その3 「ここにいる」
「えい! おりゃ! とりゃあ!」
ガチャガチャと音を立てながら、画面の中で屈強な男が熾烈な争いを繰り広げていた。
三歳の少女が操っているとは思えないほどの機敏な動きで、相手に打撃を打ち込み続ける。片穂も必死にボタンを連打するが、普通の操作では真穂に対して歯が立たない。
「や、止めてよ真穂ちゃん!」
「まだまだ! うりゃあ!」
真穂は攻撃の手を少しも緩めることなく追撃を続け、片穂のキャラクターの体力ゲージが無くなる。
「あっ! ああ! ……死んじゃった…」
結局、片穂は為す術もなく大敗を喫した。後ろからその戦いの一部始終を見ていた司は、真穂に向かって少し呆れたような顔をして声を掛ける。
「おい真穂。片穂ちゃんにも本気出すなんて可哀想だぞ」
真穂はふてくされたように唇を突き出して文句を言い始める。
「だって二人とも弱すぎてつまんないんだもーん」
「うぅ……弱すぎてごめんなさい……」
ほんの少し片穂の目に涙が浮かんでいることに気付いた司は片穂の横に移動して、慰めの声をかける。
「あ……気にしなくていいよ! 片穂ちゃん! ゲームで負けても何にもならないからさ!」
「そうだよね。そうだよね」
落ち込む片穂を尻目に、ゲームに飽きた真穂はコントローラーを置いて寝転がり、ごろごろと畳みの上を転がる。
「つまーんなーい。つまーんなーい。あっ! そうだ! お兄ちゃん!」
何かを思いついた真穂は目を輝かせて司の近くに詰め寄る。
「どうしたの?」
満面の笑みを浮かべる真穂は司の耳に口を近づけて囁く。
「お兄ちゃん、片穂ちゃんのこと好きでしょ?」
「なっ! な、な、何言ってんだ! 何でそんな!」
的のド真ん中を射た真穂の発言に司は動揺し、大声を出して飛び上がる。
「ひゃあ! どうしたの司くん! 急に大声出して」
司の声に驚いた片穂は司と同じ様に飛び上がる。
「な、何でもないよ! 気にしないで!」
慌てて司は両手を前で振ってごまかそうとするが、泳ぐ目と裏返ったような声はそれだけで嘘をついていると伝えているのと変わらなかった。
「う、うん……」
しかし、人を疑うことを知らない純粋な天使は司の言動を不思議に思うだけで、司の言葉を素直に信じる。頷く片穂を見て安心した司は、真穂の方へ体を向け小声に怒りと焦りを乗せて、言う。
「おいっ! 真穂っ!」
「どーしたのー? おにーちゃーん」
真穂はとぼけたように遠くを見て返事をするが、そんな態度に構っているほど司の心は落ち着いていない。司は小声で真穂を問い詰める。
「何で分かったんだよ」
「だって片穂ちゃんを家に運んできてからずーっと心配そうに横にいたし、起きたらすっごく嬉しそうだし、今もすっごい楽しそうなんだもん。それにゲームしてる時もずっと片穂ちゃんのこと見てるし」
自分では気付いていなかった行動の数々に自分でも驚いたが、とりあえず今は片穂にこのことを言わないようにと、真穂に釘をさすことが先決である。
「い、いいか。片穂ちゃんには絶対言うなよ?」
普通の三歳児よりも格段に知能が高い真穂は、その一言で司の気持ちを読み取る。
「はーい。じゃあもう一回対戦ね!」
「えっ……」
真穂は再びコントローラーを握ると片穂の方を向いてニコッと笑う。その笑いを見て片穂は苦い顔をする。
「ま、また?」
「うん! いいよね? おにーちゃん!」
真穂は不敵な笑みを浮かべ、司に問いかける。もちろん、口止めを頼んだ司にこれを否定するほどの余裕はない。
「ごめん。片穂ちゃん。もう一回だけやってあげて?」
「えぇ……」
その後も片穂は真穂に敗北を繰り返し続けた。負けが重なるたびに片穂の目に涙が滲んだのは言うまでもない。
しかし、それから一時間もしないうちにこの戦いは終戦を迎える。
「あれ……真穂、寝ちゃった」
ゲームのコントローラーを握ったまま、真穂は夢の世界へ旅立っていた。
「本当だ。疲れちゃったのかな?」
「あんなに遊んだら疲れちゃうよね。仕方ないよ」
苦笑いしながら司は立ち上がり、押入れを開けて毛布を取り出し、気持ちよさそうに眠っている真穂にかける。
