第二章 最終話
アシュレイ様が放つ絶対零度の怒気は、カタコンベの空気を凍てつかせ、壁にびっしりと生えた苔すら白く霜を帯びさせるほどだった。ヴァインベルク家の私兵たちは、その圧倒的な覇気を前に、恐怖で足がすくみ、一歩も動けずにいる。
「ひ……氷の公爵……!」
「なぜ、ここに……!?」
ゲラルド卿の顔から血の気が引き、その額に脂汗が浮かぶ。彼らの計画では、アシュレイ様は私が残した手紙によって欺かれ、今頃は領地で途方に暮れているはずだった。
「俺の妻がどこにいるか、俺にわからないとでも思ったか」
アシュレイ様は、氷のように冷たい声で言い放った。
その左手には、私が贈ったお守りのブレスレットが握られている。そこには、私の魔力と彼の魔力を繋ぐ、微弱だが確かな繋がりを保つ魔法が付与されていた。彼を巻き込みたくない一心で、その存在をすっかり忘れていた自分を、私は今ほど呪ったことはない。
そして、今ほど、その繋がりに感謝したこともなかった。
「アシュレイ様……!」
「説教は後だ、エリアーナ。今は、目の前のゴミ掃除を終わらせるぞ」
彼は私に一度だけ、力強い視線を送ると、次の瞬間にはその姿が掻き消えた。
いや、違う。
人間の目では追えないほどの速度で、敵陣に突撃したのだ。
「ぐあっ!?」
「ひぃっ!」
悲鳴と剣戟の音が、カタコンベに響き渡る。
アシュレイ様が振るう剣の一閃一閃が、絶対零度の冷気を纏い、兵士たちの鎧を氷の彫刻のように砕いていく。彼の背後から突入した公爵家の騎士たちも、歴戦の猛者揃いだ。数で勝るはずのヴァインベルク家の私兵は、まるで赤子の手をひねるように、なすすべなく制圧されていった。
「おのれ……おのれぇっ!」
形勢が完全に覆されたことを悟ったゲラルド卿は、狂気に満ちた目で私を睨みつけ、最後の賭けに出た。
「リリアーナ! やれ! 公爵妃の魂を、あらかじめ用意しておいた『器』の人形に縛り付けるのだ!」
「は、はいっ!」
リリアーナは、懐から一体の禍々しい人形を取り出した。
それは、他のどの人形よりも精巧に作られた、私を模した呪詛人形。私の魔力を根こそぎ奪うために用意された、最悪の切り札。
「お姉様のその憎たらしい力、全部わたくしのものよ!」
リリアーナが詠唱を始めると、人形が不気味な黒いオーラを放ち始める。
私の体が、まるで鉄の鎖で縛られたかのように動かなくなる。魂が、肉体から無理やり引き剥がされるような、おぞましい感覚。
「くっ……!」
「エリアーナ!」
私兵を蹴散らしたアシュレイ様が、私の異変に気づき駆け寄ろうとするが、ゲラルド卿がその前に立ちはだかった。
「公爵! お前の相手は、この私だ!」
ゲラルド卿もまた、ヴァインベルク家の血を引く者。その魔力量は常人とは比較にならない。二人の規格外の力が激突し、カタコンベ全体が凄まじい衝撃に揺れる。
(私が、なんとかしないと……!)
アシュレイ様を、援護しなければ。
そして、これ以上、眠り続ける人々を苦しませるわけにはいかない。
私は、引き剥がされそうになる意識を必死に繋ぎ止め、最後の力を振り絞った。
狙うは、壁際に並べられた、全ての呪詛人形。
一つ一つ壊していては間に合わない。全てを、一撃で。
「……目覚めなさい」
私の唇から、囁くような詠唱が漏れる。
「――その魂、偽りの眠りから解き放て。我が光を道標に、あるべき場所へ還りなさい――〝魂魄解放〟!!」
私の体から、白銀の光が奔流となって溢れ出した。
それは、破壊の力ではない。
呪いを解き、魂を浄化し、あるべき形へと導く、救済の光。
光はカタコンベの隅々まで満ち、壁際に並んでいた全ての人形に降り注いだ。
パリン、パリン、とガラスが砕けるような音と共に、呪詛人形たちが次々と崩れ、ただの藁屑と布切れに戻っていく。
「そん、な……馬鹿な……!? 私の力が……!」
眠れる人々から奪っていた生命力の供給を断たれ、リリアーナの体から力が抜けていく。彼女が起こした『奇跡』のメッキが、今、完全に剥がれ落ちたのだ。
そして、私の魂を縛ろうとしていた黒いオーラも、浄化の光に触れて霧散していく。
体の自由を取り戻した私は、最後の仕上げをするために、震えながら立ち尽くす妹へと歩み寄った。
「終わりよ、リリアーナ」
「いや……いやぁぁぁっ! 来ないで! この悪魔!!」
恐怖に顔を歪ませ、後ずさるリリアーナ。
その時、アシュレイ様との激闘で深手を負っていたゲラルド卿が、最後の力を振り絞って叫んだ。
「リリアーナ! そいつを殺せ! 公爵妃さえいなくなれば、まだ……!」
その言葉に、正気を失ったリリアーナは、隠し持っていた短剣を抜き、狂乱したように私に襲いかかってきた。
