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久々に会った初恋の訳アリ幼馴染とワンナイトした  作者: テル


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アフターストーリー② 美月のそれから

 私は普通ではない育ち方をして、世間から外れた自己中心的な生き方を今までしてきた。

 そのせいで誰かを傷つけたりもした。


 けれど私を救ってくれた人たちがいたから、私はその人たちに恩返しをすると心に決めていた。


 そして、そんな私の気持ちは冬のあの事件を境に強くなったと思う。


 あれから義父は逮捕されて実刑判決。

 女児も救われていい里親を見つけられている。

 

 私がずっと苦しめられてきた過去に抗って、打ち勝ったことで私を縛るものがもうなくなったのだ。

 その事実は私に勇気を持たせてくれた。


 もう私は強いのだと、隣には頼れる人がいるのだと、少し自信も持てるようになった。


 だから、これからはもっと恩返しをしたいと思った。

 私を救ってくれた人に恩を返すこともそうだけど、私にしてくれたことを他の人にすることも私の恩返しだった。


 私は四月の初めには一樹の家を出ていった。

 新しい家も、正社員としての職場も決まって、いつまでも一樹の恩を買うわけにもいかなかったからだ。


 就職先は児童福祉施設の職員。

 虐待や何らかが原因で心に傷があったり、病気だったり、事情がある子供たちを支援する場所だった。


 私はずっと抱えたまま吐き出せなかったから、道を外してしまった。

 そんな子を少しでも減らしたいと思って、決めたことだった。


 それともう一つ、大きな理由がある。

 子供たちを支えることもそうだけど、私が保育士になる唯一の道でもあったからだ。


 私の夢は一樹と幸せな家庭を築くこと。

 一樹と結婚して、子供を産んで、一緒に育てて……。

 

 私が好きな人と一緒に愛を育みたい、愛を貰いたい、愛を与えたい。

 

 流石に恥ずかしいし、重い女の子だって思われたくないから、夢のことは一樹には言っていない。


 でも、夢のためには保育士のように子供と向き合って育てられる人になる必要があると思った。


 私は『いいお母さん』を知らないので、もしかしたら、私の母がしたように私も子供に傷を与えてしまうかもしれない。

 だから施設でいっぱい学んで、子供を支えて、それから保育士として働いて、一樹のお嫁さんになるのが私の夢。


 正直、夢のハードルは高い。

 

 保育士になるためには、高卒認定試験に受かってその上で児童福祉施設で何千時間と働かなければならない。

 

 一樹と籍を持つのも、まず私が魅力的な女性にならないといけない。

 どうやって一樹の心を奪うのか考えないと、かっこいい一樹のことなので他の女に取られてしまう。


「……私って重い女なのかなー」


 引っ越してからは一人でいることの方が多いので、そうやってベッドの上で悩んでいたりもする。

 一人だと考えるごとが多くなるし、たまに寂しくもなる。


 ともかく、始まった新生活自体は悪いものではなく、良いことのほうが多かった。


 まず、新しい職場でかつての恩人に出会った。


「じゃあ今日からよろしくね、美月ちゃん。あと、この人が美月ちゃんの教育担当になるから教えてもらって」


 初出勤の日、私が緊張しながら職場に行くと、挨拶の後に教育担当を紹介された。

 六十歳くらいの人で、おばあちゃん先生という言葉が似合うような先生だった。

 

 白髪で眼鏡をかけていて、背は低め。

 けれどその佇まいからはベテランという雰囲気が感じられた。

 

「よ、よろしくお願いします」

「よろしくね……あと、久しぶりね、美月ちゃん」


 目の前の女性とは初対面だと思っていたが、そう言われたので記憶を探ってみる。

 しかし誰だか見当もつかない。


「……あの、どこかでお会いしましたっけ?」

「まあ、覚えてないわよね。昔のことだもの…私はあなたが年長さんの頃の先生だったのよ。確か、昔の苗字は七瀬だったわよね?」


 彼女は私の昔の苗字を知っていた。

 知り合いであることはわかって、どこの誰かということもわかった。


 しかし彼女のことが思い出せない。


「ちょっと、ごめんなさいね……この歳になるともうだめねえ。抱きしめても、いいかしら?」

「え、あ、は、はいっ」


 彼女は涙ぐむと、いきなりハグを求める。

 私は驚きながらも了承すると、彼女は私のことを優しく抱きしめた。


 そこで、やっと、私は彼女のことを思い出した。


「……よく、頑張ったね」

「せん、せい……」


 彼女もまた私の恩人だった。

 

