第十八話 大切な後輩
一樹にとって小鈴は後輩としても人としても大切な存在だった。
辛い時に支えてくれたのは小鈴で、バイトに楽しみを与えてくれたのも小鈴。
バイト以外で関係を持ったことはないが、もし同年代だったらと思ったことはある。
だからこそ失恋の痛みを知っている一樹が小鈴を自分の言葉で傷つけることが怖かった。
その瞬間がやってくるのが怖かった。
関係が壊れるのも嫌で、今まで逃げ続けた。
けれどそれも終わりにしなければならない。
曖昧では前に進めない。
もし今の状態が続けばお互いの心にわだかまりも残る。
小鈴を一番傷つけない時間は今しかないと思った。
その日、来週をクリスマスに迎えた日のことだった。
外では冬の雨がしきりに降っていた。
***
「今日もお疲れ様ですっ、先輩」
バイト終わり、更衣室で帰る準備をしていると小鈴も業務を終えて入ってくる。
二人きりの部屋の中、一樹は小鈴にあくまでもいつも通りを装う。
「お疲れ、バイト終わりでも相変わらずテンション高いな」
「それが私のアイデンティティですから」
小鈴はニコッと笑うと、得意げに胸を張る。
「絶対にホールの方が向いてるだろ。看板娘にもなれるんじゃないか?」
「そんな風に誘われましたけど……その、ちょっと怖いですし」
「怖い? あー、前の一件か」
「それも、そうですし……その……まあ、結局のところ、私にはキッチンが似合っているんです」
いつも通りのやり取り、いつも通りの空気にいつも通りの距離感。
ここからどう切り出せばいいかわからない。
結局、まだ一樹はこの空気を壊したくない。
そう思っていると、ふと、小鈴の手が一樹の目に映る。
どうやら小鈴の手に貼っていた絆創膏が剥がれたらしく、小鈴が付け直そうとしているのだが、付かない。
「またどっか怪我したのか?」
「……昨日また皿落として怪我しました」
「一ヶ月ぶりだな。成長したじゃないか」
「でも店の皿はもう五枚くらい割っているので……流石に申し訳ないです」
小鈴は自分のミスのことになるとアイデンティティが消え失せる。
ヘラヘラとしている性格じゃないのはわかっているので、ドジでも一樹含めてみんな小鈴のことが好きなのだ。
考え事がすっかり小鈴に対する心配によってかき消された一樹は小鈴に近づく。
そして小鈴の手の具合を見る。
どうやら絆創膏が貼りづらいであろう指の付け根の部分を怪我してしまったらしく、ペラペラと剥がれている。
「痛むか?」
「はい、指伸ばすとまだ血出ちゃうみたいで……けど貼りにくいんですよね」
「じゃあ座っててくれ。救急箱持ってくるから」
「……貼ってくれるんですか?」
「ああ、当たり前だろ」
一樹は小鈴をソファに座らせると、一番端のロッカーから救急箱を取り出す。
そして一樹が小鈴の隣に座って、手当てを始める。
傷に菌が入らないように消毒をして、軟膏を小鈴の指に優しく塗る。
「……先輩」
傷の手当て中、小鈴が話しかけてくる。
小さく息を吐くようなそんな声で。
「手慣れてますね」
「何回も手当てしてるからな。流石に慣れる」
「それは……毎度ごめんなさい」
「別に謝らなくていい」
一樹がそう言っても小鈴は申し訳なさそうにしたまま、けれど一樹の方をじっと見る。
そしてまた息を吐くようなそんな儚い声で。
「……先輩」
「どうした?」
「なんで先輩ってそんなに優しくしてくれるんですか?」
「……別に優しいつもりはないけどな。困ってたら、助けるだろ」
一樹がそう言い終えると、小鈴は黙り込む。
そうしてまた繰り返し、一言。
「……先輩」
「どうした?」
「……先輩にとって私ってどういう存在なんですか」
「大切な後輩だし、大切な人」
「……女友達みたいってことですか?」
「そうだけど違う」
「……じゃあ妹みたいな?」
「それも違う」
「……曖昧ですね、先輩」
小鈴にとっては曖昧かもしれないけれど、一樹はこの関係が好きだった。
でもあくまでも表面上の質問でしかないことは心の底でなんとなくわかっていた。
それは一樹も同じで答えを伝えようとしているわけではない。
別のことを話したいけれど、勇気がなくて、遠回しに質問している。
もしくは終わらせたくなくて、長引かせているだけなのかもしれない。
考えていることはどうやら一緒らしい。
一樹も気付けば手を止めていた。
「……先輩。手、止まってますよ」
「わ、悪い……ぼーっとしてた。絆創膏貼るな」
一樹は軟膏を塗り終えると、絆創膏を救急箱から取ろうとする。
けれどその手はなぜか震えている。
震えながらも絆創膏を取り出すと、紙を剥がして、中から絆創膏本体を出す。
そのタイミングで小鈴は重い口を開く。
「……先輩」
一樹は何も返事をしなかった。
それから数秒間の沈黙の後だった。
「……好きです」
「……私にとって先輩は大切で好きな人です」
一樹は絆創膏を貼り終えて、小鈴の手から顔に視線を移す。
その顔を見て、一樹は胸が締め付けられる感覚に襲われる。
もっと悲壮な表情をしていると思っていた。
けれど実際は悲しそうにしながらも笑っていて、それが余計に耐えられなかった。
それでも一樹は小鈴から目を逸らさない。
「……デートの返事、聞いても、いいですか? ……一樹さん」
小鈴はそう言うと同時に手を引っ込める。
そして言い終えると今度は一樹から目を背けた。
この後に一樹が発する言葉を知っているかのように。
一樹も小鈴の目が見れなかった。
「ごめん。デートには行けない。好きな人がいるから」
関係の終わりを告げるかもしれないのはあっさりとしたそんな言葉だった。
小鈴は数秒の沈黙の後、静かに立ち上がった。
そして数歩前に歩いて一樹に自身の背中を見せる。
「そんな真剣に言わないでくださいよ。なんか本気で失恋したみたいで嫌じゃないですか」
「……ごめん」
「あーあ、切り替えて次の恋愛ですね。そろそろ彼氏作りたいしなー」
「……」
「でも今年はクリぼっちかー。来年は絶対先輩よりも……」
小鈴の表情は見れなくても声は震えていた。
どれだけ強がっても、一樹が与えた小鈴の傷は隠せていなかった。
「……やっぱ……辛いや」
小鈴は鼻を啜って、袖で自分の目元を拭う。
一樹はその背中に触れることは当然、近づくこともできない。
ただ座っていることしかできなかった。
「さようなら、先輩。次会っても、今まで通りに話しましょ……気にしなくていいですから」
「……ああ、そうする」
一樹が答えると、小鈴は自分の顔を見せないまま、荷物を持って更衣室から出ていった。
「……俺も帰るか」
小鈴が去ってしばらくした後、一樹も店から出ようと自分の荷物を持つ。
そうして帰ろうとした時だった。
床をただぼーっと見ながら歩いていた一樹の視界に一滴の水滴がついた床が目に入る。
雨漏りをしているわけではない。
けれど一滴の雨粒が確かにそこにあった。




