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地味令嬢の魔力は規格外です。婚約破棄? どうぞご自由に。でも、この国の結界が消えても知りませんよ?  作者: 九葉(くずは)
第二章

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第二章 第三話

冷たい石の床の感触で、私は意識を取り戻した。

どうやら禁術庫で倒れてしまったらしい。ゆっくりと身を起こすと、肩に温かいブランケットが掛けられていた。


「……気がついたか」


振り向くと、そこには今まで見たこともないほど険しい表情をしたアシュレイ様が立っていた。蝋燭の灯りが、彼の彫刻のように美しい顔に深い影を落としている。その血のように赤い瞳は、静かだが、燃え盛るマグマのような激しい怒りを湛えていた。


「アシュレイ、様……」

「なぜ、何も言わなかった」


彼の声は、氷のように冷たく、そして硬かった。

いつもの優しい響きはどこにもない。それは、私の身を案じるが故の怒りだとわかっていたが、それでも心臓が氷の手に掴まれたように冷たくなる。


「なぜ、一人でこんな危険な真似をした。俺に、相談の一つもなしに」

「それは……あなたに、これ以上ご迷惑をおかけするわけにはいかないと……。これは、私の家の問題ですから」

「君の家の問題だと?」


アシュレイ様は、ゆっくりと私に歩み寄る。

カツ、カツ、と響く彼の足音だけが、やけに大きく聞こえた。


「君は、俺の妻だろう、エリアーナ。君の痛みは俺の痛みだ。君の背負うものは、俺が共に背負うものだ。それを『迷惑』などという言葉で、突き放すのか」


彼の言葉が、鋭い刃となって私の胸に突き刺さる。

違う。そんなつもりじゃなかった。

ただ、彼を危険なことに巻き込みたくなかった。彼が築き上げてきたものを、私のせいで壊したくなかった。


「君がもし、そのまま目覚めなかったら、俺はどうすればよかった? 君のいない世界で、どう生きていけばよかったんだ……!」


絞り出すような、悲痛な声。

初めて聞く、彼の弱音だった。

いつも冷静で、絶対的な強者である彼が、私の前でだけ見せる激情。

私は、彼をこんなにも苦しめてしまったのだ。


「申し訳、ありません……」

「謝ってほしいんじゃない」


彼は私の目の前で膝をつき、私の冷たい手を両手で包み込んだ。

その手は、驚くほど熱く、そしてわずかに震えていた。


「もう二度と、一人で抱え込むな。俺を、信じろ。君を失うくらいなら、俺は国はおろか、この世界全てを敵に回したって構わない」


赤い瞳から、一筋の涙が零れ落ちるのを見た。

『氷の公爵』が、私のために、泣いている。

その事実に、私の決意は、悲しいほどに固まってしまった。


(だからこそ、ダメなのです、アシュレイ様)


あなたを、そんな風にはさせられない。

あなたには、あなたの守るべき民がいる。この北の地がある。

私の復讐劇に、あなたを巻き込むわけにはいかない。


私は、彼の涙を指でそっと拭い、精一杯の笑顔を作った。


「……はい。もう、いたしません。約束しますわ」


その嘘は、私の人生で、最も哀しい嘘だった。



翌日、私はアシュレイ様が執務で城を離れた隙を見て、一通の置き手紙を残し、たった一人で公爵邸を抜け出した。

禁術の振り子が見つけ出した呪詛人形の隠し場所――それは、王都の地下に広がる、忘れられた古のカタコンベ。そして、そこにはリリアーナだけでなく、国外逃亡していたヴァインベルク家の残党……叔父であるゲラルド卿が集結していることもわかっていた。