「死ねぇぇぇっ!!」
もう、避ける力は残っていなかった。
迫りくる刃を前に、私は死を覚悟し、ぎゅっと目を閉じた。
――しかし、衝撃はいつまでたっても訪れない。
恐る恐る目を開けると、私の目の前には、私を庇うように立つ、アシュレイ様の広い背中があった。
そして、彼の脇腹には、リリアーナが握っていた短剣が、深く突き刺さっていた。
「……アシュレイ、様……?」
時が、止まった。
彼の体から、どくどくと、鮮血が流れ落ちる。
カタコンベの冷たい石畳に、彼の命が作る、赤い赤い水たまりが広がっていく。
「あ……あ……」
「……怪我は、ないか。エリアーナ」
彼は、信じられないほど穏やかな声で、そう言った。
そして、ゆっくりと、私の目の前で崩れ落ちた。
「アシュレイ様ッ!!」
私の絶叫が、カタコンベに響き渡った。
*
それからのことを、私はあまり覚えていない。
ただ、気がついた時には、ゲラルド卿もリリアーナも、駆けつけた騎士たちによって取り押さえられていた。
そして私は、血の海に沈むアシュレイ様の体を抱きしめ、必死に治癒魔法をかけていた。
「死なないで……お願い……あなたまでいなくなったら、私……!」
涙で視界が滲み、魔力がうまく制御できない。
それでも、必死だった。
私の光。私の全て。
彼を失うことなど、考えられなかった。
私の白銀の光が、彼の傷口を包み込む。
その時、私は感じた。私の魔力に呼応するように、彼の体の中からも、温かい力が溢れ出してくるのを。
それは、アーベンハイト家に伝わる、魔力を感知し、流れを読む力。その力が、私の治癒魔法の効果を増幅させ、奇跡を起こしてくれた。
ゆっくりと、彼の傷口が塞がっていく。
止まらなかった出血が、止まる。
そして、閉じられていた彼の瞼が、わずかに震え、薄く開かれた。
「……エリアーナ」
「アシュレイ様……!」
「……また、泣いているのか。君は、泣き虫だな」
からかうような、いつもの優しい声。
その声が聞けただけで、私は心の底から安堵し、彼の胸に顔をうずめて、子供のように泣きじゃくった。
*
全てが、終わった。
眠り病に罹っていた人々は、全員が目を覚まし、王都は歓喜に包まれた。
そして、今回の事件の真相――偽りの聖女リリアーナとヴァインベルク家の残党が引き起こした国家ぐるみの陰謀――が全て明らかになり、民衆は自分たちの愚かさを知った。
私を『悪魔の魔女』と罵った者たちは、今度は手のひらを返し、『救国の聖女』『公爵妃様こそ真の英雄』と、私を讃えた。
けれど、そんな声は、もう私の心には響かなかった。
ゲラルド卿とリリアーナには、国家反逆罪として、最も重い罰が下された。
二度と、彼らが日の目を見ることはないだろう。
そして、私たちは、アーベンハイト公爵領へと帰ってきた。
雪解け水が輝き、若葉が芽吹き始める、美しい春の日に。
「……もう、無理はしないでくださいね」
「善処しよう」
領地の花が咲き誇る庭園で、まだ傷の癒えないアシュレイ様の腕にそっと寄り添う。
穏やかで、幸せな時間。
「エリアーナ」
「はい」
「今回のことで、思い知らされた。俺は、君がいないと生きていけない」
彼は、私の手をとり、その甲に誓いの口づけを落とした。
「だから、改めて誓わせてくれ。この命ある限り、君だけを愛し、君だけを守り抜くと。……俺の、永遠の光よ」
その言葉だけで、十分だった。
もう、何もいらない。
この人が隣にいてくれるなら。
私は、彼の胸に顔を寄せた。
そして、ずっと言えずにいた、一番大切な秘密を打ち明ける。
「……アシュレイ様。私からも、ご報告があります」
「ん?」
「あの……実は、お腹の中に、新しい命が……あなたと、私の子が、いるのです」
一瞬の沈黙。
そして、アシュレイ様は、これまで見たこともないほどに、その赤い瞳を大きく見開いた。
驚きが、やがて歓喜へと変わり、彼は言葉にならないといった様子で、私をそっと、けれど力強く抱きしめた。
「……本当か」
「はい」
「そうか……そうか……!」
彼の腕の中で、私は幸せを噛みしめる。
理不尽に全てを奪われた、あの絶望の日から始まった物語。
けれど、あの日があったからこそ、私は彼に出会えた。
本当の愛を知ることができた。
地味で目立たない侯爵令嬢としての人生は終わった。
これからは、愛する夫と、生まれてくる子のために、私の力を使おう。
私の隣には、世界で一番、私の本質を愛してくれる人がいるのだから。
北の空は、どこまでも青く澄み渡り、私たちの輝かしい未来を、どこまでも祝福してくれているようだった。
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