第17話
内界では、心配そうな精霊たちが僕を見つめている。
大丈夫だよ。そう言おうとしたけれど、身体は動かなかった。
「無理をするな、ジエラルーシオン」
ゆったりと額に触れる冷たい指。シャロレイトラハが水の癒しをくれる。
今、実体化している精霊は彼女だけだ。
ここは城の地下、水盤の間。
聖洞の奥に入る方法は神官と王族だけが知っている。城の中で、ここが一番安全だと判断した。
霧に紛れて城に近付き、地も風も木も使って死角なく周囲を窺ってタイミングを計って入った。蝋燭の明かりを増幅させて驚かせたり、見回りの首筋に雨漏りのふりして水を落としたりしながら、石壁の厚みを細工して隠れたり、隠し通路を使ったりして城内を移動した。
そうして一応の拠点を置いた僕らは、静かに行動を始めたのだ。
即ち、水を奪うこと。
力のある水精霊である彼女がいれば、城の水を全て枯らすことは何の手間でもない。ましてや、全ての水はここを源泉としているのだから。
明日には、この城から全ての水を干上がらせる。
外から運んできた水も、これからは全て持ち込めないようにするのだ。
「ラグレンディア。貴方は大丈夫だろうか?」
僕の声は掠れて、聞こえにくい。けれども契約精霊たちはそんなことを気にしない。
実体化しない地精霊が、頷くような気配。
「ジエラルーシオン。いくら波長の合う契約精霊とはいえ、精霊と同調するのは、とてもとても負担がかかる。俺は…あまり役には立たない精霊だけれど…石壁を伝って人間の話を聞くことは出来る。主が無理に同調していなくとも、きっとうまく情報を集める。…どうか今後は俺に任せてくれないだろうか」
期待しないでほしいと言っていたラグレンディアが、任せてほしいなんて言う。
くすぐったくて、僕は笑った。
「うん。どんな人間が今この城を取り仕切っているのか、今回はどうしても、自分の目で見ておきたかった。だが、今後は貴方に任せよう。一箇所しか見ることの出来ない僕とは違い、地精霊の貴方ならば、様々な情報を把握できるのだろう?」
「…必ず。少し、側を離れることになるけれど」
「案ずるな。単体での防御力は地精霊に敵わないが、我々に手段は多い。残りのものがお前を補う」
シャロレイトラハの声は、優しい。
きっと彼女もまた、ラグレンディアの成長を喜んでいるのだ。
「では、行く」
地精霊が静かに側を離れた。
少しずつ動かせるようになってきた指先に、力を込める。
シャロレイトラハが、身を起こすのを手伝ってくれた。足元で座っていた狼が、立ち上がって寄って来る。
「食料庫の扉はラグレンディアが固めた。水はシャロレイトラハが失わせた。兵糧責めとしては申し分ないが、この後はどうするつもりだ?」
「…もちろん、アルスセリヴァン王子の到着を待つさ。そして、新たに持ち込んだ水と食料も封じる。それからようやく退去勧告だ。親書はアルスセリヴァン王子の寝所に放り込む」
扉の内で精霊に実体化してもらえばいい。鍵など意味を成さない。室内へ入り込むのは簡単だ。
けれども、そうしてやっても、帝国は退かないかもしれない。
退かないとすれば、何をするだろう。
手元に水と食料がなくなれば、略奪を始めるかもしれない。
…ならば。
「アルスセリヴァン王子が到着する前に…アルト、少し僕から離れて街の様子を見てきてほしい」
「えぇーっ」
「飢えている者から徴発するようなことになれば、グライア・メディエノルの民はあっという間に死に絶える。城下の人々には多少なりと余裕はあるだろうか」
あまり耐えられないようならば、食料を小出しに目に付くところに撒いたり、徴発が始まる前に敵兵を攪乱しに出ねばならない。
もちろん彼らが食料を回収してきたならば、すぐに再び奪うのだ。
「わかったよぅ、行くけど、けど、…むぅ、すぐ戻ってくるんだからね!」
風精霊は拗ねたように言い残す。
できればきちんと調べてきて欲しい…と考えたところで、わかってるよ!と耳の奥で声が響いた。
それから、それから…ああ、もっと情報が欲しい。
