アフターストーリー① 一樹のそれから
冬の例の事件があってからというもの、夢の中に頻繁に昔の思い出が出てくる。
毎度、内容は違うがどれもが一貫して美月との思い出と繋がっていた。
夢の中で何も知らない一樹が知らないながらも勇気を持って美月に近づく、そんな夢。
『……ばいばい、一樹』
また、夢の中。
しかし意識ははっきりとしていて、一樹は何と言葉をかけるべきなのかを夢の中で考えていた。
夢の中の一樹はこの後に起きることを知らない。
ただ、もう何もできずに終わるのが嫌だという不透明な気持ちだけが一樹に言葉を発せさせる。
『美月……っ!』
『……何?』
『何かあったら連絡しろ。頼む。そしたらその時は、美月がどこにいても絶対に助けに行くから!』
一樹がそれを言い終えたところで、体がふわっと浮き、夢の内容は変わる。
神社の鳥居の前で浴衣を着て佇んでいる美月を一樹の視界に入れていた。
どういうわけか一樹の手には小型カメラがあって、それを美月に向けると、シャッターボタンを一押し。
今度の内容はよくわからない。
思い出、なのだろうか。
カメラ越しの美月はこちらを見てニコッと笑った。
その笑顔の写真を撮るために一樹はもう一度、シャッターを切った。
そこで一樹の夢は終わった。
ゆっくりと目を開けると、黒画面のテレビが一樹の目に入る。
昼食終わりで、うとうとしていたところをそのまま眠ってしまったのだろう。
一樹は寝起きで辺りを見渡した。
しかし家には誰もいないようである。
「……美月はまだバイトか」
一樹は息を大きく吸うと、それを止めながら背伸びをする。
体を弛緩させてやっと一樹は息を吐いた。
例の事件があってから約二ヶ月が経過した三月下旬の今日。
あの出来事は大きな節目になったと一樹は思っている。
何かが終わって、何かが始まった。
あれから、大きく変わったわけではないが二人の環境は少しずつ少しずつ変わっていった。
まず、美月の義父があの後、児童ポルノと虐待の罪で逮捕された。
そのまま実刑判決で牢屋行き。
もう、美月が苦しめられることは無くなった。
そしてあそこにいた女児が苦しめられることも無くなった。
あの事件の日に一緒にいた女児は義父の不倫相手の娘だったらしい。
最近、一樹は美月とその女児に会った。
女児の方から二人に会いたいと言ってくれたのだ。
そこで初めて一樹は美月だけでなく女児も救えたことがわかった。
事件以来に会った女児は良い里親を引き連れていて、笑顔で話していた。
里親曰く、まだ心の傷跡は残っているらしいのでそこは少しずつ治していくそうである。
『あの子、元気そうでよかった。良い親に出会えたみたいで……本当に、よかった』
『そうだな。会った時もはしゃいでたし』
『心の傷は簡単には治らないけどちょっとずつ治っていくといいね』
『……美月は、もう大丈夫なのか?』
『うん、平気。育ちは大変だったけどさ、悪いことばっかりじゃなかったって思ってる。全部含めて私の人生だなーって思えるようになってさ……一樹とも出会えたし、ふふ』
美月とのそんな会話した日のすぐ後、美月もやはり出会った頃から随分と変わったと思わされることがあった。
突然に美月から、
『一樹、今までありがとう。私、一樹が大学四年生になる前にはここを出て行こうと思う』
と、言われた。
美月とのこの生活もいつかは終わる。
それを覚悟していなかったわけではないから、驚いたけれども一樹は首を縦に振った。
それからの月日の流れは早いもので、もう来週になれば美月は家を出ていく。
新しい正社員としての就職先が決まったらしい。
児童福祉施設で働くそうなのだ。
『虐待を受けたり、そういう環境で育っている子を少しでも助けたいなって思ってるの。それも、恩返しになるから』
美月がそう言うので、夢が叶ったのかと聞いたがまだ途中らしい。
夢の内容はまだ教えてくれなかった。
四、五ヶ月程度の同居生活だった。
早いように感じても振り返れば長い。
美月と過ごした思い出のどれもが濃くて楽しい思い出ばかりだったからだ。
名残惜しさや寂しさを感じながらも時間には逆らえない。
それに、一樹にはもうその過去を振り返っている時間はない。
まだ決めていない将来のことを、決めなければならないから。
「……俺も頑張らないとな」
一樹は独り言を呟くと、ソファから立ち上がる。
時刻を見れば十六時過ぎ、これから一樹もバイトの時間だ。
***
夜の居酒屋の騒々しさも慣れれば心地の良い音楽に変わる。
