その3「雨上がり」
雨が止み、その役目を終えた雲が消えていき、その隙間から溢れる日差しが天使を照らす。先ほどまで降っていた雨によってできた水たまりによってその光が反射し、上から、下から、全方向から柔らかな光が華歩を美しく輝かせていた。
全てが終わり、華歩は何かを考え込むように空を見上げる。久しぶりに浴びる直射日光に、華歩は耐えきれず目を細めた。雲の隙間に見える青は、美しく澄んでいた。そして、空を見つめる目をゆっくりと瞑ると、華歩は深く息を吸い、長い時間をかけて吐く。
全ての息を吐ききった華歩はゆっくりと目を開き、視線を落とす。そこは先ほどまで悪魔が倒れ、そして煙となって消滅した場所。
悪魔が跡形もなく消えた瞬間、あれほどの激戦があったとは思えないほど辺りには静寂が流れていた。
「……終わった、んだよね?」
ポツリ、と華歩が言葉を零すと、それと共に華歩の体から光が溢れ、天使が現れた。
人間に戻った華歩に対して、導華は労いの声をかける。
「あぁ。これで、全て終わりじゃ。よく頑張った」
その後ろから、司と片穂が声を張り上げてバチャバチャと水たまりを踏みつけながら二人の元へと駆け寄ってくる。
「華歩! 華歩! 大丈夫か!?」
「華歩さん! お怪我はありませんか!?」
余程心配だったのか、二人はグイグイと体を近づけるので、華歩は苦笑しながら少し顔を引いて答える。
「だ、大丈夫だよ。私は元気だから」
華歩が無事であることを確認すると、片穂は堪らず華歩に飛びつきその華奢な体を思いの限り抱きしめる。
「よかったです……よかったでずぅ……。助からなかったらどうしようかと……」
天使としての片穂は常に冷静だが、一たび人間にその姿を戻すと途端にここまで感情的になってしまうのが天羽片穂。その優しさは人間の姿だとしても天使そのものなのだが、時に優しさは物理的にも人を苦しめてしまうようで、
「か、片穂ちゃん。だ、大丈夫だから……。離してっ……くるし……」
「はぅ! ごめんなさい! でも、よかったです……」
「うん。ありがとね。片穂ちゃん」
片穂から解放されて体内に酸素を送り直すと、華歩は怒ることなく笑顔でその優しさに礼を伝えた。
「久しぶりの天使化じゃから疲れたのぉ。パパッと帰って飯でも食いたいところじゃが。まだ仕事が残っておるからのぉ」
既に回復を終えているため外傷こそないものの、導華の消費した力はかなりの量で、ぐったりとした様子でボヤくが、それでも天使化を解除しないのはまだ天使としての仕事が残っているからだった。
「悪魔に捕まってた人たちと、外の人たちの記憶ですね。大丈夫ですか?」
「やるしかないなら、仕方ないじゃろ。お前たちはそこで寝ている者どもの様子を見てやってくれ」
「わかりました」
現在のこの場所は日曜日の東京の大きな交差点。結界で覆っているため誰かがくるわけではないし、他の場所はいつも通りの時間を過ごしている。ただ、突然に戻してしまうと記憶にぽっかりと穴があいてしまう。それに適当な記憶を上書きして、全てが元に戻った時でも誰も違和感のないようにすることが、天使に残された最後の仕事だった。
記憶導華に指示された通りに、司たちは強制契約によってこの戦いに巻き込まれた人々の安否を確かめる。
さすが導華と言うべきか、倒れている人々の体に外傷はほとんどなく、あっても少しの擦り傷や打撲のみ。これくらいならば片手間でも導華が治療できるだろう。
司たちは気を失った人々を並べて寝かせていく。三人で手分けしたためにすぐにほとんどの人を寝かせると、残るのは最後の一人。
そこで倒れているのは、体つきの良い筋肉質な中年の男。華歩がその人を見る視線から、司はその人物が誰であるのかを理解した。