 過去に最後まで私を助けようと動いてくれた優しい顔をしたおばあちゃん先生。

 児童相談所に私を入れてくれた人だった。


 そして暖かさを与えてくれた人だった。


 そんな再会から私の社会人ライフは始まった。


 職場ではそれ以外にも様々な出会いがあった。

 多種多様の性格や家庭環境、事情を持った子供たちと接したり、職場の人に可愛がられたり。


 子供というと、私が前の事件で助けた女児もよく来ていた。

 面倒を見ていると心の傷はまだ深そうで、たまにパニックになったりする時がある。


 私に懐いてくれているので、大きくなるまでは私がこの子を支えるつもりだ。


 仕事が大変だと思うことはあってもやりがいに変えられて、楽しい環境だった。

 何より、私が支える側に回れたことにすごく誇りを持てた。


 そうして新生活が始まって一ヶ月が過ぎた五月の今日のことだった。


 夜、勉強中、私は気づいた。


 ……そういえば、最近は一樹と全然会ってないし、話してもないなー。


 途端に私の心の中は寂しさで埋め尽くされた。

 ホームシックが訪れるのは唐突だった。

 

 新生活にも慣れてきて、落ち着いたところで、一樹の温もりが恋しくなってしまう。


 一樹とハグしたいし、キスしたい。

 きちんとした初デートにも行きたい。


 イルミネーションは失敗してしまったのでデート計画を練らなければならない。


 とにかく、私は今すぐにでも一樹と電話がして、一樹の声が聞きたい。

 しかし一樹は久々に友達と飲みに行っているらしい。


 最近、私が会っても話してもいないのは一樹の忙しさも原因だったので、友人と遊べていなかったのもわかる。

 

 けれど……。


「私との時間にすればいいのに。一樹のばか」


 私は勉強などそっちのけで、枕に顔を埋めると、足をバタバタさせた。

 そうでもしないと落ち着かないのだ。


 少しでも一樹を感じたかったので、私は電話の代わりにおやすみスタンプを一樹に送る。

 すると、一樹からすぐに『おやすみ』と送られてくる。


 ちょっと一樹からメールが返されただけで、嬉しくなるのだから私は単純な女だ。

 

 でも……一樹に会いたい。


 私が悶々としていた時だった。

 ふと、先輩と書かれた連絡先が目に入った。

 

 職場の先輩ではなく、志織先輩のことだ。


 そこで、そういえばと、再会の後から連絡をとっていないことに気づく。


 私は心の穴を埋めるために、先輩に急な電話をかけた。

 流石に出ないかと思っていたのだが、数コールの後、電話がつながった。


『もしもし、久しぶりね。急にどうしたの?』

「久しぶり、先輩……私って、重くて、単純な女なのかな」

『……元気じゃなさそうなのはわかるけど、いきなりどうしたの? 何かあった?』

「ううん、近況報告しようかなって思って。今、大丈夫?」

『ええ、大丈夫よ。ちょうど美月のことが気になっていた頃だったの』


 それから私は先輩と再会した日の夜のことから順番に話し出した。

 