客の笑い声、話し声、グラスとグラスがぶつかる音。
一樹が料理を届けるたびに大抵の客は笑っていて、酒で気分が良くなった常連などは気さくに話しかけてくれる。
忙しいといえば忙しい。
「これ二番テーブル持ってって」
食器を片付けたり、料理を運んだり、注文を聞いたりと店内を縦横無尽に駆け回らないといけない。
けれどもその忙しさにピリピリとした雰囲気のないこの場所は好きだ。
そうしてバイト中、一樹がいつも通りに注文を聞きに行った時だった。
「はい、ご注文をお伺いします」
「あ、じゃあ一樹くんひとつお願いします」
注文を聞く一樹に対してそんなボケを言っているのは宇都と真斗の二人。
来ていたことに驚きながら、一樹はとりあえず突っ込む。
「……俺は男なんだが」
「うちらどっちもいけるねんで」
「俺は無理……っていうか来てたんだな」
「そうやねん。遊びに来たでー」
「やっぱり一樹のバイト服姿、かっこいいよな」
「それはどうも」
「そうやなー。これはうちらみたいな女の子でも簡単にホテル持ち帰れるで」
ツッコミを入れる気も失せた一樹はとりあえず苦笑いしておく。
友人がバイト先に来られるとやりづらい部分はあるのだが、バイト先に来てくれるぐらい仲のいい友人を持ったとも言える。
そう思うと、バイトのやる気も上がってくる。
加えて二ヶ月に一回くらいの頻度で店に来て大量に飲み食いしてくれるので、店側としてもいい客である。
けれどそれらを除いて人として見てみると二人はかなりの変態だ。
「で、注文は?」
「ほな、さっき一樹の後ろ通った店員さんで」
一樹と話しているにも関わらず、二人は一瞬後ろを通った女の方に視線を向ける。
こういうところでやはり二人の変態さがわかる。
「無理、五個上だし彼氏持ち。で、とりあえず、生ビール二つと唐揚げでいいか?」
「あ、じゃあそれで」
一樹は友人から注文を受けると、キッチンへと向かう。
いつも通りの友人のやり取り。
多分、大学を卒業するまでは変わらないのだろう。
しかし社会人になればどうなのだろうか。
この関係は続くのか、それとも変わってしまうのか。
人間関係も、日常生活も、過去と比べれば少しずつ変わっているのがわかる。
例えば以前は頻繁に聞こえていた、どこかの誰かが皿を落とす音も今はしない。
前によく来ていた常連さんも単身赴任でもう来なくなった。
バイトの環境だけではない。
美月も来週になれば家を出ていく。
関係が永遠に続くと思えるような友人二人も社会人になれば疎遠になっていくかもしれない。
そんなことをぼんやりと考えながら、一樹はバイトに打ち込んでいた。
「じゃあ、かずきー、ごちそうさまあ。店の料理、うまかったわあ」
「ちょ、宇都飲み過ぎだろ。なんで俺が面倒見なきゃいけないんだよ」
「おう、また店に来てくれ」
やがて友人二人が店を出ていくのを境に店は段々と静かになっていった。
業務をこなしているうちに気づけば閉店。
食器を片付けて、店長に呼ばれたりして、当然、閉店後も仕事はある。
そうして一樹がまたぼんやりと考え事をしながら、机の上を拭いていた時だった。
「先輩っ! お疲れ様ですっ!」
後ろから元気のいい声が聞こえてきたと思ったら、背中を誰かに叩かれる。
振り返れば、犯人はいつもよりも笑顔の小鈴だった。
「いたっ……骨折れたかも」
「私、そんなに力強くないですよ!? ……って、先輩、そんな冗談言う人でしたっけ? 機嫌良さげ?」
「別に。あと、そっくりそのまま返す。なんでそんなに笑顔なんだ?」
「ふふん、それはですね。明日、合コンがあるからなんです。これはいい男をゲットするチャンスですっ」
小鈴はニヤニヤとしながら胸の前で拳をグッと固める。
……どうやら小鈴の方でも変化はあったらしい。
「で、先輩はなんでそんなに機嫌良さげなんですか? 店長に呼ばれてたことと何か関係あります?」
「そうか? 別にいつも通りだけどな。友達来てたっていうのはあるかもな」
「なるほど。ちなみに店長の呼び出しは何だったんですか?」
「卒業したら正社員やらないかっていうお誘い。半分冗談っぽく言ってたけどな」
店長からの呼び出しは正社員をやらないかというお誘いだった。
が、どうやら半分冗談のようで、お土産を渡されるついでに言われたわけだ。
「先輩はなんていったんですか?」
「考えとくってはぐらかした」