「この人が、華歩の家族を」
「……うん」
「警察に、連絡するんだよな?」
「うん。この人には生きて罪を償ってもらうつもりだから」
「……そうか」
華歩の思いは、変わらない。その意思を確認した司は、それ以上華歩に問いかけることは無かった。
華歩は自分の家族を殺した男も他の人と同じ様に寝かせ、全ての人の安否の確認が終わった。
すると、空から雪のような白い光の粒が降ってきた。ただ、触れた瞬間にそれが雪ではないことが分かる。温かいのだ、この雪は。触れた優しさで覆われたような、温かな雪が街に降っていた。
司が空を見上げると、そこにいるのは白銀の翼を広々と広げた天使が白く光り輝いていた。その天使が生み出す光が、空から降っていたのだ。
その光は、導華の力による記憶操作の光。辺り一帯にそれは降り注ぎ、この真昼に起こった出来事は全て他の出来事へと改変され、もうすぐ通常通りの時間が流れ始める。
光の粒が降り止むと、空から導華が降りてきた。
「片穂。終了じゃ。結界を解いてよいぞ」
「うん。わかった」
片穂は手を空へとかざして小さな声で何かを呟くと、この場所を他の場所と隔離していた結界が解除される。
これで、完全に天使の痕跡は消え去った。
全ての役目を終えた天使は、大きく息を吐いて人間へと次元を落とした。
「これで、十分ほどあればいつもの日常じゃ」
「これで、本当に終わりですね」
ようやく終わった、と司は安堵に満ちた胸の深くから大きく溜息を吐いた。頭が落ち着いてくると、司は目の前で普通に立っている華歩に疑問を覚えた。
「そういえば、華歩は大丈夫なのか?」
「大丈夫って?」
唐突に司は華歩に問いかけるが、言葉足らずの司の発言を理解できない華歩は首をかしげる。
「いや、俺が初めて天使化したときは解除した瞬間に気絶しちゃったからさ」
以前アザゼルと戦った時は、司は天使化を解除した瞬間に疲れて気を失ってしまった。流石に三度目ではそんなことはないが、それでも全身の疲労は果てしない。
しかし、華歩は全く疲れを感じていないようで、不思議そうな表情で司を見つめる。
「私は、大丈夫かな」
「はっはっは! 当たり前じゃろう。ワシがこの脳筋のように無駄に力を消耗させるわけがなか
ろうが。ワシは低燃費じゃからな」
「お、お姉ちゃん!? なんでそんなこと言うの!?」
導華の力の制御は、契約者への疲労も考慮されている。それ故に華歩の疲労はほぼない。それに対して片穂は力の制御が不得手なため、司の疲労は必然である。
しかし、姉の言葉に片穂は納得がいかないようで、必死に反論を始める。
「なんじゃ。不服か?」
「もちろんだよ! そんなことないもん! ですよね! そう思いませんか!? 司さん!」
勢いよく首を捻り、片穂は大声で司の同意を得ようとするが、当の契約者は片穂の目を見ずに苦笑いをして、
「い、いや……まぁ。事実、だからなぁ……」
「な!? 司さん!?」
「だって、俺たちの技って実際力任せに剣振ってるだけだから、脳筋って言われても仕方ないかなぁって……」
「そんなことないです! 乙女に向かって失礼です!」
顔を真っ赤にして声を荒らげる片穂を見て、導華は大笑いを始める。
「はっはっは! 司が言っとるんじゃから素直に認めんか。往生際が悪いぞ、片穂よ」
「認めないよ! 私、脳筋なんかじゃないもん!」
「ま、まぁまぁ、片穂。落ち着いて」
「むぅ~! 司さんはお姉ちゃんの味方をするんですか! 酷いです! 理不尽です! 不公平です!」
片穂の高揚を抑えようと間に入った司に向かって、片穂は風船のように頬を膨らまして司に詰め寄る。
