第三十三話 人生の先輩と恩人
「ねえ、もしかして美月?」
後ろを振り向いた時、そこに立っていたのは綺麗な容姿を持つ女性だった。
美しい、そんな言葉が似合う。
黒のパーマがかったロングヘアに、パッチリとした瞳、耳には大きめの金色のピアスがついている。
茶色のコートを羽織っていて、姿勢がいい。
それがまた大人っぽさを感じさせられた。
隣にいる美月をチラッと見ると、目を見開けて笑みを隠しきれていない様子だ。
「っ……先輩っ! 久しぶり!」
美月はぷるぷると肩を振るわせ始めたかと思うと、先輩に抱きついた。
先輩は困ったような顔をしながらもそれを受け止める。
「久しぶり……もう、美月。ちょっと暑いんだけど」
「久しぶりだからいいじゃん……っていうか、先輩、前よりも可愛い!」
「当たり前じゃない。でも、美月も可愛くなってる」
「ほんと? ありがと!」
さながら姉妹のようだなと思いながら、一樹はその様子を見ていた。
美月の目には少し涙が浮かんでいる。
一方で先輩の方も、元々潤んでいるのかどうかはわからないが目に涙が溜まっているようにも見えた。
そんな様子を見ていると、一樹は先輩と目が合う。
「あら、あなたが美月の言ってた人?」
「は、はい……相京一樹です」
「私は佐藤 志織。よろしくね」
志織はそう言うと、ポケットに手を突っ込む。
そして取り出したものを一樹と美月に一枚ずつ渡した。
どうやら名刺のようだった。
目を通すと、真ん中に先ほど名乗った志織の本名、その左上には『代表』と文字が書かれている。
名刺上部分には『BAR Gibbous Moon』と書かれている。
バーの経営者なのだろうか。
「先輩、夢、叶えたんですね」
「そうね、やっと自分のバーが持てた……たくさんの人の支えがあったからできた。もちろん、あなたも含めて」
美月はそれを聞いてもう一度志織を抱きしめる。
道の端で涙を流しながら。
けれどそれを見ている人は一樹だけで、その一樹も蚊帳の外。
二人の世界が出来上がっているらしい。
しばらくして感動の再会を終えると、志織は再び一樹の方を見る。
「にしても、美月の言ってた人って男性なのね。てっきり女性かと」
「あはは、ごめん、言ってなかった」
「一樹くんは今、大学生? もう働いてる?」
「大学三年生です」
「あら、じゃあ卒業したら私のバーで働かない?」
冗談なのか冗談ではないのか。
とはいえ、誘いを無下にすることはできずに、一樹は愛想笑いで誤魔化す。
すると志織も笑顔を初めて一樹に見せた。
「ふふ、冗談よ。興味があったらぜひ来てっていうのは本音だけどね」
***
「先輩さ、私が辞めた後はどうしてたの?」
土曜日の昼時のレストラン。
その真ん中の席で三人は四人席のテーブルについていた。
美月と一樹が隣り合って座っていて、美月の前に志織が座っている。
「普通に仕事してたわよ。バー経営したいなって思いながら、お金貯めてたわね」
「でも、先輩ってそんなに貯金なかったでしょ?」
「……そうね、お得意さんに救われたっていうのが大きかったわね……そういう業界の人でお金持ちだったから、お金貸してくれたり」
「……それ大丈夫な人?」
「ええ、幸運にも優しい人だった」
主な会話は美月と志織がしている。
一樹は頼んだクリームパスタを頬張りながら、二人の会話を聞いている。
たまに相槌を打ったりしているのだが基本的に何も喋っていない。
おかげでパスタの減りが早い。
とはいえ、人生の先輩の話は参考になる。
バー経営をするまでの話、バー経営したいと思った理由。
将来を考えている一樹にとっては一番刺さる話だった。
とはいえ、もっと堀り下げたいなと思いながらも初対面の相手にそんなことはできるわけがなく、聞くだけにとどめている。
そうして話を聞いていた時だった。
聞くだけの一樹を見かねたのだろうか。
「一樹くん」
「え、あ、はい」
志織は一樹の名前を呼んだ。
急に呼ばれた一樹が姿勢をピンと正すと、その姿を見て二人は笑った。
込み上げてくる羞恥を顔に紛れ込ませながら、志織の方を向いた。
「なんですか?」
「一樹くんはキャバクラとか、そういう仕事に対してどう思ってる?」
前の話を聞いていなかったので、一樹は突然の質問に驚く。
どう答えればいいのだろうか。
一樹が若干戸惑っていると、志織は付け加えて喋る。
「……ちょっと、普通の大学生としての意見が欲しくてさ」
志織としては一樹の本心が欲しいのだろうか。
本心を言うだけならと、一樹は考えることなく言えた。
「なんとも思いませんよ。事情がある人もいるでしょうし……その、説明が難しいんですけど、職業どうこうでその人の本質って変わらないじゃないですか」
「あら……いいことを言うのね」
「先輩、一樹ってこういう人なんだよね」
隣の美月は少し誇らしげに言った。
