第24話
「3日も猶予をやる必要があったのか?」
狼が、ペロリと自分のヒゲを舐めながら言う。火精霊と地精霊からも、狼に同意するような感覚が伝わってきた。
「撤退だけなら、頑張ればすぐにできるとは思うんだ。だけど、アルスセリヴァン王子もいるしね。女性の支度にどれほどかかるのかわからないから」
「男として来ているんだ、兵と一緒に動けるだろさァ…」
それは、そうなのだろうけど。
3日の間に、こちらも用意があるのだ。
現状、帝国軍にどれだけメディエノルの民が在席しているか、僕にはわからない。
帝国と共に撤退して、この国を出るというのであれば止めることはできないが。もしもやむを得ず帝国軍に参加しているのであれば、精霊の力が揮われたことにより、すぐに脱走してくる可能性があると思ったのだ。
帝国軍はメディエノルの民を「現地人」と呼び、逃げ出した者は犯罪者として捕まえ、囲いを作った集落に閉じ込めていた。
アルトが見つけてきたその集落には、今、彼の案内のもと宰相達が向かっている。今日も水精霊の加護たる深い霧が立ち込めていて、彼らが見つかることはないだろう。
僕らは相変わらず城の地下で寝起きを繰り返している。契約精霊達はしきりに、もう地下に潜む必要はない、以前に僕が使っていた部屋へ移らないかと誘うのだけれど。
僕があの部屋を使うことは、もう二度とないだろう。
国を取り戻したならば、以降は宰相達に託し、国政には携わらない。
お飾りの旗印を必要とせねば纏まれぬほど、きっと皆は弱くない。もしも望む声が多ければ、最後の王族として、国を守れなかった責任を取って処刑されようと思う。
ふと、狼が僕の靴を爪でガリガリと引っ掻いた。
「どうした? バルザック」
ふん、と鼻を鳴らされて思わず笑う。
腕を伸ばしてみるが、狼は避けなかった。
少し重たい獣の身体を、そっと抱き上げる。実に不満そうな顔をしているのに、きっと僕を心配しているからなのだろう、それでも文句を言わないのが可笑しい。
「…ねぇ、バルザック。僕は失敗せずに、この地を、皆の手に取り戻せるのだろうか。友人として、意見を聞かせてほしいな」
ぎゅうと抱き締めてみれば、少し固い毛皮が頬に触れる。
「強情だな、ジルオール。願えば叶う。その力を手の中に持ちながら」
「うん。お前も、大事なメディエノルの民だからね」
「…こんな風にお前の願いが変わってしまうとは、思わなかったんだ。もっと、色々と願うようになると思っていた。人間てものァ、足りるということを知らないからな」
その声の中に何か、後悔のようなものを見つけた気がした。
悔いているのだろうか。何を?
僕に、ついてきてくれたことを?