 義父と会ってしまって、危ないところを一樹が助けてくれて、義父が逮捕されたこと。

 その後はバイトを頑張ってお金を貯めて、新しい就職先を見つけたこと。

 四月には一樹の家を出たこと。

 就職先での他愛もない出来事。


 私は包み隠さずに全て先輩に話した。

 先輩はそれらを最後まで聞いてくれた。


「……私の方はそういう感じかな」

『まさか私と再会した日にそんなことがあったなんてね。じゃあそれからずっとドタバタだったんじゃない?』

「そうだね。結構忙しかった」

『お疲れ様。どう? 今はもう新生活も慣れてきた?』

「うん、慣れてきたよ。おかげで今はホームシック」

『ホームシック?』

「……実はさ、一樹が恋しいけど電話すらできないみたいだから、先輩に電話したんだよね」

『あら、私は都合のいい女みたいね』


 私が謝るとスマホ越しに先輩の少し特徴的な高い笑い声が聞こえてくる。

 先輩の方もいつも通り元気なようだった。


『そういえば一樹くんとはどうなったの? もう付き合ったの?』

「うーん……一樹とはハグもキスも何回もしてる」

『じゃあ……』

「けど、付き合ってないんだよね」

『……どういうこと?』

「付き合う約束をした、みたいな」


 私があの日、一樹の告白を断ったのには理由がある。

 一樹に言ったように恩返しもできないまま付き合いたくないというのもそうだったけど、何より対等に付き合いたいと思ったからだ。

 一樹に助けられてばかりのお姫様にはなりたくなかった。


 私は人と真剣な交際をしたことが今までに一度もない。

 異性と接する機会は多かったけれど、学生の青春恋愛とか、大人の恋愛とか、私はどちらも知らない。

 

 だからあの時、一樹としっかりお付き合いできるか不安だった。


 一樹ならリードしてくれそうだけど、それではダメなのだ。


『よくわからないけど、いい感じってこと?』

「うん、そういうこと」

『美月もいい男の人に出会ったわね』

「そうだね。おかげで、重たい女になりそうだけど」

『あらあら、ゾッコンってやつね』


 先輩は気持ちの重い私を上品に笑った。


 一樹は私の好きな人だ。

 それこそ重たい女になってしまいそうなくらいに。


 一緒にいれば自分でもびっくりするほどドキドキしている。

 でも、なぜか一緒にいて落ち着きもするという矛盾を抱えている。

 

 そんな気持ちのおかげで私は今が楽しい。


 今はお互いに大変だけど、付き合えるようになったらもっとイチャイチャできるのかなと思うと、この先が楽しみになる。


 過去の私からはこんな自分は想像もできない。

 それもこれも一樹のおかげ。

 一樹が私の人生を照らしてくれた。


 幼馴染で、初恋の相手で、好きな人で、恩人で。


 きっと私の運命の相手は一樹なのだと思う。

 

 一樹の運命の相手も、私、だったらな。


「……先輩はどう? 彼氏と順調?」

『ええ、順調よ。そういえば最近、私も美月みたいにキャバクラやってたこととか全部話したのよ。その上で、好きだって言ってくれて、今、同棲中。部屋で寝ているわ』

「え、同棲してるの!?」

『ふふ。まだ先だろうけど結婚も考えてくれてるみたい』

「いいなー……結婚式することになったら招待してよ」

『その時は一樹くんも入れて二人に招待してあげるわ』

「ありがと」


 ふと、私は一樹との結婚式を想像してみる。

 ……のだが、付き合ってもいないのに結婚式を想像するのはどうなのかと想像を頭の中から追い出した。


『じゃあ私はもう寝るわね。眠たくなってきたし』

「おやすみ、先輩」

『おやすみ……あと、これからはまめに連絡よこしなさいよ』

「うん、わかった」


 そうして私が一言発して、電話を切ろうとした時だった。


 先輩が私の名前を呼んだ。


『美月』

「何?」

『全部終わって、本当に良かったわね』


 先輩は私の過去を知っている。

 だから、画面の向こうで笑みを浮かべながらそう言っているような気がした。


 多分、もう私が過去に区切りをつけられたと思っているのだろう。

 義父も逮捕されて、自立して新しい生活が始まって、夢もできて。


 けれど……。


「ううん、まだ……終わってない。親のことから、目を背けてるから」

『親って、実の両親のこと?』

「うん。正直、お父さんはどうでもいいけど、お母さんの件がまだ残ってるから」

『……そっか』

「じゃあまた連絡するね! おやすみ」

『おやすみ、美月』


 私は追求されたくなくて、少し無理やりにでも先輩との電話を終わらせた。

 

 そしてベッドの上でため息をつく。

 

「これから、先輩にまめに連絡しないとなー」


 私は考え事をしないようにそんな独り言も呟く。

 

 けれど結局、私はそれに向き合わなければいけないようだった。


 過去に区切りを付けられていないものがある。

 私の母のことだった。


 父との思い出は薄い上に捨てられたと言ってもいいから、もう何も思っていない。

 顔すら覚えていない。


 しかし家出以来会っていない母のことはずっと気がかりだった。


 虐待されていたとはいえ、やっぱり親は親だった。

 そこに愛がなくても、母が私を育ててくれた。


 だから、会って区切りをつけるためにも私は……。


 精神病院に入院している母に、会わなければならない。


 ***

 

