終章「日下之華」
朝が訪れていることに気付いたのは、部屋のカーテンから差しこんだ朝日が閉じた瞼の上から不意に目を刺激した時だった。
ずっと部屋に閉じこもる生活が続いていたからか、朝早くに起きるのはどうにも苦に感じる。
ベッドの中で薄い毛布に包まる少女は、目を覚ました後も体を襲い続ける眠気と戦い、一分ほどの死闘の末にゆっくりと体を起こす。
少女の寝ている場所は、生まれてからずっと自分が育ってきた部屋のベッド。部屋の中には少女が横になっているベッドや勉強机や本棚など、年頃の女子にしては少し素朴な雰囲気ではあるがどれも何年も共に過ごしてきた思い入れのある家具ばかりが並んでいる。
そして、その部屋の隅にあるのは桃色に染まった星型の花。丁寧に手入れされているのか、無数の花々は静かに、だが美しくその場に佇んでいた。
その横にあるのは小さな写真立て。それに映るのは幸せそうな四人の家族。それを眺めながら、華歩はゆっくりとベッドから起き上がる。
華歩がカーテンを開くと、眩しいほどに朝日が差し込み、華歩は思わず目を細める。目に刺さるような感覚は次第に消え、温かい日差しが華歩を包み込む。
ようやく眠気が消え始めた華歩は、二階にある自室を出て一階のリビングへと降りた。
扉を開けても、そこには誰もいない。一人暮らしをしている割には随分と広い家だが、華歩は気にせずに生活を続ける。
華歩は冷蔵庫を開けると、昨晩作って置いた朝食を電子レンジで温め始める。朝食が温まるまでの間、華歩はリビングにある椅子に腰かけて遠くを見つめる。
小さな天使と契約を結んでから、約一週間が経っていた。あれから華歩は親戚と話をして、もう気持ちの整理がついたこと、そして、この家を売らずに取っておきたい、という旨を伝えた。
親戚たちは一目見ただけで華歩の調子が良くなったことが分かったらしく、とても喜んでくれていた。家を残してくれという願いも、家賃は任せなさいとまで言ってくれた。さすがに頼りすぎる訳にもいかないのでそのうちバイトを始めようと思っているのだが、色々と落ち着くまでは頼ろうと思う。
そして、前にいた部屋からこの家まで荷物を運ぶのを手伝ってくれたのは、言わずもがな大切な友人たちだ。司の友人である英雄も二つ返事で手伝いに参加してくれたため、一日のうちに荷物を全て整理することができた。
さらに、もうひとつ変わったことと言えば、自分が悪魔と戦う使命を負ったことだった。
正直、実感はない。あの時は色々と必死で細かなことを考えていなかったが、今から嘘だと言われてもきっと信じてしまうだろう。ただ――
「……」
華歩は胸にかかる銀色の素朴なペンダントを手に取る。弟と交わした言葉は、約束は、間違いなくそこにあった。
そんなことを考えている内に高い金属音が鳴り、朝食の準備が終わる。一人で食べる朝食だが、寂しいと思うことはもうなくなった。華歩は黙々と朝食を食べ始める。
最後の一口を食べ終わった瞬間に、インターホンの音が部屋の中に響き渡った。
こんな朝早くにどうしたのだろう、と華歩は怪訝な顔をしながら受話器を取ると、
『おはようございます!』
「か、片穂ちゃん……? お、おはよう」
自分が声を発する前に溌剌とした声が鼓膜に突き刺さった。それだけで声の主が誰かは判断できたので、急な大声に驚きながらも、華歩は声を出す。
「こんな朝早くからどうしたの?」
『華歩さん! これ以上のんびりしていたら遅刻してしまいますよ!』
「……え?」
『さぁ! 早く学校に行きましょう!』
慌てて華歩は時計を見る。この時、初めて華歩は自分が寝坊していたことに気づいた。しかし、今は家を出るどころか未だに部屋着のままである。
「か、片穂ちゃん。準備がまだ終わってないから、少しだけ待っててもらっていいかな?」
『はい!』
勢いよく受話器を元に戻すと、華歩は急いで自室へ駆け上がってハンガーにかかった制服を取り、全速力で着替えを始める。本当は少し化粧でもしていこうかと思ったが、時間がないため申し訳程度の化粧品を使い鏡の前に立ち、装いを整える。
短く揃えられた髪は、可愛らしい天使が仕立ててくれたお気に入りの髪型だ。少し髪を梳かしてからヘアピンで前髪を留めて、全ての準備が完了する。
荷物は昨日のうちに準備してあるので問題ない。荒々しくカバンを肩にかけると、大きな音を立てて階段を下り、玄関で靴を履く。
ドアノブに手をかける前に、靴棚の上に置かれた二つの写真が華歩の目に入る。
どちらの写真も自分を含めた四人が映った写真。一つは自分の部屋にあるものと同じ。そしてもう一つは、大切な友達との写真。
「行ってきます」
梁池華歩は笑みを浮かべてそう呟いて、力強く玄関の扉を開く。すると、扉の前で待っていた司と片穂はいつも通りの優しい笑顔で華歩を出迎える。
「おはよう。華歩」
「おはようございます!」
「うん。おはよう」
雲一つない青空に輝く太陽は、世界を明るく照らしている。清々しく風が、優しく自分の体を撫でてくれる。心地のよい空気を堪能すると、華歩は笑って、
「じゃあ、行こっか」
「おう!」
「はい!」
華歩が声を出すと、司と片穂は笑顔で歩き始める。
その後ろについて行くように、華歩も足を前へと踏み出す。誰の物でもない自分の足で、力強く。
目に映る世界は少し前に比べて美しく輝いているように見えた。透き通る空の先から、母が、父が、弟が、見守ってくれているように感じた。
いつか再び家族に会った時に、家族が誇れるような娘に、姉になるために、華歩は進む。あの小さく大きな天使のように、自信を持って、胸を張って。
歩いていこう。天使が導いてくれる、華のような未来へと。
華歩は決意を胸に、凛と前を向く。
そして、眩しいほどに明るく、希望に満ちた外の世界へと、少女は歩き始めた。
後書きは活動報告につらつらと書きましたので、興味があればどうぞ。