「いつも、こんなに遊んでるの?」
「ううん。今日は特別だよ。僕たちの住んでるところは同い年の子なんていないから久しぶりに僕以外と遊べて楽しかったんだと思う」
佐種家は民家の殆ど無い片田舎に位置している。そのため同年代の友人たちの家に行くのもかなりの時間を必要とするので、三歳の真穂はまだ親の同伴無しに友人の家に行くのを禁止されていた。
しかし、ようやくやってきた司以外の遊び相手に、真穂は心から楽しんでいたのだった。
「そうなんだ。それにしても、真穂ちゃんって何でも出来るんだね」
「うん。本当に何でも出来るんだ。立って歩くのも、話すのも、何でも真穂の方が早いし、僕よりも物知りなんだ。どこで覚えてくるのかはわからないんだけどね」
佐種真穂は、たった五歳の少年から見ても、明らかに天才であった。頭がいいとか、そう言った次元にいない有り余る才能。
まるで、神に愛されているかのような、そんな存在だった。
司の言葉を聞いて、片穂も同じ声色で話す。
「私のお姉ちゃんと一緒だね」
「そういえば、ご飯のときも凄い人だって言ってたね」
「うん! お姉ちゃんはみんなが凄い凄いって言ってるの! 強くて、仕事もいっぱい出来るの!」
天羽導華は確かに片穂を苦しめていたが、それでも大好きであるのに変わりはない。そんな姉の自慢を、片穂は嬉しそうに話す。
でも、この人も自分と同じ気持ちを持ってくれている。そう思うと、心の底の感情が少しずつ溢れ始める。
「お姉ちゃんはね、凄いの。何でも出来て、凄いの。凄くてね、凄くて……」
声はどんどん低く、小さくなっていく。そして、ゆっくりと感情の深層へ、その声は降りていく。そして、片穂の口から、それは溢れる。
「私は、何にも凄くないの」
溢れ出た心の声は、ダムから水を放出するかのように流れ続ける。
「何をやってもお姉ちゃんみたいに出来なくて、頑張っても頑張っても、全然お姉ちゃんみたいになれなくて、誰も、褒めてくれないの。こんなに頑張ってるのに、精一杯なのに、みんな、ダメって言うの」
声に伴って、体もその感情に反応し始め、片穂の目から涙が流れ始める。
「こんなに……頑張ってるのに……。こんなに……こんなに……」
「それでも、いいんじゃないかな?」
「え……?」
涙を流す片穂に真剣な目を向けた司は、一言一言をはっきりと話し続ける。
「僕も分かるよ。片穂ちゃんの気持ち。真穂は何でも出来るから、何をやっても追いつけない気がして。やっぱり、寂しいよね」
「うん……」
涙と鼻水を袖で拭きながら、片穂は相槌を打つ。
「でも、無理して追いつこうとしなくていいんじゃないかなって、僕は思うんだ」
「それじゃあ、どうすればいいの?」
司は笑顔で、優しく片穂に語りかける。
「片穂ちゃんは、片穂ちゃんのままでいいんだよ」
「………」
片穂の口からは、何も言葉が出てこない。それでも、司は続ける。
「僕は片穂ちゃんと一緒に遊んでてすっごく楽しいよ。真穂だってすっごい楽しそうだった。ゲームは負けちゃったけど、そんなこと誰も気にしてないよ」
「……うん」
司の心からも感情が溢れ始める。今、伝えたい。そう思ったから。
「あの、ね。僕。片穂ちゃんのこと好き、なんだと思うんだ」
「……え?」
一目惚れだった。道端で泣いている少女も見た瞬間に、少年の心は天使に奪われていた。
「片穂ちゃんと遊んでるのとすっごい楽しいし、ドキドキする。片穂ちゃんと話してるだけでも僕、すっごい楽しいよ」
「私の……ことが?」
理解できない言葉の羅列に、片穂は司に問いかけた。本当に、自分なのかと。何もない自分を、本当に好きになってしまったのかと。
「うん。僕の好きな人は、ここ以外にどこにもいないよ。僕の好きな片穂ちゃんは、ここにいるんだよ」
「う、うぅ……」
片穂は耳を赤くし、下を向いて呻き声を上げる。そんな片穂を見て、司は不思議そうに近寄る。
「片穂ちゃん?」
司が近づいてきたことに気付いた片穂は逃げるように立ちあがり、襖を開け、外へ飛び出してしまった。
「ご、ごめんなさい!」
「あっ! 待って!」