ひたすらにそう思う。何を考えようにも、僕は逃げ回っていたばかりで、まともな現状を知らないのだ。
帝国軍に取り込まれたメディエノルの民はどのくらいだ。帝国軍の統治の対する評判は、民の暮らし向きはどうなっているのか。懸賞金がかかっているはずの僕の首を、本気で狙うものはどれほどいるか。それは、メディエノルの民だろうか。
知りたいことはたくさんある。僕一人では、恐らく何一つ知ることが出来ないけれど…精霊たちが調べてくれれば、情報は、きっと容易に手に入る。
けれどそれは僕の力じゃないと戒める。
…当たり前のように精霊にそれを命じて安穏としているだけの、間抜けな人間にだけは、どうかならないように。
「ジエラルーシオン。あまり急くな、休まねばいざというときに動けなくなるよ。私も少し、周囲の木々から話を聞いて来よう」
眉を寄せて考え込んでいた僕の頭に大きな手が載せられ、二、三度撫でた。
緑精霊だ。しかし顔を上げた先にはもう姿はない。
「どうやら、ジルオールはちょっと情緒不安定だ。皆でさーっと行って、ぱーっと戻ってくるのが一番だろなァ? 俺は精霊じゃないから簡単には動けないし、代わりにジルオールは見ていてやるよ」
狼の笑い声に、精霊たちが頷く気配。
情緒不安定になっているだろうか? できるだけ、冷静に考えているつもりなのだけれど…。
「私も少し水辺を回ってこよう。何かあれば呼べ、すぐに戻る」
「あたしも行ってくるわ。…そうね、野営地なんかを回ろうかしら。篝火が多いものね」
精霊は己の要素がある場所ならば、本来は自由に移動することができる。距離など関係なく飛び越えてしまえる。
急に寂しくなってしまった自分の周囲に、僕は情けない思いで狼を見下ろす。
「…そんなに、僕は急いているかな」
「久方振りにお前は自分の城に戻ったんだ、わからなくもない。精霊たちはお前の内界にいるからなァ。心の動きみたいなものを感じやすいのさ」
焦りは失敗を呼び寄せる。落ち着かなくては。
深呼吸を繰り返す僕を、バルザックは小馬鹿にしたように笑って見ていた。
…心配しているのを隠すときもその顔なんだから、全くこの狼は素直じゃない。
霧に数日の足止めを受けていたアルスセリヴァン王子が、到着早々に耳にしたのはこんな話だ。
城の水が涸れ果てた。苦労して新たに運び入れた水も一瞬で失われたらしい。
何度試しても、どんな器に入れても、城へ持ち込むと途端に水はなくなってしまう。
おまけに食料庫の扉までが消えてしまったというのだ。備蓄した食料が突然失われることとなり、城は混乱に陥った。
「殿下。先にお話したように、水や食料の類は野営地で下ろされましたか?」
「はい。兵の士気が随分と下がっていますね…水不足のせい?」
「ええ。当初エルゼレ伯は口止めに躍起になっていましたけれども、城には兵だけでなく下働きもおります。現地で雇い込んだものも。何より、人の口に戸は立てられません」
思っていたよりも、随分と細身で小柄な少年だ。
敵の兵装に身を包んだ僕は、見張り台の上からそれを見つめる。本来の見張りは火精霊の剣で昏倒させられていた。足元に転がる兵は交代直後であったから、僕が聞き耳を立てる時間はまだ十分に残されている。
ここからは少し距離があるが、風精霊が声を運んでくれているので、問題はない。
「脱水症状にかかる兵も出てきておりますので、苦肉の策として食事や水は敷地外の野営地に用意しました。すると、まぁ、そうまでしてこの不気味な城に駐留する意味はあるのかと、兵も思うわけですな」
「そうですか」
「この国を落としてからずっと、使用に問題はなかったのですよ。しかし、ある日、突然…。それが『願いを叶える石』と『ジエラルーシオン』を探すため、ただの探索から、森の開拓、邪魔な魔物の掃討へと作戦を切り替えてからのことでした」
アルスセリヴァン王子は少し首を傾げて問いかける。
「…開拓と関係があると?」
「そう言うものもありますが、個人的には、そうは思えません」
アルスセリヴァン王子はふいと視線を背後に流した。
目深にフードを被った、同じくらいの背丈の…少年なのだろうか?
