その8「導くは天使 歩くは人間」
強く抱きしめた腕の中で、勇太の体が消え、華歩の両腕が空を切った。
それでも、温もりを手繰り寄せるように華歩はその腕を開かなかった。大事に、大事に、心の内に大切なものを抱き込んでいた。
その様子を、導華は静かに見守っていたが、それを邪魔するように声を上げる異物が一つ。
「臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い!!! これだから人間は嫌いなんだ!」
声を張り上げたのは、悪魔アスモデウス。華歩の精神世界で拒絶された悪魔は身動きの取れないまま端で倒れていたが、その拘束から少しだけ自由を取り戻すと、醜く叫び始めたのだった。
のたうち回りながら叫喚する悪魔を、天使は哀れに見下ろす。
「黙っておれ。静かにしておくのが身のためじゃぞ」
「人が一人死んだくらいで仰々しく泣き叫びやがって! たった一人じゃないか! 何をそこまでに悲しむ必要がある!?」
人の命を消耗品としか考えられない悪魔は、弟との別れで涙を流す華歩の気持ちが理解できない。
大切な人の命が無くなることに、悲しいと感じることができない。
「黙れ、と言ったはずじゃが?」
導華はアスモデウスを鋭く睨みつけたが、それを機にすることなく首をグルリと回して華歩を見る。
「うるさい! ……おい! 女!」
「……なに」
「俺に手を貸せばお前の家族を殺した男を残虐に殺してやるよ! あいつを殺したがってたじゃねぇか! 殺したいんだろ!?」
「……」
華歩は、答えない。
アスモデウスが言っていることは、否定できないのだ。自分の家族を殺した男は憎い。憎くてたまらない。殺したいと思ったことも何度もある。どうして家族が死んでいるのに犯人が普通に生きているのかと、何度も苦しんできた。
否定が出来ない華歩は、口を開けない。
「何を黙ってんだ! お前が俺に突っ込んで来た時、お前はどんな気持ちで走っていた!? それが答えじゃないか! なぁ? なぁ!?」
「私は……」
この言葉も、正しい。この精神世界に入ることになったきっかけは、自分の突発的殺意と無謀な特攻だったのだから。家族の仇を見た瞬間に、自分の中の醜い物がズルズルと起き上がる感覚があった。
そして、その感情に身を任せた結果がこの世界である。
ただ、今とあの時では心の中が全く別だと、華歩は自覚していた。
それを代弁するように、導華はアスモデウスに言葉を浴びせる。
「それは、先ほどまでの華歩じゃ。その決断は、今の華歩がする。お前は、少々黙っていろ」
「ぐっ。クソ。この世界の中じゃなければ、とっくにお前らなんてぶち殺してやるのに……ッ!」
導華を攻撃しようとアスモデウスはもがくが、ここは華歩の心の中。華歩から拒絶されている限り、この世界での自由はない。
しかし、アスモデウスの言葉は充分に華歩を惑わしていた。
「導華ちゃん。私は、どうすれば……?」
「自分では、わからんか?」
「……うん」
華歩は静かに頷いた。
「自分の気持ちが、分からんか?」
「あの男は、憎いよ。許す気には、なれない。でもそれよりも、もっと大事なことがあるんじゃないかって……」
確かに、この世界に来る前の自分の心は殺意で満ちていた。ただ、あの男を殺すことだけを考えていた。
しかし、そんな闇に染まった自分の前に、勇太が現れたのだ。濁り、汚れた心をこれでもかというほどに浄化してくれた。自分を恨むことはないのだと、生きてて良いのだと、言ってくれた。
弟との別れを告げた華歩には殺意とは別の感情が生まれていた。
しかし、それが、それが――
「それが、何なのか分からん、と」
「……」
自分の思考の覗いているのかと思うほどに、心の声を感じ取った導華は、華歩の思考に被せるように声を出した。
「一つ、質問をしよう」
「え……?」
言葉を出せない華歩に、導華はあることを問いかける。
「家族がいなくなった今。お前には、何が残っておる。お前が、殺人犯を殺したいことよりもやりたいことはなんじゃ」
「私に、残ってる? 私が、やりたい?」
家族がいなくなった今、自分に残っているもの。自分が今、殺意よりも優先したい感情。
華歩は思考を巡らせる。
そして、華歩の記憶の中で蘇る感情は、勇太の体にアスモデウスが乗り移ってる時に感じた感情。
あの時、素直に勇太の、アスモデウスの手を取れなかった、否、取らなかった理由。
――まだ、みんなと一緒にいたい。
「ぁ……」
この言葉が、この感情が脳裏に蘇った瞬間に、様々な思い出が華歩の頭を走馬灯のように駆け巡る。
家に、そして自分の中に閉じこもっていた自分に優しく声をかけてくれた大切な存在。
思い出す。蘇る。眩しいほどの笑顔に囲まれていた、幸せな時間。
そして、自分のためにかけてくれた言葉たちが、華歩の心に響き渡る。
――私は、あなたの心を救いたい。
――俺は、華歩の味方だからさ。
――ワシが、お前を助けよう。
答えは、すぐ側にあった。
「見つかったか?」
目に見えるように変化した華歩の表情に、導華は華歩が答えを見つけたことを察した。
「うん。あったよ。私にはまだ、大切なものがあった」
