第23話
精霊達はやけに僕のことを気遣っているように思える。
シャロレイトラハなど、用もないのに人に似た姿をとって現れ、僕の頭を撫でて帰っていくということを3度も繰り返した。
それほどに、僕らしくないことだろうか?
思いながらも、止めることは出来ない。
「この先は、なかなか進むのが難しそうだよ」
アルトが呟いた。
僕も、少し眉を寄せる。
「廊下は狭いし、見張りもいる。そして、隠れられそうな場所や逃げ場はないんだ」
「…知っているよ。両親の部屋だからね」
少し胸が苦しい。
押し入った侵略者が2年も王の私室に寝泊りしている。
そんなことを今更言うのか、という諦念もある。
今更であっても。
取り戻さねばならないとも、強く思う。
「廊下にいるのは、今は2人。でも、周辺の部屋も合わせたら兵士は6人だってラグレンディアは言ってるよ」
「…何だろう、見張りの交代要員かな。何にせよ静かに素早く、だ。頼むよ、ジャハンナリンク、アルト」
任せて、とばかりに廊下の灯りが一斉に揺らめいた。
身じろぎした見張りの目の前に、少女の姿が唐突に現れる。
兵士の口が開いたが、言葉は音にならなかった。
相手が剣を抜くより速く、火精霊は1人目の顔面に拳を叩き込んだ。
崩れ落ちた相方を見て、素早く距離を取ったもう1人の兵士は、今度こそ剣を抜く。
ジャハンナリンクは笑って、何かを言った。
唇が動いただけ。声はない。
怪訝そうな兵士の表情。
アルトが仲間達を統率している。
この廊下で起こる物音は、風精霊が伝えない。
兵士は腹に膝蹴りを貰って倒れ込んだ。
邪魔者がいなくなった廊下を進み、僕はドアの取っ手に手をかける。
金具の擦れる音も、風精霊は伝えない。
扉が開いた。
…ああ。
緑を基調とした色合いの室内。
落ち着いた風合いの家具。
ほんの2年前ならば、振り返るのは穏やかな笑みを浮かべた両親だった。
扉を閉めて、アルトに合図をする。
風精霊達は締め付けていた音を解放した。
室内の音が聞こえるようになった代わりに、室内の音を外に出さないように命令を下す。
一歩進むと、ベッドの上に転がっていた男が素早く身を起こした。
靴音を立てないようにしたつもりだが、さすがは指揮官といったところか。
「何者だ」
低く唸るようなその声。
この城を手放す気のない、敵兵の指揮官。
「…子供だと…? まさか、お前は…」
僕は笑った。
笑えることが、とても不思議だった。
両親のベッドに、靴を履いたまま寝そべっていた侵略者。
彼こそがこの国の悲劇の実行者。
エルゼレ伯。
成程。靴のままなら、こうして室内に押し入られてもすぐに対応ができるというわけだ。
帝国とは習慣が違うのかもしれない。
グライア・メディエノルではベッドに上がるのに履物を履いたままなんてことはない。
その意識の差が、僕らを切り裂き、喉笛に喰らい付けた理由なのだろうか。
深い緑色の掛け布の端についた泥が、酷く僕を苛立たせる。
「そのまま使っているとは思わなかった」
「わざわざ帝国から布を取り寄せて飾り付けるなど無駄だからな」
「時が止まっているかのようだ。あの日から」
「2年前の亡霊が。自ら狩られに来るとは酔狂な王子だ。全く、王族の子は阿呆ばかりだが…運が向いてきたというもの」
こちらとしては助かる、と呟いて彼は舌なめずりをした。
ああ、こちらとしても助かる。
暗い笑いが、浮かんだ。
腰の剣に手を伸ばしかけ…。
「違うよ、ジルオール。僕、知ってる。ちゃんと手伝うんだからね」
姿を見せぬ子供が、落ち着いた声を耳に響かせた。
込み上げた何かを堪える。
震える指先を握り込んだ。
そうだ。アルトが正しい。
僕は今夜、エルゼレ伯を斬りに来たのではない。
深呼吸を2つ。
引き攣る笑みを消して、表情を押さえる。
「…改めて名乗ろう、僕はジエラルーシオン・レノルジア・メディノーラ。願いを叶える宝石に辿り着いた、この国最後の王族だ」
「…な、にッ?」
エルゼレ伯が驚きに目を見開いたのは一瞬のこと。
すぐに持ち直し、抜いた剣の切っ先をこちらに向けた。
「願いを叶える宝石は、自らの力で辿り着いたものの願いのみを叶える。帝国の望むものが何かは知らないが、こればかりは覆らぬようだぞ」
「…世迷言を。そんな魔法のようなものが、この世に実在するものか」
「グライア・メディエノルには存在する。僕は精霊と契約し、力を得た。まずはそれをお見せしよう」
ドルアリィグに指示を出す。
絨毯から植物を生やすことはできない。
だから、僕はそれを使う許可を出した。
「…なっ、んだ、これはあぁっ!」
深緑色の掛け布を押し退けて、ベッドの木枠から延びたのは寄生植物トモナギカズラの蔓。
トモナギカズラは土には根を張れないが、依りつく木が枯れていようとも微かな水気で根を食い込ませて養分にし、芽吹くことができる。
背後からぞろりと這い寄ったそれは、エルゼレ伯の手足を簡単に絡め取った。
ぎちぎちと手指を開かせ、剣を床へと落とすことに成功する。
血の気を失った手は、絡まる蔦を外してやらねば遠からず壊死するだろう。利き手の損失は武人としての終わりに等しい。
しかしこの後、配下の兵達が手早く彼を助けてやれれば、どうということはない。
「深緑と霧のグライア・メディエノルには、精霊の加護がある。今宵貴方の命を奪うことはしないが、敵対し続ければその限りではない。3日のうちに城を明け渡し、国へ戻られよ」
「…小僧…っ、何の手品かは知らないが…」
「3日後には野営地の水も枯れるだろう。期日を過ぎれば、容赦はしない。精霊と契約した僕は、もはや貴方達には殺せない」
退いてくれればいい。
だが、退いてくれるはずもないのだろうな。
僕の方針は変わらない。
できるだけ殺さないこと。それが無理ならば、責任と権限のある指揮官から潰していくこと。
地下に捕らわれた同胞達は、帝国兵に弱ったふりを見せ付けながら、着々と回復してきている。
緑精霊の秘薬を用いた宰相は味について頑なに言及を拒んでいるが、効果は誰の目にも明らかだった。
もう、いつでも逃げ出せる。
「もう一度言おう。人ならざる力が僕を守る。帝国にはもう僕を殺す術はない」
右腕を伸ばす。
手のひらを上に向けて、シャロレイトラハを呼んだ。
水がじわりと宙に染み出し、右手の少し上に球体を作る。
エルゼレ伯は信じられないものを見たように顔を強張らせた。
化け物、とその唇が動くのを見て、僕は頷く。
「ああ、そうだ。誰もが守り逃がすことしかできぬほど弱い存在だった僕を、貴方達帝国が化け物に変えたのだ。願いを叶える宝石も、僕の命も、帝国の手に渡ることはない。僕はもう、帝国に何一つさえも渡さない」
宙に浮く大きな水球を前に、すっかりと顔色をなくした相手。
その水から伸びたのはシャロレイトラハの手だ。
透き通ったまま、たおやかな女性の手を象る水は、指先を僕に伸ばす。
その腕に引き寄せられて水の中を通り抜けるときに、僕はエルゼレ伯の目を見つめた。
怯えきった様子。
苛烈で暗い喜びが胸に湧くと同時に。
…強い不安に泣きたくなった。