「ごめんね、一樹。貴重の休日をわざわざ私のために使わせちゃって」


 日曜日の午前九時半、私は隣を歩いている一樹に謝る。

 

 今日は私にとって大事な用事があった。

 一人で行くのは怖かったから一樹も一緒に来てもらっている。


「気にしないでくれ。どうせ暇だったから」

「この後、昼ごはんくらいだったら私に払わせて」

「本当にそんなの気にしなくていいんだぞ?」

「じゃあ私が奢りたいの」

「それなら……遠慮なく」

 

 一樹は少し渋い顔をしながら首を縦に振った。

 私はそんな一樹を見てクスッと笑った。


 奢るという建前で、一樹とご飯に行くという私の悪知恵は成功したらしい。

 ……一樹との昼ごはん、楽しみだな。

 

 そんなことを考えながら、私はゆっくりと歩いていた。

 一樹は私のペースに合わせてくれている。


 けれど、こうして昼ご飯のことを考えているのも、ゆっくり歩いているのも全て、私が現実から目を背けたいがための行動だった。


 今から、私は精神病院に入院している母に会いに行く。


 新生活にも慣れて、落ち着き始めてきた今しか行けないと思ったから。

 きっと先延ばしにしてしまったら、もう母に会いに行けない。


 心の準備もしないままで決めたことなので、結局、私は一樹の優しさに甘えてしまっている。


「……美月? 大丈夫か?」

「あ、う、うん、平気だよ……いや、ごめん、嘘。本当は、怖い」

「……そっか」

「ごめん。手、握ってくれない?」


 私がお願いすると、一樹は何も言わずに私の手を握ってくれた。

 おかげで怖さが少し和らぐ。


「震えてるな」

「あはは……家出してから、会ってなかったから、怖いし、緊張する。面会は了承してくれたけどさ。会って、なんて言われるのかなって」

「それでも会いたいんだな」

「……うん。会わなきゃいけないと思ったから」


 二人でそんな話をしながら曲がり角を曲がった時だった。

 一樹はまた何も言わずに、道路側を歩くことになった私と位置を入れ替える。


 さらっとした気遣いに私の心は癒された。


 やがて目的地が近づくにつれて、とうとう私は喋れなくなった。

 一樹も私の気持ちを察して、何も言わなかった。


 そうして駅からわざとゆっくり歩くこと三十分、私は母のいる病院に着いた。


「なんか、思ってたよりも大きいかも」

「だな」

「……ちょっと待って」


 病院の入り口の前に立って、私は目を瞑る。

 そして私はやっと心を決めた。


 話す内容を、考えておかないと。


「行こっか」


 病院に入ると、私は受付に行く。

 

 そこで受付すると、面会時間の十時ぴったりだったからか、私は面会証を渡されて、案内された。


「じゃあ一樹はここで待っててくれる?」

「ああ、座って待ってる」

「……ありがと」


 私はすぐに母のいる病室へと行こうとした。

 すると突然、一樹が私の頭の上にポンと手をのせる。


「そんな強張ってる顔だと、お母さんは美月って気づかないかもな」

「一樹……」

「笑ったほうが可愛い美月を見せられる」

「ふふ、それもそうだね……ありがとっ! 行ってくる」


 私は一樹に笑顔を見せて、母のいる病室へと向かった。

 母は三階の大部屋病室に入って右一番奥の病床にいるらしい。


 歩くたびに自分の鼓動が鮮明に聞こえるようになる。

 母のいる病室を前にした時、私はふと一樹の言葉を思い出した。


 ……お母さんに、今の私を見せないとだよね。


 私は一呼吸をおいて、開いていた扉から病室に入った。


 病室に入ると、案内された通りに入って右の一番奥のベッドの上に母がいた。

 どうやら看護師の人と話しているようだった。


 私が近づくと、看護師の人はこちらを見る


「面会の方ですね。では、失礼します。何かあれば呼んでください」


 看護師の人はそう言うと、同じ病室の別の患者のもとへと行ってしまった。

 

