第21話
城の兵士達の士気は最悪だ。
水も食料もない彼らは、休憩や食事のたびに野営地へ戻り、再び城へ出勤しなければいけないのだ。手に入れたはずの城は拠点として役立たずになり、それでも誰かに奪われないよう、ひたすらに交代で警備する。
野営地も維持する必要があるために、要員も以前の半分だ。
直接の雨風が凌げるとはいえ周囲は霧で暗く、天幕はじっとりと濡れ、油断すれば食料もすぐ駄目になる。
建物を造ろうと思えば、木材を調達しに森へ入らねばならない。
当然、細い木では建てられない。森の奥へ行かねば、建物に向くような木は手に入らないのだ。しかし奥へと進めばあの霧が出て、魔獣に出会い、人員が減っていく。
…他国から来た彼らの心は憂鬱に満たされている。
そして、更なる城の変化は彼らの心労を増していった。
「相変わらず霧で見えやしないな。大体、見張りをしたところで誰が来るってんだ」
つまらなそうな兵士が言う。
「…最近、夜中の見回りで幽霊を見かけるらしいぞ。そんな噂が立ったもんだからお偉いさんが侵入者に敏感になってるんだ」
「非現実的だな。幽霊って言われても…今まで出なかったのに、なんで今なんだよ」
噂は静かに兵士達の間に浸透しているようだ。僕はそっと溜息をつく。
アルスセリヴァンと会話できたのは幸いであったが、残念ながら寝返りの確約はいただけなかった。
考えさせてほしい、と彼女達は言った。
僕は、こちらの作戦は引き続き進めていくと伝えた。考えていただくのは結構だが、足を止めるわけにはいかなかったのだ。
「残念だが、捕虜共はこのまま餓死させるしかないな。地下牢から出して野営地に動かすなんて面倒だし、外では監視に手が足りない。もう水も食べ物も城には持ち込めないし」
「食料を運んで来ようとしても、道中で消えちまうんだってな。霧が濃すぎて、何が起こってそうなるのか全然わからないし…」
「協力させていた現地人共も、ほとんどが怯えて使い物にならない」
「精霊だの魔獣だの…もう勘弁してほしいぜ」
状況は、まずまず。
地下牢にはラグレンディアに種を運ばせ、ドルアリィグがそれを芽吹かせた。
捕われた者達には、それを媒介として顕現した緑精霊に接触してもらう…水か緑の精霊ならば、無条件に信頼してしまうであろう母国の特性を理解した上での作戦だった。
ヤドリヤナギを細く成長させたドルアリィグが姿を現し、声を発した途端に、牢内の皆が跪いて困ったと緑精霊が苦笑していた。
既に水も食料も差し入れており、彼らは順調に回復してきていると聞いている。
帝国兵達が士気高く私語など慎んでいれば、僕は彼らの存在を知らぬままだったのだろうか。同じ城に居ながら、見殺してしまうところだったのかと思うと寒気がする。
城の石壁を全て配下に置いたはずのラグレンディアは、天然洞窟に木張の地下牢に気づかなかったことで、酷く落ち込んでいた。
僕にはできないことなのだし、結果的に石壁越しに情報を得てくれたのだから、そんなにも落ち込まずとも良いのだけれど…。
「ジルオール、いいよ」
アルトがそっと告げた。
通り過ぎていった見回りの兵士は、僕に目を留めることはなかったらしい。
僕の内界を通じて、契約精霊達は自在に会話をする。
地下牢の状況はドルアリィグが、城内の兵士の位置はラグレンディアが伝えてくれる。必要ならば幽霊役のシャロレイトラハが兵士の気を引き、演出と目隠しのため廊下の明かりを消すのは補佐のジャハンナリンク。情報と現状を取りまとめ、僕が進むタイミングを指示するのがアルトだ。
「ジルオール。宰相、目が覚めたって」
「よし、急ごう」
靴音を高く鳴らさないように気をつけて、地下牢までの道を再度歩き始める。
捕らわれているという宰相は、先頃まで僕と同様に逃走を続けていた。しかしながら、同胞の裏切りによって隠れ家が見つかり、地下牢へと繋がれてしまったのだという。
ドルアリィグが訪ねたときは、酷い拷問を受け、意識がない状態だった。
地下牢の面々によると、僕の居所とメディヴァルの在りかを延々と問い詰められ続けていたらしい。
…申し訳なくて涙が出そうになる。
「大丈夫だよ。ドルアリィグが薬を作ってるって言ったじゃない」
「わかっているよ」
「水精霊も癒しが使えるよ。不安ならあとでシャロレイトラハにも見てもらえばいいし」
「うん。そうする」
「…それとも、僕らだけじゃ不安なの?」
不満を隠さないアルトに、苦笑した。
「狼がいなくたって、僕、ちゃんとできるよ。この辺の風は支配下に置いたんだからっ」
「しいっ、声を落として。わかっているよ、アルト。ちゃんと信じているったら」
慌てて僕は風精霊を宥めた。
バルザックは、帝国の王女達を見に行っている。