片穂は逃げ出した。でも、何から逃げだしたのかはわからない。きっと今まで言われたことの無い言葉たちを浴びせ続けられたことに耐えられなくなったのだろう。
もしくは好き、という感覚を今まで経験したことの無い片穂はどうしていいのか全く分からず逃げ出してしまったのかもしれない。
頭の中で思考がぐるぐると回り続けているせいで片穂は自分が何を考えて何を思ったのかもよくわからなくなっていた。
司の告白はこの上なく嬉しかった。片穂が人生での中で初めて受けた告白は、ケーキの様に甘く、心地よい朝日のように温かかった。
もちろん司の告白は片穂の心に染み込んだが、それよりも嬉しかったのは、自分という存在を、はっきりと肯定してくれたことである。
初めて自分を自分として見てくれる存在が現れてくれたことが、何よりも嬉しかった。
照れながらも司からの好意に浸る片穂は、気がついたように足を止める。
「あれ、ここ、どこ?」
佐種家を出てから行く先も決めずにとにかく歩いていた片穂は、自分の現在地がわからなくなる。
片穂は周りを見渡すが、辺り一面同じような景色のため、方向すらもあやふやになってきていた。
前も見ても後ろを見ても同じ風景。
訳もわからず片穂は歩き続ける。そして、辿り着いたのは辺り一帯を見渡せる丘。空には星が輝き、街灯のない村は闇と静寂に包まれている。
司の家を見つけることができるかと思って丘から探してみるが、灯りの無い状態では、見つけ出すことが出来なかった。
空を見上げながら、片穂は芝生に腰を降ろす。
「司くん……」
片穂は視線を下へ下ろし暗闇に包まれた村を見下ろしながら、片穂は途方に暮れていた。
そして、丘の上に腰を下ろしてから、三分ほど経ったことだった。
「片穂ちゃん!」
「司くん?」
背後から聞こえた声に片穂は即座に反応する。後ろを振り向くと息を切らしながら司がこちらへ走ってくるのが見えた。
片穂の元まで駆け寄ると、司は膝に手をついて呼吸と整える。そして荒い息遣いのまま、司は安堵の声を漏らす。
「よかった……」
自分のためにこのままでしてくれた司に対して、片穂は申し訳なさそうに、
「急に出て行ったりしてごめんね」
片穂の悲しげな声をかき消すかのように、司は笑顔を作り、言う。
「大丈夫だよ! でも、どうして出て行っちゃったりしたの?」
「そ、それは……」
「もしかして、迷惑だったかな」
「そ、そんなことないよ!すっごく嬉しいの!嬉しいんだけどね」
少しの沈黙の後、片穂は座ったまま遠くを見て話し始める。
「……私ね、ずっとお姉ちゃんみたいになりなさいって言われてたの。みんな、私のことをカトエルの妹っていうの。名前で呼んでくれる人もいたけど、話すことは全部お姉ちゃんのこと。私のことを見てくれる人なんて、どこにもいなかったの」
「………」
語り続ける片穂に、司は静かに耳を傾ける。
「でも、初めて。初めて私を私として見てくれる人。司くん。私ね、とっても嬉しい。胸の辺りがずっとあったかいの」
片穂は胸に手を当てて目を瞑り、幸せそうに笑みを浮かべる。
「それじゃあ、片穂ちゃんも?」
喜びで上がる心拍数を、激しく脈打つ心臓を、司は感じる。そして真っ赤な顔で司は問いかけた。
「え?………私……?」
不思議そうに首を傾げる片穂だったが、司の言葉の意味を理解した瞬間に片穂は赤面し、視線を下げる。
「い、いや! その……えっと……そういう訳じゃ、ない訳じゃ……ないんだけど。でも、なんと言うか、その……こんなの初めてでどうしたらいいのかわからないっていうか……」
もじもじと呟きながら、片穂はじりじりと後ろへ下がる。そんな片穂を司は見つめていたが、あることに気付き、声を張り上げる。
「片穂ちゃん! そっちは危ない!」
「え?」
片穂が気付いた時には、足はもう既に坂へ踏み出していた。片穂たちがいるのは見晴らしの良い丘の上。少し急な坂でさえ、大怪我の可能性は充分にある。
ましてわずか五歳の片穂ならなおさらである。足を踏み外した片穂はバランスを崩し、体が大きく傾く。
「片穂ちゃん!」
