第三話
私が王都を去ってから、ひと月が経った。
アーベンハイト公爵領は、噂に聞いていたような厳しく冷たい土地ではなかった。むしろ、公爵の善政と、私が少しだけ手を加えた魔術的な加護のおかげで、人々は穏やかに、そして豊かに暮らしている。
「エリアーナ様! 見てください、こんなに大きなカボチャが穫れましたぞ!」
「まあ、すごい! これも、あなたが毎日畑のお世話を頑張ってくれたおかげですね」
私はもう、地味な紺色のドレスを着ていない。
公爵が仕立ててくれた、動きやすく、けれど洗練された空色のワンピースを身に纏い、領地の子供たちと笑い合っていた。ここでは、誰も私のことを「地味」だとか「魅力がない」などと言わない。皆が私を「領地を守る、心優しき魔術師様」と呼び、慕ってくれた。
規格外の魔力を隠す必要もなくなった。
むしろ、公爵は「君の好きに使うといい」と、私の力を全面的に信頼してくれている。私はその力で、領地の気候を安定させ、作物がよく育つように土地のマナを活性化させ、魔物避けの小さな結界を村中に張り巡らせた。夜な夜な国の存亡を背負っていた頃とは比べ物にならないほど、心穏やかで、満ち足りた日々だった。
「楽しそうだな」
背後から、穏やかな声がした。
振り向くと、アシュレイ様……いつの間にか、私は彼のことをそう呼んでいた……が、優しい眼差しでこちらを見ている。
「アシュレイ様。お仕事はよろしいのですか?」
「ああ。君の顔を見に来ただけだ」
当たり前のようにそう言って、彼は私の隣に立つ。
領民たちは、そんな私たちを温かく見守っていた。誰もが、彼が私をどれほど大切に想っているかを知っているのだ。このひと月で、私の凍てついていた心は、彼の与えてくれる陽だまりのような優しさによって、すっかり溶かされていた。
そんな穏やかな日々は、しかし、王都から届いた一通の緊急書簡によって破られることになる。
「……やはり、綻びが出始めたか」
書簡を読み終えたアシュレイ様が、苦々しく呟いた。
その隣で内容を覗き込んだ私も、眉を顰める。
書簡には、王都で起きている数々の異変が、切迫した筆致で綴られていた。
曰く、王都の南門が中級クラスの魔物の群れに襲撃されたこと。
曰く、原因不明の疫病が流行の兆しを見せていること。
曰く、王宮の庭園にあるべき『四季の魔法薔薇』が、すべて枯れてしまったこと。
(当然の結果ね)
それらはすべて、私が維持していた大結界がもたらしていた恩恵だ。結界は魔物を遠ざけ、瘴気を浄化し、王都一帯の環境そのものを安定させていた。その要である私が去ったのだから、システムが機能不全に陥るのは時間の問題だった。
「『聖女』様は何をしているのかしら」
「祈りを捧げているそうだが、何の効果もないらしい。それどころか、原因がわからないことに癇癪を起こし、城の備品を壊して回っているとか」
アシュレイ様が皮肉っぽく言う。
リリアーナの力は、気まぐれな精霊の機嫌を取る程度のもの。国を揺るがす規模の厄災の前では、赤子の戯れに等しい。
そして、案の定と言うべきか、その数日後、王都から一団の騎士たちが公爵領にやってきた。
先頭に立つのは、見間違えようもない、金色の髪。
第一王子、ユリウス・レオン・クレスフィールド殿下、その人だった。
彼は、私の姿を認めると、馬から飛び降りて駆け寄ってきた。
その顔には、焦りと苛立ちがくっきりと浮かんでいる。
「エリアーナ! いたか! こんな辺境で何をぐずぐずしている! 今すぐ王都に戻るぞ!」
開口一番、あまりにも自分勝手な命令だった。
私は思わず、ふう、とため息をついてしまう。
