美月視点⑥ 頭の中の雨音と雨雲
「ちょっとコンビニ寄っていいか?」
日も落ち切った夕方、私が一樹と二人でホテルめがけて歩いていた時だった。
コンビニの前を通りかかった時、一樹はそう言った。
私も何か買おうかな、ホテルでも二人でちょっとは飲むだろうし。
そう思った時、私はなんとなく既視感を感じてコンビニに行くことを躊躇った。
だいぶ昔のことだけれどあの日のことはまだ鮮明に覚えている。
枕営業から逃げて、トラウマを思い出して、酒に溺れようとした先に一樹がいたから巻き込んだこと。
コンビニでの再会なんて偶然中の偶然で、私も一樹も予想していなかった。
けれどそんな久しぶりの再会を利用して私は一樹を傷つけてしまった。
私は今、一度そう思い出してしまった。
だからなのか、苦い思い出が連鎖反応となって呼び起こされて、それらが私の頭の中を埋め尽くしていった。
するはずのない雨の音が、頭の中から鳴っている。
「わかった。じゃあ私、外で待ってるね」
「来ないのか?」
「うん。買いたいものもないし……懐かしい街並みだからちょっと浸ってたいんだよね」
私はそう言ってコンビニの前で待つことにした。
コンビニに入れば、また過去に支配されるような気がした。
私の件について触れている雑誌も視界に入れたくない。
グラビアはもう休止のままやめたので、いつしか風化する。
でも、今もまだ燃えていると思うと、コンビニの中に入ることはできなかった。
だったら懐かしい街並みを見て、頭の中をそれで埋めたかった。
この土地は私が先輩によく連れてもらっていたところだった。
イルミネーションを見に行かせてもらったり、二人でご飯を食べにいったり、ゲームセンターに行ったり。
私は青春を知らない。
けれどそのかけらを教えてくれたのは志織先輩だった。
ここから歩いて数十分程度のそう遠くないところに大きな通りがある。
そこは居酒屋、ラブホテル、ホストなどの店が多く立ち並ぶ夜の通り。
私はその通りにあるキャバクラの店で働いていた。
キャバクラで働いていた思い出は志織先輩のおかげで、懐かしいと今は思える。
私がそんなことをコンビニの前で考えている時だった。
猫の鳴き声がした。
「にゃあ」
私は猫の声がした方を向く。
すると、すでに猫は私の足元に寄って来ていて、その周りをくるくると回っていた。
茶色の毛と翠色の目を持つ大人の猫だった。
私はなぜかその猫に見覚えがあった。
とはいえ、どこにでもいるような猫ではあるので、私はあまり考えず、猫に視線を合わせる。
「んんー、にゃあにゃあ可愛いねえ」
私は猫に手を伸ばす。
しかし猫はその手を見ても逃げることなく、むしろ猫のほうからあごを擦りに来ていた。
人慣れしてるのかな、それとも私にだけだったり?
そう思って、私は気分を上げながら猫をそのまま撫でていた。
しばらくして、猫は「にゃあ」と先ほどのように鳴くと、私の手から離れる。
そしてそのまま私の元から去っていこうとする猫に惜しさと寂しさを感じながら、見送ろうとした時だった。
私の方を振り向いて、もう一度鳴いた。
「……どうしたの?」
「にゃあ」
まるでついてこいとでも言っているかのような、そんな気がした。
私は迷って、コンビニの中を少し見てみる。
すると、スイーツコーナーの前で悩んでいる一樹の様子が視界に入った。
……さっきスイーツ食べたのに、意外に甘党なのかな?