そんな美月のおかげで、一樹の頬は少々赤くなることになる。
志織はそんな二人を見て、目を細めて微笑んだ。
「どうしたの? いきなり一樹にそんなこと聞いて」
「……私ね、もう一年付き合っている彼氏がいるの。本当に誠実で、優しくて、いい人なんだけどね。でもまだ、私がそういう水商売を過去にしていたっていうのを言っていなくて……いつか言わなきゃいけないっていうのはわかってる。けど、言ったらどんな反応をされるのかっていうのがすごく怖い。だから一樹くんに聞いてみたの。事情は知った上で、どう思ってるのかなって」
志織が言っていた言葉はいつしか美月が言っていた言葉と似ていた。
『私、これ以上一樹に嫌われたくないから』
同じような悩みを志織も抱えているのだろう。
志織の本心の告白の後、美月も一樹も言葉を発することができなかった。
「……って、ごめんなさいね。暗い話よね。二人を見ていたらいいなって思ってしまったの」
志織は料理に視線を落としたまま、その動きを止める。
そんな目の前の女性に一樹は美月を投射していた。
そして気づけば一樹は言葉を発していた。
視線は前にある。
けれど言葉の方向は一樹が恋する異性であり、同居人であり、幼馴染に向いていた。
「俺は……言いたくないことは言わないでもいいと思いますよ。だって、相手の方も隠し事の一つや二つあるでしょうし、付き合ってるからって相手の全てを知る必要も自分の全てを伝える必要もないです。好き合っていたら、愛し合っていたら、それでいいと俺は思います」
一樹が志織に言ったのは小鈴から言われてハッとした言葉だった。
血のつながっている家族だって知らないことはたくさんある。
一樹も親のことについて全てを知っているかと言われれば知らない。
にも関わらず、恋人のことを全て知ろうとしたり、恋人に自分の全てを話したりするのは無理な話なのだ。
相手は自分ではない、冷たく言えば他人。
でもだからこそ、隠し事があることでそれを少しずつ知っていくたびにその人が魅力的に感じる。
「たとえ過去のことを言ったとしても、相手の人は何とも思わないと思いますよ……いや、むしろ志織さんのことをもっと知れて嬉しいなと思うはずです。俺だったら……そう思います」
一樹は美月の方をチラッと向く。
すると美月は志織の方を見ていたが、その口角は少しだけ上がっていた。
そんな横顔はやはり以前よりも魅力的に思える。
それはその横顔の裏にある二人の秘密がそうさせているのだろうか。
少なくとも、一樹はそう思っている。
「……」
一樹が言い終えると、志織は目を大きく見開けてぱちぱちと瞬きしていた。
そこでふと、我に帰る。
「……あ、ご、ごめんなさい。初対面の人が偉そうに言うことじゃないですよね」
一樹がそう言うと、志織は先ほどまで暗かった表情を崩して笑みを一樹に向けた。
「ううん、おかげでちょっと、心が楽になったわ。一樹くんって、大人っぽいのね」
「そんなことは……ないですよ」
「だってちょっと納得したもの。たしかにそうよね。ありがとう、一樹くん」
もし一樹の言葉で志織の悩みが楽になったのなら、この言葉は美月にも届いているのだろうか。
直接は言えていなかった一樹の本心が伝わっているだろうか。
***
「じゃあ私、ちょっとお手洗い行ってくるね」
話しながら三人が料理も食べ終わった頃だった。
隣の美月がそう言って席を立った。
そうして二人きりの状況が出来上がったのは突然のことだった。
……こういう時に何を話せばいいのかわからないんだよな。
二人きりにより訪れた静寂は弱まっていた緊張を一樹に自覚させる。
そんな緊張を悟られないためにも何か話がしたい。
バー経営の話を聞きたいと思っていたので、何か質問でもしてみようか。
いや、それよりも昔の美月の話が気になる。
そう思っていると、志織の方が先に口を開いた。
「……一樹くん」
「は、はい」
「一樹くんって、美月ちゃんとはどういう関係なの?」
「昔の幼馴染で今は同居人、そんな関係ですかね」
「……そうなのね。幼馴染……一樹くんが美月を住まわせているっていうのは美月から聞いているわ」
「はい、元々は一人暮らししてて、美月が困ってそうだったので住居は共有してます。家事とかは……今はほとんど美月がやってくれてるので逆にこっちが助かってます」
一樹は若干の笑いを含めながらそう言う。
しかし志織は表情一つ変えない。
ストローでコップの中の氷をかき混ぜながら、何か考え事をしているみたいだった。
「じゃあ一樹くん、美月のことは好き?」
志織が次にしたのは踏み込んだ質問だった。
戸惑いながらも、美月の先輩ならいいかという思いで一樹は本心を打ち明ける。
「は、はい……好き……ですけど」
「ふーん、そっか。同居しているみたいだけど、美月に対して下心とかある?」