「華歩よ。あの花を買った時に話したことを、覚えておるか?」
アスモデウスが現れる前に行った買い物で導華に貰った花。華歩の精神世界にも存在している星型の花。その花を見ながら、導華は問いかけた。
「ペンタスの花……」
導華と交わした会話たちが、華歩の頭を交錯する。そして、ペンタスの花の花言葉を華歩は思い出し、呟く。
「……願いごと」
「そうじゃ。あの時には聞けなかったからのぉ。今一度、問おうではないか。華歩よ。お主は一体、何を願う?」
導華は優しく微笑みながら、あの時に訊くことのできなかった問いを投げかけた。
「私の、願いごと……?」
今、華歩の心に宿る願いは、親の仇を取ることではない。それよりも大切なことを教えてもらった。
しかし、
「でも、私がこんなこと、願っていいのかな?私なんかが、出来るのかな……?」
「自信が、無いか?」
「……」
俯く華歩を見て、導華は大きく溜息を吐いた。
「全く。どいつもこいつもワシの周りには自信がないやつが多いのぉ。世話の焼ける奴らじゃ」
「え?」
「じゃが、そんなお前たちが、ワシは大好きじゃ」
導華は例の如くニカッと笑い、胸を張った。まるで、情けない妹に笑いかけるように。
脈絡の無い言葉に理解が及ばない華歩は少しだけ戸惑った様子を見せた。
「導華ちゃん……?」
一呼吸を置いてから、導華は口を開く。
「ワシが、お前を導こう」
「導く……?」
「少し昔に、支え合うことの大切さを、共に歩くことの強さを学んだのでな」
自分の大切な妹も、同じく自信を無くし、そして救われた。どこにでもいるような、小さな少年に。
「どうしたらよいのか分からないのなら、ワシが道を示そう。歩くべき道を、ワシが作ろう」
「……」
しかし、天使は妥協を許さない。
「じゃが、歩くのはお前自身じゃ。道を選ぶのも、歩くのも、全てお前自身じゃ」
「私、自身」
「険しい道もあるじゃろう。辛い時間もあるじゃろう。それでも、歩くのはお前自身じゃ。ワシは、背中を押さずにお前を見守ろう」
「……」
天使の役割は、ただ単に力を貸すことではない。それは人を導き、歩ませること。これが天使。導華は華歩を強くするために、妥協をさせない。
しかし、天使は人間を見捨てない。
「ただ、ワシは決してお前を見放さない。どんな時でも、支えよう。いつ何時でも、励まそう」
そして、最後に天使は問いかける。
「お前は、自らの足で歩く覚悟はあるか?」
真っ直ぐに見つめる熱い視線で、華歩は導華を見つめ、そして答える。
「うん。私は、歩くよ」
嬉しそうに導華は微笑を浮かべ、右手を差し出す。
「……そうか。ならば、ワシはお前と共に歩こうではないか」
「うん。よろしくね。導華ちゃん」
「あぁ。こちらこそ」
この強く握りしめた手は、契約の証。共に戦い、共に歩くことを誓う証明。
少女は固く決意する。これから先にあるだろう困難から逃げず、歩き続けることを。その先に待つ栄華へと、歩くことを。
天使は固く決意する。この少女と共に歩き続けることを。その先に輝く華やかな未来へと、少女を導くことを。
二人の繋ぐ手は、その手にかかる力以上に固く結ばれているように見えた。
そんな二人の後ろで、散々腹に放置されていた悪魔は声を上げる。
「おい! どこまでも僕をコケにしやがって! 自由に動けるようになった瞬間に殺してやるッ!」
「お前はいつまでも滑稽じゃな」
導華は嘲るようにアスモデウスを見下ろす。
そして、華歩は初めて悪魔に向かって強固な心で向かい合う。凛とアスモデウスの前に立つと、堂々と言葉を放つ。
「私は、あなたに負けない。絶対に乗り越えてみせる。だから、出て行って」
「ぐぅううああ!!」
今度は華歩が心の底から全力で悪魔の存在を否定する。世界が悪魔を拒んだことで、アスモデウスの体に激痛が走る。そして、この世界に留まることを諦めたアスモデウスは、その姿を薄めて避難を試みる。
「……チィ! 今に見てろ! 外に出たら一瞬で殺してやるからな!」
安い捨て台詞を吐き捨て、アスモデウスは華歩の精神世界から消えていった。
悪魔が消えたのを確認した華歩と導華は、自分たちも外の世界へ行く準備を始める。
「じゃあ、行こっか」
「うむ。司も片穂も、待っておるからな」
「うん」
導華が華歩の顔を見ると、その目に映る華歩の表情は先日とは見違えるぐらいに凛々しく、力強かった。
導華はそんな華歩の表情を見てほんの少し口角を上げると、意識を集中させる。
そして、外の世界へと出るために二人の体が淡く光り、消えていく。
体が消えていくその途中で、導華は華歩へと声をかける。
「華歩よ。改めて問おう。お前の願いは、なんじゃ?」
自分の願いは決まっている。勇太が、導華が、大切な友達が、教えてくれた。復讐に駆られる醜い心よりもずっと美しく、尊いものを。
その為の願い。その為の誓い。
自分は一人じゃない。だから、歩ける。だから、進める。だから、願う。その為の力になろうと。
華歩は導華を一心に見つめて、答える。自分の中で輝く、その願いを。
「私の願いは――」
その願いを口にして、天使と人間は外の世界へと浮上した。




