第二章 第一話
第二章始まりました!
4話構成の読みやすい作品になってます!!
「ん……」
朝の柔らかな光が瞼をくすぐり、私はゆっくりと意識を浮上させた。
最初に感じたのは、私を優しく、しかし力強く抱きしめる逞しい腕の温もりと、すぐ側で聞こえる穏やかな寝息。
そして、冬の森のように澄んだ、大好きな人の香り。
(……幸せ)
思わず、心の声が漏れてしまう。
そっと目を開けると、至近距離に愛しい夫、アシュレイ様の寝顔があった。
漆黒の髪が枕に広がり、閉じられた瞼の下の長い睫毛が、わずかに震えている。普段の『氷の公爵』としての厳しい表情はどこにもなく、そこにあるのは、私の夫であるアシュレイという一人の男性の、無防備で穏やかな顔だけ。
この寝顔を毎朝見られる。
それが、私の今の何よりの特権であり、幸福だった。
「……見すぎだ、エリアーナ」
「きゃっ!?」
突然、閉じられているはずの彼の瞳が薄く開き、からかうような響きを帯びた低い声が鼓膜を揺らした。見惚れていたのを、完全に見抜かれている……!
「お、起きていらしたのですか!?」
「ああ。君が、俺の髪を指でくるくると遊び始めた時からな」
顔に、ぶわっと熱が集まるのがわかる。
無意識にそんなことをしていただなんて、恥ずかしすぎる!
私が慌てて彼から離れようとすると、逞しい腕がそれを許さない。
むしろ、さらに強く引き寄せられ、私は彼のたくましい胸板にすっぽりと収まってしまった。
「おはよう、俺の愛しい魔女様」
「……おはようございます、私の旦那様」
耳元で囁かれる甘い声に、私の心臓は朝からうるさく鳴り響く。
唇が触れ合うだけの、優しいおはようのキス。
それだけで、私の世界はキラキラと輝き出すのだ。
あの王宮での断罪劇から、季節は一つ巡った。
私はアーベンハイト公爵妃となり、この北の地で、生まれて初めて心からの平穏と愛情に満ちた日々を送っている。
公爵妃としての仕事は、思ったよりもずっと忙しく、そして楽しかった。
午前中はアシュレイ様と領地の書類に目を通し、午後は私が作った魔術道具の工房で、領民たちの生活を豊かにするための研究に没頭する。
例えば、少ない魔力で長く使える『ぽかぽか魔石』は、この土地の厳しい冬を越すための必需品になったし、土壌を活性化させる魔法薬は、作物の収穫量を飛躍的に向上させた。
私が何かを作るたびに、領民たちは「さすがは公爵妃様!」「エリアーナ様は我らの女神だ!」と、手放しで喜んでくれる。
『地味』だとか『魅力がない』と言われ、日陰で息を潜めるように生きてきた日々が、まるで遠い昔の悪夢のようだ。
「今日の午後は、新しく開拓する農地の視察だったな。準備はいいか?」
「はい! 先日完成した、水路を浄化し続けるための魔法陣を設置してきます。これで、もっと美味しいお野菜が育つはずですわ」
「そうか。だが、あまり無理はするなよ。君が頑張り屋なのは知っているが、君の体は君だけのものじゃないんだ」
そう言って、アシュレイ様は私のお腹を優しく撫でた。
その意味深な言葉と眼差しに、私の顔がまた熱くなる。
「も、もう! アシュレイ様!」
「はは、すまない。だが、いずれ生まれてくる俺たちの子のためにも、母親になる君には健やかでいてほしいんだ」
(子供……)
彼と私の、子供。
考えただけで、胸の奥がきゅうんと甘く締め付けられる。
そんな未来が、本当に訪れたなら。
私は、この世界で一番の幸せ者だ。
そんな甘やかな日々の中、ほんの少しだけ、小さなさざ波が立ち始めたのは、ここ最近のこと。
その日も、アシュレイ様と二人で執務室で仕事をしていると、彼の側近である騎士団長ザカリーが、神妙な顔で入室してきた。
「公爵様、王都の密偵から定期報告です」
「うむ。何か変わったことは?」
「はっ。それが……一つ、気になる情報が」
ザカリーが読み上げた報告書の内容に、私は思わず顔を上げた。
「……リリアーナが、幽閉先の修道院で『奇跡』を起こしている、ですか?」
私の異母妹、リリアーナ。
偽りの聖女として断罪され、今は国境近くの修道院で、静かに生涯を終えるはずだった。
「はい。曰く、『リリアーナ様が祈ると、枯れた花が蘇った』『彼女が触れた水が、聖水に変わった』などと……。修道院のシスターたちが、彼女を本物の聖女だと信奉し始めているようです」
(ありえない)
リリアーナに、そんな力はない。
精霊の機嫌を取る程度の微弱な力はあっても、それは『奇跡』などと呼べる代物ではなかった。
だとしたら、一体誰が、何のために?
「……ヴァインベルク家の、国外へ逃れた残党の動きは?」
アシュレイ様が、低い声で尋ねる。
彼の赤い瞳が、鋭く光っていた。
「依然として、掴めておりません。ですが、隣国の闇市場で、高純度の魔石や禁術に関する書物が、何者かによって買い占められているという噂が……」
禁術。
その言葉に、私の胸騒ぎは一層強くなる。
「わかった。引き続き、監視を強化しろ」
「御意」
ザカリーが退室し、執務室には再び静寂が戻った。
けれど、先ほどまでの穏やかな空気は、もうどこにもなかった。
「……心配か?」
アシュレイ様が、私の手をそっと握ってくれる。
大きな、安心する手。
「いいえ。ただ……少し、嫌な予感がするだけです。リリアーナは、自分が世界の中心でないと気が済まない娘。大人しく修道院で反省しているとは、どうしても思えなくて」
あの異母妹は、自分が望むものを手に入れるためなら、どんな嘘でもつき、どんな人間でも利用する。
そして、今、彼女が最も望むもの。
それは、私への復讐と、失った栄光の奪還に違いない。
「大丈夫だ」
アシュレイ様は、私の不安を見透かしたように、力強く言った。
「君はもう、一人じゃない。俺がいる。アーベンハイトの全てが、君を守る。どんな輩が何を企んでいようと、君の幸せな日々を、二度と誰にも壊させはしない」
「アシュレイ様……」
その言葉だけで、胸の内の不安がすっと溶けていく。
そうだ。私はもう、孤独な夜に怯えていた、かつての私ではないのだから。
しかし、この時の私はまだ知らなかった。
私の感じた『嫌な予感』が、単なる杞憂では終わらないことを。
そして、幽閉された妹の背後で蠢く、古く、そして邪悪なヴァインベルク家の怨念が、私とアシュレイ様の幸せな日々を根底から覆そうと、すぐそこまで迫っていることを。
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