第三十六話 濃い一日の終わりに
一樹が美月の父親と自称する中年男性と殴り合いの喧嘩になった後のことは面倒だった。
喧嘩中に警察が駆けつけて、一樹と男は捕まった。
殴り合っていてお互いに怪我していたことに加えて、男の方が怒りも収まっていなかったのだ。
言い分も平行線で埒が開かないので署で事情を聞かれることになった。
けれどちょうどいい機会だったと逆に思った。
言っていたことが本当なら、美月に対する虐待でそのまま牢にでも入ってくれるかもしれない。
本当なら、一樹は男を許せない。
嘘でも、一樹は男が美月を侮辱したことを許せない。
そんな苛立ちを抑えながら、一樹は取り調べを受けていた。
一方で美月も任意同行という形で署で話を聞かされ、女児の方は保護されたらしい。
結局、二人が署から出ることができたのは二十一時を過ぎたあとだった。
夜の警察署の外、寒い外気を身に感じながら一樹と美月の二人は突っ立っていた。
「……一樹、ごめんね、巻き込んだりして」
「いや、むしろ助けられてよかった。ちなみに、なんであそこにいたんだ?」
「えっと、ね、猫を追っかけてたら……女の子が男の人に殴られてるのを見て」
「猫って……茶色の毛で、翠色の目をしたラーメン屋の猫?」
「うん、それ」
「……なるほどな」
猫のおかげで一樹は美月を早く助けに行けたわけだが、猫のせいで美月が巻き込まれたのでなんとも言えない。
一樹は一つため息をついた。
すると美月はそんな一樹を見て何か勘違いしたのか、顔を俯かせた。
「……イルミネーション、行けなくなってごめん」
「それならまた行けばいい」
「……怪我させて、ごめん」
「そう何回も謝らないでくれ。美月が無事だったからそれで……」
「……今まで、ずっとずっと、ごめん」
何度も何度も謝っている美月の声は震えていた。
美月の方を見てみると、ポロポロと大粒の涙をその綺麗な目から流している。
それを見た一樹が手で美月の涙を何回か拭うと、美月のことを抱きしめる。
すると美月の涙は土砂降りの雨のようになり、一樹の腕の中ですすり泣いていた。
一樹は何の言葉をかけるわけでもなく、彼女のことを抱きしめてそばにいるだけだった。
「……ありがと。ちょっと……落ち着いた」
しばらくして美月は一樹から離れる。
けれど美月の顔に笑みが浮かぶことはなかった。
今日一日は大変だった。
美月の体にも疲労の限界がきているのだろう。
一樹も気を抜けば寝てしまいそうだ。
「ご飯は食べたか?」
「うん、弁当もらったからそれを食べた。一樹は、もう、食べたの?」
「ああ、俺も弁当をもらった……じゃあタクシー呼んでホテル行くか」
そうして濃くて長い二人の一日はようやく終わった。
心身ともに疲労しているからか、二人はホテルに着くまで間、一言も話さなかった。
***
「お風呂、先に入っていいぞ」
二十一時半、ようやくホテルの部屋に入った一樹はまず先に美月にお風呂を進める。
美月はずっと疲れ切った顔をしていて、先ほどから一言も話そうとしなかった。
そんな美月を見ていると心配にもなる。
「……いいの? 私が先に入って」
「ああ、疲れてるだろうし……俺は後で入りたいから」
「……そっか、ありがと」
美月は元々少ない荷物の整理を早く済ませると、浴室へと入っていった。
一樹も荷物の整理を済ませると、ようやくベッドに腰掛ける。
すると疲れがドッと押し寄せてきて、知らないうちにため息を吐いていた。
疲労でもう何も考えられない。
一樹はぼーっとしながら座るのみで、一樹の内の声も外の音も何も聞こえない。
やがて美月がシャワーをつけ始めた段階で、目を開けながら寝ていたような状態から目を覚ます。
第一に考えたことは美月と先ほどの男との関係性だった。
『美月の父親だしな』
『美月の処女は俺が奪った』
『俺はこいつらのためにやってるだけ。こいつらも喜んでやってるだけ』
決して父親が発していいような言葉ではなかった。
それで点と点が繋がるとしても一樹はあれを美月の父親などと思いたくない。
しかし美月は男に対してひどく怯えていた。
美月がその言葉に関して何も言及していないのもまた事実だった。
「……憶測で考えるのはダメだな」
美月が風呂から上がったら、話を聞かせてもらえるだろうか。
聞かなくてもいいと思えるほどの余裕が今の一樹にはない。
今この瞬間も本当はまだ笑顔を見せない美月が心配で落ち着かない。
じっとしていられない一樹はコンビニで買ったスト缶を冷蔵庫の中で冷やしておく。
テレビでもつけながら、もう少し部屋の中の音をうるさくしておいた。
そんなことをしていると、美月が浴室から出てくる。
「ごめん、お待たせ」
お風呂から出てきた美月は幾分か疲れが取れているようだった。
顔色が先ほどよりはいい。
加えて、純粋に美月に見惚れてしまっていた一樹は美月の方をそのままじっと見つめる。
美月はホテルにあったバスローブをパジャマとして使っていて、いつもより色気があるのだ。
それを見て、疲れが一気に吹っ飛ぶ。
「な、何? ……そんなに見られると、ちょっと恥ずかしいんだけど」
「あ……わ、悪い。俺も入ってくる」
美月はそんな一樹を見て、頬を赤ながら笑った。
おかげで一樹は恥ずかしくなるが、それ以上にそんなやり取りで笑顔を見せた美月の顔を見られて、体も心も火照るのを感じた。
そうして一樹がシャワーを終えた時だった。
浴室から出ると美月は一樹がつけたテレビも決してベッドで横たわっていた。
カーテンの開いた窓側を向いていて、顔は見えない。
「……もう、寝たか?」
一樹は声の音量を下げて美月にそう聞く。
美月はどうやら起きていたらしく、それを聞いて体を起き上がらせた。
「ううん、起きてるよ」
視線は窓側に向けたまま、何か考え事をしているらしかった。
一樹はそんな美月の元に近づく。
「隣、座ってもいいか?」
「うん、どうぞ」
何となく美月の声が聞きたかった一樹はわざわざ許可を得ると、美月の隣に座る。
そうして隣の彼女が見ている景色を一樹も一緒になって見ていた。
まだ二十二時ごろだからなのか、街の明かりが点々と見える。
ホテルから見る街並みも綺麗だ。
それとも、美月と同じものを見ているからそう感じるだけなのだろうか。
「……ねえ、一樹」
しばらく、二人で無言で景色を共有していた時だった。
美月がそう言うと、一樹の肩に頭を乗っけた。
もう一段階、心臓の鼓動が早くなる。
それと同時に、胸が痛いとも感じてしまったのはこの早くなった鼓動のせいなのだろうか。
「……どうした?」
一樹は儚い声を出す美月に問いかける。
すると美月は柔らかい笑みを浮かべながら言った。
「……ねえ、一樹に全部、話してもいい? ……私のこと」
そんな問いに対する一樹の答えはとっくの前から決まっていた。
「ああ、何でも聞く」
「ふふ……ありがと」
美月は一樹の手をぎゅっと握る。
そして、美月は過去をゆっくりと話し始めた。
「私は……」