 二人きりにさせられて初めて、私は母の方を見た。


「……ひさ、しぶり。お母さん」


 久々に会う母の顔は随分と痩せていた。

 そして私が家にいた時はなかった火傷の跡が顔についていた。

 首筋から頬にかけての火傷跡は随分と痛々しい。


 目の下にはクマもあって、状態は良くないらしいことがわかる。


 私が母のことをじっと見ているのと、同じく、母も何も言わずに私をじっと見ていた。

 あまりにも何も言わないので、また私から話しかける。


「お、お母さん……あのねっ……!」

「ごめんなさい。誰……ですか?」

「っ……」


 母から発せられた言葉は予想もしていなかったことだった。

 勝手に私は母が私のことを覚えてくれていると勘違いしていた。


 けれど覚えていなかったらしい。


 母の言動はよそよそしくて、私はそれに耐えられずに母から目を逸らした。


「……美月です。数年前に家出して行った、あなたの実の……娘です」

「娘……私に娘なんて……」

「本当に覚えて、ないの?」

「ごめんなさい。記憶が曖昧な時があるの……私たち、どこかで会いましたか?」


 娘だと言っているにも関わらず、母は敬語を使うことをやめなかった。

 あの義父のせいで精神的にダメージを負っているとは聞いていた。


 でも、私の記憶がないほどに心の傷は深いらしい。


 ……会いに来なければよかった。


 私を恨んだままの母でいた方がまだ楽だった。

 現実ほど、残酷なほどはないらしい。


 私はしばらく何も喋れなかった。

 母からも言葉を発さないので、無言の時間が続いた。


「……げ、元気?」

「え、ええ……元気ですよ。あなたは?」

「……うん、私も元気」


 母のはずなのに、目の前にいる人が母ではない気さえした。

 

 そもそも私にお母さんなんていただろうか。

 私もそうやって忘れようとしても、できなかった。


 むしろそう思うたびに涙の嵐が寸前まで迫っていた。


 十分が経った頃、看護師の人がやってくる。


「そろそろ面会終了のお時間です」

「……はい、わかり、ました」


 結局、特に何も話さないまま、面会の時間は終わった。

 私は心にポッカリと穴を開けたまま帰ろうと、母に背を向ける。


 その時だった。


「……美月?」


 背後で私を呼ぶ声がした。

 振り返ると、目を見開かせて私を見ている母が私の名前を何度も呼んでいた。


「美月……ああ、美月、なのね。美月、美月……」

「っ……お母さんっ!」


 私は気づけば泣いていた。

 視界を滲ませながら、私は母に抱きつく。


「お母さんっ……!」

「美月……あぁ、美月がいる。私の、美月……」


 母の声と弱々しい体は震えていた。

 けれど、その震えた体で私のことを抱きしめ返した。


 ああ……暖かい。


 そっか、まだ私は愛されていたんだ。


「ごめんね、美月。今までごめんね……ごめんね」


 母は声を震わせながら、すすりながら、何度も謝った。

 

「ううん、私もごめん……私も、勝手に家出てって、ごめん」

「生きていてよかった。あぁ、おかえり、美月……おかえり」

「お母さん、私ね、あれから頑張ったんだよ。本当に、頑張ったんだよ?」

「頑張ったね……美月。辛い思い、ずっとさせて……ごめんね。私が、間違ってた。ずっと謝りたいって後悔してた」

「お母さん、本当は今までもこうやって、抱きしめられたかったの……でも、私も、家出したこと、ずっと謝りたかった。ごめんね……お母さん……ごめん」


 親と抱きしめ合いながら、声をあげて泣いたのはこれが最初で、同時に最後になると思った。


 やがて私が母から離れた時だった。

 母はまた、私を忘れた母に戻ってしまう。


「あれ……あなたは? なんで、私、こんな涙を……」


 それでも、母の目からは涙が依然として止まっていなかった。

 たとえ忘れても、私を見て、声をあげて泣いていた。


「お母さん、ばいばい……私を産んでくれてありがとう」


 私は再会の約束をせずにそう告げる。

 多分、もう私は母に会いに行かないだろう。


 私のせいで辛い過去を思い出してしまうなら、母の人生に最初から私はいなかったことにした方がいいと思ったから。


 看護師に会釈すると、私は母に背を向けて病室を出た。


 ***


「目、真っ赤っかだな。再会できたのか?」


 私が一樹の元に帰ると、真っ先に言われた言葉はそれだった。


 どうやら私の目は泣いていたのがわかりやすいくらい赤くなっているらしい。

 けれど私はそれを認識しただけで、何も感じられなかった。


「……うん」


 私は空返事をする。

 