「わかったから! わかったから! いいから離れろっての!」
司が腕を使って片穂を遠ざけると、片穂は途端に静まり返り、下を向いてうるうると瞳に涙を溜め始めた。
「私、脳筋なんかじゃないですぅ……」
余程脳筋という言葉が嫌だったのか、片穂は涙を流し始めた。司は慌てて慰めようと片穂に近寄る。
「おい片穂! 泣くなって! 俺が悪かったから!」
「もういいです! 私、帰ります!」
謝る司に背を向けて、拗ねた片穂は一人で歩き始めるが、
「そんなこと言っても帰る家が同じじゃろうに」
「そ、それはいいの!」
自分が司と同じ家で生活していることを完全に忘れていたようで、片穂は動揺しながら荒々しく返事をした。
どうしようか、と司は片穂の機嫌を直す方法を思案する。こういった思考は得意ではないが、片穂の事だから単純でいいのだろうと司は指をピンと立てて背を向けた片穂にも届くような明るく大きな声で提案をする。
「そうだ! せっかくだから今日も華歩の家で夕飯を食べよう! メニューは、そうだなぁ……。オムライスとかはどうかな! 華歩、いいかな?」
「ふふっ。うん。いいよ」
「ワシも賛成じゃな。まぁ疲れたから休ませてもらうが」
司の考えをすぐに察した華歩は笑いながら快諾した。導華も同様に賛成するが、白々しい棒読みの言葉であってもその言葉を信じてしまうのが天羽片穂という天使である。
「あ、あの……」
拗ねて帰ろうとした矢先の司の言葉に、片穂は寂しそうに声をかけた。予想通りの反応に司はニヤニヤと口角を上げながら片穂に問いかける。
「片穂は、夕飯何がいい?」
「……おむらいすがいい、です」
「じゃ、そういうことでいいかな?」
モジモジと返事をした片穂だったが、司に上手く言いくるめられた事が癪だったらしく、再び声を上げる。
「ズルいです! そうやって私を置いてけぼりにした上におむらいすで私を誘惑するなんて!」
「よいではないか、これぐらい。ぐちぐちとうるさいやつじゃのぉ」
「むぅ~……」
面倒臭そうにボヤく導華を、片穂は悔しそうに細い目で睨みつける。
「導華ちゃん。これ以上は片穂ちゃん可哀想だからそれくらいに……」
「うむ。そうじゃな。ワシは腹が減ったからのぉ。さっさと行くとするかのぉ」
片穂のいじることを止めてくるっと体を回し、頭の後ろで手を組みながら、導華は帰路を歩き始めた。
「片穂も、それでいいよな?」
未だに拗ねた子供のような顔をした片穂は少しぶっきらぼうに返事をする。
「美味しいおむらいす、食べたいです」
「ちゃんと作るから安心しろって」
「ふふっ。やっぱり二人は仲良しだね」
手で口元を抑えながら可愛らしく華歩は笑うが、
「おい! 早くせんか! ワシは腹が減ったんじゃ」
ついてこない三人に向かって導華が投げかけた声を聞いて、司たちは小走りでその後ろに追いつく。
そのまま導華の横に並んだ華歩は、スタスタと歩を進める導華に声をかける。
「導華ちゃん。家に着いたらちょっとお願いしたいことがあるんだけど、いいかな?」
「うむ。いいじゃろう。ただし楽なことにしてくれ。流石に今日は疲れたからのぉ」
笑顔で頷く導華を見て、華歩も嬉しそうに、
「うん。ありがとう」
導華のほうが歩幅が小さいのだが、華歩は導華の歩くスピードに合わせて隣を歩く。水たまりが所々に見られるが、差し込む日差しのせいか、もうすでに渇き始めて鼠色になっているアスファルトも見える。
雨は、完全に止んでいた。少し湿度の落ちた心地よい風がビルの隙間を駆け抜けていく。
初夏の柔らかさな雨上がりの日差しを浴びながら、四人は並んで帰路を歩いていた。