そんな一樹の意外な一面に気づきつつ、同時に私は少しくらいならと猫についていくことに決める。
私が猫に向かって歩き出したのを見て、猫は進み出した。
そのまままっすぐ歩いて行く、かと思ったが猫は急に左に曲がった。
猫の後を追ってみれば、猫は人一人ほどしか通れないくらいの横幅の狭い路地裏に入ったらしかった。
私が入るのを躊躇っていると、また猫は私の方を向いて鳴く。
この先に何かあるのだろうか。
ただの経験談だけれど、猫について行くといいことがあったりする。
私はそう思って一樹に一度連絡入れようとした。
しかし猫は構わずに進み出したので私はスマホをしまって、猫についていった。
そして猫を追いかける世間知らずの少女のように、狭い路地裏を通って、猫のあとを追っていった。
左を曲がって、まっすぐ行って、右を曲がって。
迷子になったら、その時は一樹に来てもらおう。
どこに行くかもしれないで、けれど別にどこに行っても、その先には一樹がいる。
猫の目的地は綺麗なお花畑とかだろうか。
建物が立ち並ぶこんな場所で花畑があるとは思えなくても、私はそう夢を見ていた。
しかし、現実はそうならなかったらしい。
そうして着いた先は、ラーメン屋の裏口だった。
どうやらラーメン屋の猫だったようで、猫は半開きのドアから中へと入っていってしまった。
懐っこいと思ったが単に人慣れしていただけらしい。
ついてこいとでも言っているのかと思ったが、私の勘違いらしい。
ともかく、ラーメン店自体からは美味しそうな匂いが漂っていたので、一樹と行ってもいいかもしれない。
……でも、今日は一樹、高いものでも食べたいかな。
夕飯も私がお金を払う予定なので一樹に後で何を食べたいか聞こう。
そんなことを考えながら私は来た道を戻っていく。
まっすぐ行って、左を曲がって。
その時だった。
私の頭の中で雨の音がした。
嫌な雨の音がした。
もうすでに外は暗くて、建物から溢れ出る光のみが頼りだったのに、その顔が鮮明に見えた気がした。
シルエットになっても忘れられないその体格、姿、形。
そして、声。
「何度言ったらわかる! やっぱりお前の遺伝子はあいつのものみたいだな!」
私の目の前にいた人物は二人。
いい体格をした中年男性と、彼の前に立っている小さな子供。
よく見てみると、五才くらいの女児らしかった。
そして目の前の男は小さな女児の顔を思いっきり殴った。
私の中の雨が強くなった。
雨が強くなって、叩かれた女児が発しているはずの泣き声がまるで聞こえない。
もしかして、とはこの街に来る前に思った。
私があの家を出た後の事情なんて知らなかったから。
でもだからこそ、この街にいるとは思っていなかった。
正確に言えばいる想像をしなかった。
一度この街で会ったことがあるにも関わらず。私はそれを思い出さないようにしていた。
助けに、行かないと。
でも、私一人じゃ……。
ちょうどよく、私のスマホにメールが届く。
『どこにいるんだ?』
一樹からのメールだった。
私はすぐに返信をした。
『助けて、一樹』
私はそんなメールと共に位置情報を一樹に送る。
そしてスマホを閉じた。
「だから! 俺の言うことを聞けって言ってるだろ! 本当にお前は!」
もう一度前を見た時、男は女児を蹴っていた。
恐怖で足がすくむ。
架空の雨音がさらに強くなる。
二人がどういう関係なのかはわからない。
でも、早く行かなければあの女児がもっと怪我をする。
身体的にも、精神的にも。
幸いにもあの女児はまだ泣くことができているのだ。
早く、早く私が助けにいかないとダメなのに。
けれど、目の前にいる男は私の頭の中の雨雲だった。
怒鳴り声と、泣き声と、心臓の音と、雨音と。
今度は全てが混ざり合って、全てが聞こえる。
過呼吸で倒れそうになる、意識を失いそうになる。
痛い、辛い、怖い、思い出したくない。
嫌だ、思い出したくない。
だったら、だったら……!
もう思い出したくないんだったら……!
そして、私は薄れる意識の中で将来の自分を見た。
私はそこで子供たちと笑いながら、保育所のグラウンドで戯れあっていた。
薄れる意識の中で一樹の無邪気な笑顔を見た。
『なにがあっても、そばにいるから』
そっか、私、誰にも何も恩返しをできてない。
なら、こんなところで夢を見ている場合じゃない。
私は意識を失いそうになりながらも、心臓を抑えて、歯を食いしばって、前に走る。
そして私は頭の中の雨を怒りの原動力に変えて、男の顔を思いっきり殴りにいった。
私のその拳は男の頬にヒットする。
けれど、全力とはいえ非力な私のパンチを受けた相手はただ頬を抑えるのみの反応だった。
私は女児を後ろにして、彼女を守るように男の前に立った。
「っ……いって、てめえクソガキ、何しやが……」
私が殴ったことで、男は私の方を向く。
そして目があった。
「……お前」
「久しぶり……お義父さん」
男は数秒前に殴られたにも関わらずニヤッとしながら私の体を舐め回すように見る。
不快で不快で仕方がない。
気を抜けば意識を失いそうにもなる。
しかし女児が私の後ろにいる以上、倒れるわけにはいかなかった。
「久しぶりだな、美月……いや、月乃だっけか?」
「知ってたんだ、私のこと」
「それはな。俺に股開けてた義理の娘がグラビアやってるんだもなあ!」
「……」
「ちょっと面貸せよ。イラついてんだよ。どうせお前、まだヤリマンだろ。枕営業とかしちゃってなあ」
男は私の左腕を掴んだ。
それを振り払おうと私は必死に抵抗する。
しかし逆に男は腕を掴む手を離したかと思うと、私の顔を思いっきり殴った。
その反動で後ろに飛ばされそうになるが、私は後ろの女児のためにも踏ん張る。
痛い。
でも、この痛さも懐かしいと思えるほど、私は思ったよりも強くなっているらしい。
ずっと怖かったけれど、今は前を向ける、大丈夫。
恩返しをする。
ただその一つの気持ちが私の原動力だった。