見張りに行ったと言えないのは、偵察染みて様子を見るだけだから。アルスセリヴァンの行動が僕にとって有利であれ不利であれ、バルザックはただそれを見つめるのだろう。
今までだって、彼は宝石を目指す者をじっと観察していたのだから。
「よく見えないなァ。ちっと見てくる」
それだけ言い残して行ってしまったため、何が見たかったのかはわからない。
森の中から出て来てしまった狼には、日常に、僕には推し量ることのできない不便があるようなのだ。先を導くように跳ねる肉球が見えないのは、ほんの少し不安だけれど。
帝国の動きを知りたいと思っていた。
もしかして、それを察したのだろうか。
僕はそれを口にしない。
言葉にしてしまえば、いつそれが『願い』だと認識されてしまうかわからないからだ。
望めば、狼は叶えようかと言うだろう。承諾なく叶えたりしないことだけが救いだが。
言葉遊びをするように、気付かず願ってしまっていたなんて事態は避けねばならない。
迂闊な行為で、友人を石に還す手伝いをするだなんて、真っ平だからだ。
「…ジルオール…お腹、痛いの?」
不思議そうなアルトの声。
無意識に腹の辺りを押さえていた。確かに、鈍いような重いような痛みを感じた気がして、手を触れていたようなのだけれど…。
「いや…。痛くは、ないようだ」
不思議に思いながら、手を離した。
*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
急ぎ向かった地下牢に捕らえられていたのは、数名の男。その全員が、僕を見て顔を歪め、形容しがたい表情を浮かべた。
「…殿下! ご無事で!」
詰られるのではと唇を引き結んだ僕にかけられたのは、しかし押し殺した歓喜の声だった。涙を零し始めたものもいる。
「皆、苦労をかけて…本当にすまない」
疲労と怪我が明らかな彼らの様子に、申し訳なくなる。ひやりとした鉄格子に手を触れて、牢の中を覗き込んだ。
「…宰相」
見覚えのある男が、寝かされている。酷く消耗しているのは明らかだった。
「秘薬を使うとしばらく話ができなくなってしまうのでね。今は、別の薬を。…ジエラルーシオンが来たよ、起きられるかな?」
「も、申し訳ありません、緑の精霊様にこのような…」
ドルアリィグに薬を与えられ、座り直すために支えられた宰相は感動で言葉をなくしていた。身を起こして僕を視界に入れた宰相は、ぼろりと涙を零した。
「おお…ジエラルーシオン様。ご無事で…よくぞご無事で…。しかしながら、我らが至らぬばかりに再び殿下を危険な場所へと戻らせることになろうとは…」
「それは違う。僕は必要があって自らここへ戻ったのだ。そこに、貴方達が捕らえられていたにすぎない」
必要、と。
繰り返した男達の目に、強い光が灯った。
帝国への怒り。憎しみ。故国を取り戻したいという、強い願い。
「僕は精霊達と契約することに成功した。彼らが、力を貸してくれる。この地を取り戻すために」
「…精霊の契約…、おぉ、何という…建国王様の再来か…。我らにも、どうか我らにもご命令をお与え下さい、殿下」
…けれど、僕はイシュテアスにはなれない。
そう思いながらも、口にはしなかった。
それが彼らの微かな希望なら、壊したくはなかったからだ。
掠れた声で言い募った宰相は身を乗り出す。自らの力だけでは身体を支えきれずに体勢を崩し、それでも、石床を這ってこちらへと手を伸ばした。周囲の者達がそれを補助し、共に僕へと強い目を向ける。
僕らは、同じ、思いだ。
確かにそれを目の当りにして。
「…手を借りることも、恐らくはある。今しばらくは身の安全を優先せよ」
高揚を押さえて、冷静な声を取り繕った。
ドルアリィグが微笑んで木の器を取り出す。
牢の中へ実体化したアルトが僕の腰に下げていた水袋をさっと取り、器へ水を満たした。突然現れた子供に目を丸くする捕らわれ人達に、風の精霊を紹介しておく。
「水を置いておけば、シャロレイトラハもすぐにここへ来られるね」
「うん。ドルアリィグには引き続き彼らの治療をお願いしたい。シャロレイトラハにも、水の癒しを頼もうかと思っていたんだ。話し合って、一番良いようにして欲しい」
「ジエラルーシオンの望みのままに」
緑精霊がわざと恭しく僕に礼をするものだから、牢内に感嘆の溜息が満ちてしまった。年季の違う緑精霊の気配は、それだけで僕らの心を強く揺さぶる力がある。
「また後程来る。水があればシャロレイトラハに連れてきてもらえるから。どうか今は身体を休めていてくれ。…貴方達に深緑と霧の御加護を」
アルトが姿を消し、僕の側へと風が戻った。彼らの無事が確認できたのだから、僕もアルスセリヴァンとエルゼレ伯の様子を見に行かねばならない。
「深緑と、霧の御加護を」
歩き出した僕の背に、力の籠った声がかけられた。