 一樹はそんな私の目にハンカチを押し当てて、涙粒を拭ってくれた。


「……何かあったのか?」

「お母さんさ、私のこと、覚えてないみたいだった。思い出しても、ずっと、謝ってた」

「……そっか」

「私のせいで、私が家出したせいで、私が悪い子だったせいで……お母さんはああなっちゃったの、かな」


 改めて口に出すと、もう一度涙が溢れそうになる。

 

 察してくれた一樹は抱きしめようとしてくれた。

 けれど私は一樹の服だけを掴んで、それを拒否した。


 母親の愛をないものと思い込んで、それを簡単に捨ててしまった過去の自分が私は嫌でたまらなかった。

 私は私を許せなかった。


 もし私のことを恨んだままの母だったら、私は母のことを無視できた。

 でも、母の発した言葉は本物だったから、辛くなった。


「ねえ、私、自分が許せない……」


 一樹の服を強く掴んだまま、私はいつの間にかまた涙を流していた。

 今度は喜びというよりも、大きな喪失感からだった。


 それらを涙で埋めるように目から出てきて、止まらない。

 

 一樹は持っていたハンカチを差し出してくれた。

 私はそれで自分の顔を覆い隠すと、声を押し殺しながら泣いた。


 一樹は私が落ち着くまで待ってくれた。

 

 しかし私が落ち着いても、心の喪失感は消えなかった。


「これ、ハンカチありがと」

「……落ち着いたか?」

「うん、ごめんね、取り乱しちゃって……行こっか」


 私は泣き終わるや否や病院を後にすることに決める。

 

 もう……私は来ない方がいいだろう、お互いのために。


 そうして私は歩き出した。

 すると一樹はそんな私の腕を掴む。


「なあ、美月。一個だけ、言わせてくれ」

「……何を?」

「さっきさ、お母さんの件で自分を責めてたけど、過去の自分を責めるほどの余裕は美月にはないだろ。だから、そうやって自分は責めない方がいい」

「だって、私のせいでお母さんが……!」

「これからは……! これからは……美月の人生なんだ。もしまた誰かに左右されそうなら俺もそばにいるから」


 ああ、なんでだろう、なんでいつもこの人は私が欲しい言葉をかけてくれるのだろう。


「だからこれ以上自分のことを責めないで欲しい。もう美月は、自分の人生を楽しんでくれ」

「私の、人生……」

「ああ、新しい美月の人生なんだ」


 今まで私は環境に人生を左右されて生きてきた。

 

 でも、今の私には夢がある、歩みたい人生がある。


 過去に左右されるのはもう今日でおしまい。


 これからの私に新しい人生があるように、母にも歩みたかった人生があるはず。

 そこにもしも私がいるならば、また、巡り会うのかもしれない。

 

 けれどそうでなくても母がこれから歩みたい人生を歩められたらそれでいい。

 

 だって、もう私にも私の人生があるのだから、一樹の言う通り、気にする必要はない。


 ……そっか、もう、新しい人生を、歩んでいいんだ。


 そう思って、やっと、私は前を向いた。

 一樹は私のすぐ目の間にいた。


 そして私が一樹の手をとった時。

 強い光がその先を照らしてくれたような気がした。


 私はこの人といれば、どんなことがあっても、新しい人生を歩める気がする。


 一樹にとっての私もそんな存在であることを心の中で祈りながら、私は一樹の目を見て笑った。


「行こっか。一樹」

「ああ、そうだな」


 一樹の暖かな笑顔はすぐに、私の空いた心の穴を塞いでくれた。


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― 新着の感想 ―
過去にケリをつけることが出来てよかった。でも1番悪いのはクソ義父。その次は母親。彼女は娘を放置、助けなかった。最悪の母親だと思う。美月は被害者。何にも悪くない。恨んでもいい。まあ美月が優しいだけなんだ…
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