「お断りいたします、ユリウス殿下。私はもはや、殿下の婚約者ではございません。殿下の命令に従う義務もありませんわ」
「何を言うか! お前はヴァインベルク侯爵家の人間、つまり私の臣下であろうが!」
「いいえ。私はアーベンハイト公爵閣下の庇護下にあります。私の身柄は、閣下に一任されているのです」
私がきっぱりとそう言うと、ユリウス殿下は悔しそうに顔を歪め、私の隣に立つアシュレイ様を睨みつけた。
「アーベンハイト公爵! いつまで彼女をここに置いておくつもりだ! 王都が、国が危機なのだぞ!」
「危機に陥れたのは、ご自身の判断でしょう、殿下」
アシュレイ様は、氷のように冷たい声で言い放った。
その圧倒的な威圧感に、王子はたじろぐ。
「だいたい、国には『聖女』様がいらっしゃるのでは? 彼女の力があれば、魔物の群れなど容易に浄化できるはずですが」
「そ、それは……リリアーナは今、少し調子が悪いだけで……!」
歯切れの悪い言い訳。
もう、誰もがリリアーナの無能さに気づいているのだろう。
まさにその時だった。
けたたましい警鐘の音が、領都全体に鳴り響いた。
「敵襲ー! 北の森に、ワイバーンの群れが出現!」
見張り台からの報告に、領民たちが顔色を変える。
ワイバーン。空を飛ぶ、凶暴な竜種の魔物だ。しかも群れとなれば、相当な被害が出る。
ユリウス殿下が、勝ち誇ったように口の端を吊り上げた。
「見たことか! これも全て、お前が王都の結界を疎かにしたせいだ! さあ、どうするつもりだ、エリアーナ! 今ここで、お前の無力さを証明してやる!」
彼は、私がこの事態に怯え、泣きついてくるとでも思ったのだろう。
哀れな人。
あなたは、まだ何もわかっていない。
私は、アシュレイ様と視線を交わし、小さく頷き合う。
そして、一歩前へ進み出た。
「無力なのは、どちらでしょうか、殿下」
私は、ゆっくりと両手を天に掲げる。
体中の魔力が、奔流となって駆け巡るのを感じる。
隠す必要のない、私の本当の力。
王都にいた頃は、その百分の一も使えなかった、規格外の魔力。
「――来たれ、雷の申し子たち。天の裁きを、彼の愚かなる者どもに――」
詠唱と共に、空がにわかに掻き曇り、紫電が迸る。
私の頭上に、巨大な魔法陣が幾重にも重なって展開していく様を、ユリウス殿下は呆然と見上げていた。その顔はみるみるうちに青ざめていく。
「な……なんだ、これは……!? こんな、馬鹿な……!」
彼の知るエリアーナは、魔術の成績も平凡で、ただ黙って微笑むだけの地味な令嬢だったはずだ。目の前で起きている天変地異が、信じられないのだろう。
私は、北の森の方向へ、掲げた手を振り下ろした。
「――〝天槍・ユピテル〟」
瞬間、世界が白く染まった。
空に展開した魔法陣から、数百、数千という雷の槍が放たれ、すさまじい轟音と共に北の森へと降り注ぐ。
それは、もはや魔術というよりは、神の怒りそのものだった。
数秒後、雷光が収まった空は、嘘のように晴れ渡っている。
ワイバーンの気配は、完全に消滅していた。
私は、魔力を使ったことでわずかに火照った頬を隠しもせず、唖然としたまま立ち尽くす元婚約者に向き直った。
「これが、私の力です。殿下が『不要』だと切り捨てた、女の力ですわ」
凛、と響いた私の声。
それは、かつての従順な婚約者の声ではなかった。
自らの力に誇りを持ち、愛する者たちを守り抜く、一人の魔術師の声だった。
ユリウス殿下は、へなへなと、その場に膝から崩れ落ちた。
彼の瞳には、絶望と、そして自らの愚かさに対する、あまりにも遅すぎた後悔の色が浮かんでいた。