「正社員やったらいいのに。可愛い後輩の巣立ちを見届けてくださいよ。先輩が抜けるんだったら私もバイト辞めます」
「自分で可愛い言うな。あとなんで俺が抜けたらバイトを辞めるんだ?」
「そりゃあ、先輩とのこんなやり取りのためにやってるようなものですし。先輩が抜けたらつまらないです」
「……そっか」
時間が経つたびに周りの環境は少しずつ変化していく。
人生を歩む上ではきっとそれは当たり前のこと。
過去と比べて寂しいなどは感じるかもしれないが、それらの変化に良い悪いはつかないと一樹は思う。
変化があったから目の間の小鈴と出会えて、仲良くなれた。
でも、変化があるからバイトの先輩後輩という関係はいつかなくなる。
悩みがあって、変化があって、新たな悩みができて。
その分、日々の楽しみも増えて。
別れがあって、出会いがあって。
今までの関係の終わりは、新たな関係の始まりを告げて。
きっと大きな変化を求めれば新しい日常に踏み入れられるのだろう。
けれど最近、一樹は無理にでも今を変えなくても良いのではないかと思っている。
……って、考えすぎだな。ちょっと前の自分からは想像もつかないな。
これもまた変化なのだろう。
「俺に夢があればな」
「急にどうしたんですか? 将来の不安とかですか?」
「そんなところ」
「じゃあ世界一のプロボクサーになっちゃいましょう」
「……なんでボクサー?」
「最近ボクシング見るのにハマっちゃって。先輩が世界一になったら古参だぞって自慢するんです」
明日が合コンの小鈴の気分は高いようで猫パンチのようなシャドーを一生懸命している。
それを見て、一樹は笑った。
特段それが面白かったわけではない。
いつも通りのやり取りだったからこそ、笑ってしまったのだ。
俺のやりたいことは、もしかしたら……。
***
二十三時前、バイトが終わった一樹は居酒屋から家に帰った。
家の扉を開けるとリビングの電気はまだついていたようで、美月はまだ起きているらしかった。
「ただいま」
一樹は美月がいると思い、少し大きな声で言う。
しかし返事は返ってこなかった。
いつもなら「おかえり」の返事がすぐに返ってくるので、違和感を感じる。
不思議に思いながらも、靴を脱いで家へ上がった時だった。
リビングのテーブルに突っ伏して眠っている美月の姿が視界に映った。
右手にはシャーペンが握られていて、美月の頬下には教材の縁がある。
どうやら勉強したまま疲れて寝落ちしてしまったらしい。
割とあることだが、いつも心配になる。
しかし夢のためにと頑張っている美月を見ると、自分の物事に対するやる気も上がる。
美月はどうやら深い眠りに入っているようで、寝息を立てていた。
ここで眠っても睡眠の質が落ちて疲れが取れない。
可愛らしい寝顔を起こすのは少々はばかられたが、一樹は美月の頬を何度か突いてみる。
すると、美月はゆっくりと目をあけて、寝ぼけた声で喋り出した。
「……かず、き?」
「おはよう、あとただいま」
「おかえり……? って、やばっ!? 私寝てた!?」
美月は焦った様子で机から顔を上げる。
案の定、教材の縁を下にして寝ていた頬には跡がついていた。
髪も少し乱れている。
しかし側から見たらだらしなく見えるそれは、一樹には努力の証にしか見えなかった。
「あー、髪もボサボサだし……やっちゃった」
「ほっぺにもあとがついてるぞ」
「嘘っ!? ……はっず」
美月はだんだんと頬を赤くする。
それを見た一樹は可愛らしいなと思って笑うのだが、おかげで美月はさらにはにかんだ。
やはりどんな美月を見ても一樹にとっては魅力的で愛おしかった。
でも、今はなぜか、美月が遠い存在のように思えて、寂しさに似た何かも感じている。
将来に対する不安からだろうか。
「今日はもう寝たらどうだ?」
「そうだね。じゃあ先に寝るね。おやすみ」
「おやすみ」
美月は教材を早々に片付けると、自身の部屋へと戻っていった。
そうしてリビングに一人、もう何もないテーブルの上をぼーっと眺めながら一樹は立っていた。
一樹の人生設計はそのテーブルの色のように不透明なものだった。
将来、何をやりたいかなどは美月のように決まっているわけではない。
今まで何も考えずに生きてきたのだから当然だ。
けれどこの生活が続けばなと心の隅では思っている。
それは変化を受け入れたくないと言うわけではなくて、変化を自分から求めたくないだけ。
少しずつの変化の過程で一樹はやりたいことを見つけたい。
だから……。
そして、一樹は母に電話をかけた。