なぜこんなことを聞くのか、そんなことを思いながら一樹は質問に答える。
「ないと言えば嘘になりますよ、だって、好きですから」
「……なら、襲おうとか、そう思ったことは?」
志織は視線を合わさずに淡々と質問を続ける。
尋問されているような気分だった。
優しくてお淑やかな人、そんな印象だった分、一樹は志織の圧に恐怖している。
でも、同時に、苛立ちもあった。
志織のした質問は圧をかけようとしたのだろうが、一樹にとってそれは直近のトラウマを呼び起こす鍵だった。
「襲おうと思ったことなんてないです、一回も。それに俺が性に溺れるような人間だったら、美月はもうとっくに俺の家を出ているはずですけどね」
一樹は過去の自分への苛立ちを語気の強さを変えて、志織に返す。
八つ当たりだったが、初対面にも関わらず踏み込んだ質問をしてきて圧をかけてきたことへのお返しでもある。
すると志織はやっと表情を変えて、クスクスと笑い出した。
「それもそうよね。ごめんなさい、踏み込んだ質問をして。ただ……私も美月のことは心配しているから、どうしても警戒してしまったの。あんな過去もあるんだし……ね」
「過去?」
「……一応聞くけど、一樹くんは美月のことについてどこまで知ってる? 幼馴染、なのよね」
「どこまでと言われても、何も知らないです。どういう人生を歩んできて、どういう家庭で生まれ育って、どういう暮らしをしてきて……俺は何も美月のことについて知りませんよ」
「……そう、そうなのね」
志織は一樹の知らない美月のことをたくさん知っている。
けれど一樹はそれらを追求する気はない。
美月に口からいつか話してくれたら嬉しいと思っているから。
「知りたいとは、思わない?」
「別に思いません。確かに俺は……志織さんよりも美月のことは知りません。でも、それでも俺は美月と一緒にいたいと思っています。できるなら、支えたい……その先で、美月が生涯支え合いたいって言ってくれたら、本望ですね」
「……一樹くん」
「はい」
「……だ、だいぶ美月のことが好きなのね」
志織は苦笑いをしながら一樹の方を見ている。
やはり周りから見てもそう思うのかと恥ずかしくなっていると、志織がそれをフォローした。
「でも、そこまで美月のことを好いてくれている人がいるなら、良かった……私と美月で話している時も美月の方ばかり見るくらい好きだものね」
「……視線、わかりやすいですか?」
「私はそういうのが敏感だから。美月は昔から鈍感だから気づいていないと思うけどね……で、美月のどんなところが好きなの?」
「……え、笑顔とか、鈍感な部分はあっても些細な変化には気づいてくれるところとか、たまにボディタッチ求めてくるちょっと甘えん坊なところとか、眠いと絶対に萌え袖になるところとか……」
そこからの会話は美月に関することだった。
キャバクラ時代の美月の可愛いところも教えてもらって、逆に美月の家での可愛いところを一樹が教えて。
しばらくして、美月が戻ってきた頃には最初の気まずさは一切なくなっていた。
「あら、美月、おかえり」
「な、なんで二人とも、そんなに笑顔で私のこと見てるの? ……何の会話してたの?」
「美月がキャバクラしてた時にお客様の顔面にシャンパンかけた話とか」
「せ、先輩やめてよ……わ、私の黒歴史なんだけど」
美月が帰ってきてレストランも出た後、三人でしばらくカフェでもしながら会話をした。
志織の前だと知らない美月の顔が多くて、そんな美月をチラ見していることは志織は気づいていただろう。
そうして楽しい時間はあっという間だった。
気づけば志織が帰る時間になっていた。
「ここでお別れね」
「ばいばい、先輩……また、会おうね」
別れ際、美月は涙を目に含んでいた。
志織は偉大な先輩で、その存在は美月にとって大きいことを今日を通して知った。
「泣かなくていいのよ。また会えるから」
「……ねえ、先輩」
「どうしたの? 美月」
美月が先輩にハグしに行くと、その耳元で何かを囁き始める。
一樹には聞こえない声量だった。
しかしその最中、志織は一樹の方に意味ありげに向いてなぜかニコッと笑みを向けた。
「頑張ってね、美月。応援してる。困ったことがあったら、協力するから」
「うん、ありがとう」
「一樹くんも、頑張ってね。困ったことがあったら相談に乗るから」
志織が放った言葉は主に一樹の恋愛に対して向けたものだろう。
応援されていると思うと、志織からの信頼は得られたということでいいのだろうか。
「じゃあそろそろ行かなくちゃ、じゃあね、二人とも」
そうして一日は過ぎた。
振り返れば一樹にとっては濃い一日だった。
涙ぐみながら手を振る隣の美月の顔も今日知ったことだった。
志織の背中を見送りながら、一樹もその背中に心の中で感謝の言葉を伝えた。