狼の身体を持ち上げる。僕の顔よりも高く。少し慌てたように、前足があわあわと宙を掻いた。
「高くするなっ」
「怖いの?」
「身体が嫌がってるだけだっ」
それは怖いのとは違うのだろうか。
まぁ、崖からすら簡単に跳んでついてきた狼だ。この高さが怖いのではなくて、僕の支えが不安定で嫌なのだろう。
「…ジルオール。人間てなァ、本当に、足りることを知らないんだ」
狼はもう一度、繰り返した。
頷きを返す。僕とて強欲なのは自覚がある。この両の手ではとても拾いきれないとわかっているものを、それでも零したくないと望むのだから。
「…お前はわかっていない」
じとりと睨まれて困惑した。
狼はするりと僕の腕から逃げて、音もなく地面に着地する。
「特例だ。念のために、シャロレイトラハには用意させておく」
「…なんのこと…?」
「お前がどうしても願いたくなったのなら、一度だけ、水精霊に地底湖と道を繋ぐ許可をやろう。俺ァ、俺の領域に戻らないと十全には力が使えないからなァ」
僕が口を開くより先に、狼はとてとてと水盤に近付き、水精霊に何かを言って、現れた水球を潜って行ってしまう。
「…シャロレイトラハ。バルザックは、一体どこへ?」
「少し見回ってくるそうだ。何、そう珍しいことではない」
虚空に水の玉が現れ、素早く女性を象った。先程僕がバルザックにそうしたように、彼女は腕を伸ばしてきた。
「…どうした?」
惑って顔の前やら肩の辺りやらをウロウロとした指先が、結局どこにも触れずに下ろされたのを見て、僕はそう問う。
「無理を。どうか、しないでほしい」
心配そうな目でシャロレイトラハが言う。大事の前の僕の不安が、精霊達にも伝わってしまっているのだろうか。
「うん、心に留めておこう」
「そうではない。そうではないんだ。もしも、その、痛み…」
「シャロレイトラハ」
何かを言いかけた水精霊の横に、緑精霊が現れた。ハッとしたようにシャロレイトラハは口を噤んで。
「…何か、あったのか?」
逃げるように消えてしまった水精霊に困惑して、残ったドルアリィグに問う。
「ジエラルーシオンは前だけを見ているといい。気を散らせては、できることも叶わなくなる。お前の行く道はお前にしか作れないのだから」
「…うん。シャロレイトラハは…戦いになることを心配しているのだろうか」
痛み、と言いかけていた。
僕が望まぬはずだったのにと、戦いを懸念しているのではないのだろうか。
「ジエラルーシオンの望み…メディエノルの民を生かす道がそれしかないのであれば、迷うことではない。帝国の兵でさえできる限りは殺さずに、咎は上の者が負う。指示された方針に変更はない。彼女は理解している」
「…そうか」
風と火は戦いの気配に浮き足立ち、地はじっと息を潜めている。
水は心配げにしていたが、緑は問題ないと言い切った。
風精霊から連絡が入るまで、僕は待機しているしかないのだけれど…。
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「本当に伝えなくていいのだろうか。ドルアリィグ。私達だけが、こんな…」
真っ白な世界で、涙混じりの声がする。
シャロレイトラハ?
どうしたのだろう。
手を伸ばしたいけれど、ぼんやりとした意識で、曖昧に聞いていることしかできない。
「伝えてどうする? わかっているのだろう。風にも火にも地にも、何もできまいよ。もうすぐ、この国を帝国の手から解放するという彼の思いが叶う。ならば、もう少しで彼自身も解放されるのだろう? 今は、いたずらに混乱をさせて良い状況ではないと私は思うのだがね」
いつもと変わらない、低くて穏やかな声。慌てないその様子は、安心感がある。
「…けれど。こんなのは、おかしいではないかっ。貴方が居てくれねば私は、私はまた失敗をっ…。…一体これは何なのだ? 私の癒しでさえ。貴方の秘薬でさえ…?」
「ああ。いつか他の緑精霊から伝え聞くことはあったが、見るのは初めてだ。まさか生物に寄生する植物の種をここで使うことになるとは思わなかったが」
「…どうか誤らないでくれ。お願いだ」
「緑精霊が植物の生育を誤ることなど有りえない。…落ち着いて、これが何なのか、どうすれば最善たりえるのかを見極めるんだ、シャロレイトラハ。いずれにせよ、これは我々にしかできない…おや?」
緑精霊がこちらを向いた気がした。
「眠れないのか。仕方のない子だな」
小さく息を吸う音。
続いて、穏やかな声が、紡ぐ、歌。
「…ドルアリィグ、なにを…? まさか、…聞いてっ…?」
子守歌みたいだ。ひどく眠気を誘う。
ゆったりとした曲調。緩やかな高低。ささめくような柔らかな音。
だけど。
遠くですすり泣くような声が聞こえる。
慰めてあげたいのに。
「…可哀相なジエラルーシオン。私は、もう二度と人間と契約なんてしない…」
ああ、もう、起きていられない。