幸いにもまだ寝ていなかったらしく、一樹の突然の電話にワンコールで対応した。
「もしもし、母さん。相談があるんだが……」
***
美月との同居の最後の一週間も特にいつも通りに過ごしていた。
新しい住居を見せてもらったり、一緒に家具を選んだりはしたが何も変わらない日常を送っていた。
だからなのか、その時まで美月が家からいなくなるという実感が湧かなかった。
多分、美月もそうだった。
「もう、行くのか?」
「うん、そろそろ行きます」
美月が家を出たのは四月も入ったばかりの頃。
土曜日の夕方のことだった。
小さなスーツケースを持っている美月を一樹は玄関で見送る。
「ついていって何か手伝ったほうがいいか?」
「ううん、もう生活必需品は向こうにあるし、あとは私が住むだけだから」
「そっか……あんまり実感が湧かないな。もう行くのか」
「ふふ、いつまでもお世話になるわけにはいかないから。これからは私が一樹に恩返しする番」
「恩返しと言われても、俺も美月に感謝することだらけだぞ」
「私の方が一樹に感謝することだらけだよ」
美月は謎の対抗心を燃やして、わかりやすく口先を尖らせる。
可愛らしい仕草だったので、一樹もそれを真似をすると、お互いに吹き出した。
しばらく笑い合ってから、美月はもう一度一樹の方を向く。
「……改めて、一樹、この数ヶ月間ありがとうね。大変なこともあったけど、楽しかったし、何度も助けられた」
「こちらこそありがとう。楽しかった。いつでも泊まりに来ていいからな」
「うん、ありがと。一樹もいつでも泊まりに来ていいからね」
「ああ、そうする……ここから一時間くらいだしな。泊まりじゃなくても会いに行けるな」
お互いに会うのが難しい距離にいるわけではない。
一樹の家から美月の家まで一時間くらいなので、時間があればいつでも会いにいける。
だから、そう悲しむこともない、はずなのだ。
けれどその時が近づくたび、胸が痛くなって何かが溢れそうになる。
「じゃあ、ね……かず、き……」
そうして美月が別れの挨拶をして去ろうとした時だった。
美月の目から突然涙が溢れ出した。
すぐに美月は自分の手で顔を覆ってそれを隠す。
「ご、ごめん……いざ離れるってなったら、涙……止まらなくて……」
一樹はそんな美月を抱きしめた。
感化されて出てきた自分の涙を美月に見られるのは少々恥ずかしかったのだ。
美月は一樹の胸元で声を上げて泣いた。
一樹も静かに涙を流していた。
一生のお別れというわけではないのに、溢れ出たものをどうすることもできなかった。
しばらくして、落ち着いた二人は離れる。
「永遠の別れってわけでもないのに、なんでだろうね……って、あれ? 一樹も泣いてた?」
「……恥ずかしながら」
「ふふ、寂しいんだー」
「泣いてたのは事実だから否定はしない」
一樹は素直じゃない返答する。
すると美月は目を赤らめながらもクスッと笑った。
「じゃあ……ばいばい、一樹」
美月はそう言って小さく手を振った。
一生のお別れというわけではないのに、どうしてだろうか。
『……ばいばい、一樹』
あの時と、重なる。
でも、今はあの時とは違う。
「なあ、美月……約束、覚えてるか?」
「うん、もちろん、覚えてるよ。私から言ったんだから。一樹こそ、他の女の子に目移りとかしないでよ?」
「するわけない」
「……本当かな?」
美月は目を細くすると、そのまま目を瞑って、顔を少し上げた。
頬を赤ながら、口元には微笑が隠れている。
「まだ付き合ってはないんだけどな」
「いいじゃん。海外だと普通らしいし……それに、したそうだったし」
「俺ってやっぱりわかりやすいんだな」
「うん……ほら、早くっ、女の子待たせないでよ」
一樹は美月の頬に手を添えると優しく唇に口付けをした。
触れ合っている時間はやはり幸せで、何もかもが満たされていく。
短くリップ音を立てて口付けを終えると、また、お互いに抱きしめ合う。
「……もうちょっとだけ待ってて」
「ああ、いくらでも待つ」
「ありがと。やっぱり一樹は優しいね」
幸せな時間にも終わりがくる。
二人が離れると、美月はスーツケースを片手に持った。
「じゃあね……ばいばい、一樹」
「ああ、気をつけて」
「うん、着いたら連絡するね。今までお世話になりました」
そうして数ヶ月間の同居生活は終わり、美月は一樹の家から出ていった。
今度はその姿が見えなくなるまで、一樹はしっかりと見届けた。