落ちそうになる少女の手を、司は掴む。しかし、引き上げられるほどの力は五歳の司には存在しない。引き上げることが困難だと察した司は、片穂を抱きしめ、落下に備える。
そして、司の助けも空しく、二人はそのまま坂の下へと落ちていった。
「……ん……ちゃん………片穂ちゃん!」
少年の心配そうな声が、少女の鼓膜を揺らした。
「司……くん?」
目を覚ました片穂は、ぼやけた視界の中の司を見つめて声を出した。
片穂の意識が回復したことを確認すると、司は安心したように息を吐きだす。
「あぁ……よかったぁ……」
幸いにも、司たちが滑り落ちた坂はあまり角度が急ではないため、二人が大怪我を負うようなことはなかった。
視界がはっきりし、意識が完全に戻った片穂は、体をゆっくりと起こす。
「いてて……」
後頭部に痛みがあるので触ってみると、ボールのような大きなコブが出来ていた。恐らく、転がっている間に頭を何かにぶつけて気を失ってしまっていたのだろう。他には軽い擦り傷のみで、目立った怪我は特に見当たらなかった。
「大丈夫?」
声を聞いて司を見ると、片穂よりも傷の量が多く見られ、頭からは血が流れていた。深い傷ではないようだが、切り傷のような傷口のため、多めに出血していた。
「司くん、血が出てる」
片穂の言葉を聞いた司は顔に流れる血を袖で拭き取り、痛みを我慢して笑顔を作る。
「大丈夫! へっちゃらさ!」
余りにもわかりやすい司のやせ我慢には、鈍感な片穂でも即座に気付くことができる。そして、その気づかいは、片穂を罪悪感をさらに駆り立てた。
「ごめん……なさい」
涙を流し始める片穂に対して、司は優しく声をかける。
「謝らないでいいよ。片穂ちゃんも怪我してるから、早く帰ろう?」
「……うん」
「擦り傷だけでよかった。それに、真穂と遊んでるといっつもどこかに擦り傷できちゃうから、慣れてるしね!」
司は再び元気よく笑うが、片穂に笑顔は生まれない。それどころか、負の感情が、心で蠢き始める。
「私、何にもできない」
「……え?」
「ごめんなさい……ごめんなさい……私がもっと出来る子だったら、司くんの怪我もすぐに治せるのに……」
天界でも嫌というほど思い知らされた、自分の無力さ。もし自分が姉のような治癒技術があれば、苦しむ司を今すぐにでも治して笑顔で帰れるのに。
才能の無い自分では無理に笑顔を作らせることしかできなかった。それが悔しくて、申し訳なくて。力がない自分が憎かった。
涙を流し続ける片穂を、司は優しくなだめる。
「怪我は大丈夫だよ。気にしないで?」
「でも、でもぉ……」
少年の優しさが、さらに少女の胸を締め付ける。いっそ突き放してくれれば、楽になれるのに。
そんな片穂の心を知らない司は、それでも片穂を励ます。
「この前ね、父さんが言ってたんだ。大切な女は死んでも守れって。だから、僕は構わないよ。何もできないなら、僕が片穂ちゃんを守るから!」
また、片穂が今まで言われたことのない言葉。
守ってくれるなんて、言われたことなどなかった。未熟だと、拙劣だと、様々なことを言われてきたが、守るだなんて言ってくれる人はいなかった。
温かい言葉が、片穂を優しく包み込む。
「……司……くん」
司は今朝と同じ様に、片穂に手を差し出す。
「だから、安心して! さぁ、早く家に―――」
言葉の途中で司は息がつまり、胸を押さえて苦しむ。
「司……くん?」
心配そうに顔を覗き込む片穂に、司は再び笑顔を作るが、今回ばかりは笑えるほどの余裕はなく、少しばかり口角を上げるだけだった。
「だい……じょう、ぶ。たまに…胸が苦しくなるけど……すぐに、よく…なる…」
発言の内容とは裏腹に、司の苦痛は大きさを増す。苦しみに負けて膝を地面に落とし、そのまま体の力は抜け落ち、司は胸を押さえたままうつ伏せに倒れる。
「司くん! 大丈夫⁉︎ 司くん!」
片穂は司を仰向けにして容態を確認するが、そこで片穂が感じたものは自分の予想を大きく超えるものであった。
「命が……削れてる」
まるで人智を超えた巨大で邪悪な力が、司の命を削り落そうとしているようであった。




