前の帰りにちょっとな」
「なんだそのラブコメの主人公みたいな意味ありげな言葉。気持ちわり」
「友人からのそんな辛辣な言葉はラブコメじゃあ聞かねぇな!?」
誉ともすぐに打ち解ける英雄の人柄に感心しながらも冗談を言う司は、訂正を加えながら笑う。
「冗談だよ。仲良くなってるならよかった。誉ちゃんって、片穂以外にあんまり誰かと話してる所を見ないからな」
「そうなのか」
確かに誉は普段、片穂に対して勝負勝負と迫るのみで、周りを寄せ付けないような雰囲気を放ってしまっており、片穂や司以外の生徒と話しているのは殆ど見ていない。
今も誰とも話さずに自分の席に座っている誉を英雄が見ると、彼女はその視線に気付いたようで、
「何かしら?」
「な、何でもねぇよ」
ぷいっと横を向く英雄の隣で、司は少し頭を掻きながら、
「雨谷さん。クラスが違うんだからそろそろ戻らないと遅刻扱いになっちゃうけど……」
「構いませんわ。司様のお側にいれるならば遅刻の一つや二つ、いくらでも受け入れますわ。むしろ欠席となってしまっても――」
「い、いいから戻って。放課後にまた連絡するから」
これ以上はマズイと感じた司は朱理の言葉を遮った。
「司様の命令とあらば仕方ありません。また後ほど参上致しますわ」
「あ……はい」
「それでは、失礼致します」
深く頭を下げると、上品に朱理は廊下を歩いていった。
「司さん! 今日の文化祭の準備は一体何をするのでしょうか?」
好奇心に目を輝かせた片穂の問いかけに、英雄がキリっとした表情で代弁する。
「ふふふ……片穂ちゃん。それはもう決めてあるんだ」
「なんで毎回お前は訳の分かんないタイミングで決め顔するんだ」
司の言葉を無視して、英雄は続ける。
「今日はな……」
そう言って放課後に英雄が皆を連れてきた場所は、学校の家庭科室。つまり調理室だ。英雄から軽い説明を受けた司は、簡単な要約を口にする。
「それで、メイド喫茶で出す料理の試作をするってことか」
「そういうことだ。レトルトカレーとかでもいいと思ったんだが、何かと予算がなくてな。手作りで出来るならそっちの方が安いし、それに越したことはないんだ」
「作る料理はバラバラでいいのか?」
英雄は頷いた。
「おう。みんなの得意な料理を作ってもらって、美味しかったら予算と相談しながらそれでいこう」
「てか、勝手に調理室借りていいのか?」
授業で使うならまだしも、放課後に教師がいない調理室で生徒のみ。さすがに怒られるのではないかと不安になったが、英雄は既に手を回しているようだった。
「前に家庭科の先生の手伝いしたからそのお礼で使ってもいいってよ。俺なら任せても大丈夫でしょってな。特別なんだぜ?」
「本当に素晴らしい信頼だな。羨ましいよ」
「だろ?」
爽やかにウインクする英雄を軽くスルーして、司は準備を始めた。今ここにきているのはいつも司の周りにいるメンバーで、その他のクラスメイトたちは内装や洋服制作にあたってもらっている。
動き始めた司とは対象に、いまいち何をするのか分かっていない片穂は、司に声をかけた。
「司さん。お料理ですか?」
「おう。そうだぞ」
「おぉ! 私、頑張ります!」
意気込む片穂に、誉はビシッと指を差す。
「天羽片穂! 私という存在を忘れてもらっては困るわ! 料理も私の方が出来るに決まっているわ!」
「私だって最近は司さんやお姉ちゃんのお手伝いをいーっぱいやってるから、上手くなってるもん!」
張り合う二人を横目に、朱理は司に近づいた。
「司様。私も司様のために一品、作らせて頂いてもよろしいでしょうか」
「できれば文化祭で出せる料理を作ってほしいんだけど……」
「かしこまりました。それではメイド喫茶に相応しい料理を作らせて頂きますわ」
「お、おう……」
朱理はスカートの両端を掴んで優雅に頭を下げると、早速調理に取り掛かった。
これ以上の人数は必要ないと判断した華歩は、自分の仕事を進めるために調理室を出る。
「私は教室でお洋服作ってくるから、何かあったら呼んでね」
「色々とありがとうな。さんきゅ、華歩」
「うん。どういたしまして」
歩いていく華歩を見送ると、英雄は「よし」と一言口にして皆を見る。
「それじゃあ、ぼちぼち始めようか」
英雄の声を聞いて、片穂はギュッと拳を握って言う。
「はい! 頑張ります!」
この片穂の気合いに危機感を覚えなかったことが悪手だったことに、この時の司は気付かなかった。