彼らの目的は、おそらく私をおびき寄せること。

そして、私の規格外の魔力を奪い、ヴァインベルク家を再興することだろう。

民衆を扇動し、私を『悪魔の魔女』に仕立て上げたのも、私が一人で彼らの元へ向かわざるを得ない状況を作り出すため。


全てが、敵の描いた筋書き通りに進んでいる。

それは、屈辱的で、腹立たしいことだった。

けれど、私には行かねばならない理由があった。


この呪いを完全に解くには、術者本人、つまりリリアーナを無力化し、全ての呪詛人形を同時に破壊する必要がある。私がここに留まっていては、眠り続ける人々の命が危ない。


そして何より――私が『おとり』になることで、アシュレイ様が動く時間を稼げる。

私が敵の注意を引きつけている間に、彼ならば必ず、最善の一手を打ってくれるはずだ。


私は転移魔法で、一瞬にして王都の寂れた裏路地に降り立った。

フードで顔を隠し、人々の囁き声に耳を澄ませる。


「聞いたか? 聖女リリアーナ様が、今日、広場で再び救済の儀式を行うそうだ」

「おお! 今度は誰が目覚めるのか……」

「それにひきかえ、悪魔の公爵妃はまだ見つからんらしいな。夫である公爵様が匿っているに違いない」


民衆は、完全にリリアーナの筋書き通りに踊らされている。

彼らは知らない。自分たちが救世主と崇める少女が、その裏で自分たちの生命力を啜って生きている悪魔だということを。


私は唇を噛み締め、カタコンベの入り口へと急いだ。

ひんやりとした、黴臭い空気が漂う地下墓地。

その最深部で、私は探し求めていた光景を目にする。


蝋燭の明かりに照らされた広い空間。

その中央の祭壇には、勝ち誇った笑みを浮かべるリリアーナと、その背後に控える叔父のゲラルド卿。そして、壁際にはおびただしい数の、不気味な呪詛人形が並べられていた。


「やっと来たのね、愚かなお姉様。あなたが一人で来ることは、わかっていたわ」


リリアーナが、甲高い声で笑う。

その手には、一体の人形が握られていた。

私のものではない、誰かの人形。


「今、王都の広場では、私が人々を救うショーの真っ最中。この人形を壊せば、また一人、哀れな民が目を覚ます。そして、私の名声はさらに高まるのよ!」

「……その力は、あなたのものではないでしょう、リリアーナ。眠っている人々の魂を喰らって得た、偽りの力」

「うるさい! 偽物でも本物でも、人を救えればそれでいいのよ! 民衆なんて、それしか見ていない愚かな生き物だもの!」


彼女の瞳は、狂信的な光で濁っていた。

もはや、何を言っても無駄だろう。


「エリアーナよ」


叔父のゲラルド卿が、一歩前に進み出た。

その目は、蛇のように冷たく、貪欲な光を宿している。


「お前が持つ、規格外の魔力……それは、我らヴァインベルク家の悲願。おとなしく、その身を我らに差し出せ。さすれば、公爵の命だけは助けてやってもいい」


「……断ります」


私は、フードを外し、きっぱりと言い放った。

そして、両手に白銀の魔力を集束させる。


「あなたたちに、あの方を傷つけることなど、絶対にさせない」

「愚かな。たった一人で、我らを止められるとでも?」


ゲラルド卿が合図をすると、カタコンベの暗がりから、武装した兵士たちが次々と姿を現した。彼らは、ヴァインベルク家の私兵だろう。完全に、包囲されてしまった。


絶体絶命の状況。

だが、私の心は不思議なほど、凪いでいた。

私は、時間稼ぎができればいい。私がここで持ちこたえている間に、きっと、彼が――


その時だった。

カタコンベの入り口から、地響きのような轟音と共に、凄まじい冷気が流れ込んできた。


「――エリアーナッ!!」


響き渡ったのは、愛しい人の、激情に満ちた叫び声。

入り口に立っていたのは、夜の闇よりも黒い軍服を纏い、その身から絶対零度の怒気を放つ、我が夫、アシュレイ・ノア・アーベンハイト公爵その人だった。

彼の背後には、精鋭中の精鋭である公爵家の騎士たちがずらりと並んでいる。


「……アシュレイ様! なぜ!?」

「置き手紙一枚で、俺が君を手放すとでも思ったか?」


彼の赤い瞳が、私を射抜く。

その瞳は、叱咤と、そしてどうしようもないほどの愛しさに満ちていた。


「言ったはずだ。君を失うくらいなら、世界を敵に回すと。……俺のいないところで、一人で終わろうなど、絶対に許さん」


彼はゆっくりと剣を抜き、その切っ先をゲラルド卿へと向けた。


「俺の至宝に指一本でも触れてみろ。貴様ら全員、魂ごと氷漬けにして、未来永劫、後悔させてやる」


それは、戦場の死神と恐れられた『氷の公爵』の、完全な覚醒だった。

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