他の兵士たちとは明らかに違う出で立ちだが、誰も何も言わないところを見ると、護衛か従者なのかもしれない。
「少し休ませてもらう」
「ご案内致します」
彼らは城内へ引き上げるようだ。
僕も隠れ場所へと戻ろうと、水精霊を呼ぶ。見張り台へ来るのは少し大変だったが、戻ることは簡単だ。
シャロレイトラハは、水を介して僕を他所へと運ぶことができたからだ。これは、彼女がどこからか魚を取り出すのと同じ原理だ。魚も僕も、使うのは同程度の労力らしい。
己の属性を通じて自らを運ぶことはできるが、他者を運ぶことはできないというのが他の精霊たちの意見だったから、これはシャロレイトラハ独自の技なのかもしれない。
確かに、できるのならば、ドルアリィグも木々に果実を運ばせずに取り寄せられたのだろうし。
何にせよ、水を介して移動する以上、行き先にはある程度の量の水がないといけない。つまり地下の水盤を目指せば、帰還は簡単なのだ。
不意に現れた水の玉が、その中へと僕を引き摺り込む。息を吸って、止めた。
しばしの間に全身を冷たさが包む。
「…ぷはっ」
水の感触がなくなってから、僕は呼吸を再開した。拭い去られた水は既に水盤に返され、僕の身体は少しも濡れていない。
「お帰り、ジエラルーシオン」
シャロレイトラハが微笑んだ。
「ただいま。アルスセリヴァン王子を見てきたが、エルゼレ伯の言った言葉がわかったよ。彼も成人したてくらいに見えたから、確かに周囲の兵に比べれば僕らは年少のようだ」
「はははァ、ガキの王子たちが邪魔をするんだったか」
「とりあえずは今夜にでもアルスセリヴァン王子の寝所に退去勧告を放り込むことにしよう。…うん? ラグレンディア…?」
慌てたような地精霊が、ふわりと姿を現した。その珍しい姿に、僕は首を傾げる。
「どうしたんだ、急に戻って…」
「王子じゃない」
「ラグレンディア?」
「アルスセリヴァンは王子じゃない」
思わず目を見開く僕に、地精霊は少し頬を赤くしながら、俯いた。
「…お…、女の子だった…」
そしてそのまましゃがみ込む様を見せたものの、床に近づく前に姿が消えた。
「…え…、あの…ラグレンディア?」
呆然とする僕の前で、シャロレイトラハが小さく笑う。
「着替えに立ち会ってしまったそうだ。脱いだところで性別に気づき、慌ててここまで戻ってきてしまったらしい。人間の着替えなど、どうということもないだろうに」
内界に耳を澄ませば、嘆くように言い訳をするラグレンディアと慰めるドルアリィグ、茶化すアルトに覗きを責めるジャハンナリンク。とてもカオスだ。
「…王子じゃ、ない…?」
僕の頭は、どうにも働かない。
帝国の王子は、性別を偽っている。
…何のために?
「同じ顔をした人間を連れているそうだ。影武者か、それとも双子なのかな」
事情聴取を終えたドルアリィグが、ふと姿を現した。ラグレンディアは動揺していて、とても報告ができないようだと彼は笑う。
「バルザック。お前、あの時には確か、帝国の子が来ると言ったはずだな」
僕が脱いだ兜を前足で転がしていたバルザックが、顔を上げた。
「その時は森で話を聞いただけだがなァ。ふむ…血の繋がった人間が二人、部屋にいる。確かにどちらも女のようだ。今、俺にわかるのはそれくらいだな」
「…では、替え玉ではなく、本来は姉妹の王女だということなのか」
アルトかラグレンディアに、退去勧告を放り込んできてもらおうと思っていたのだが…婦女子の寝所に、精霊とはいえ男の使者を送るというのもいかがなものか。
「…シャロレイトラハ…」
「何だ、ジエラルーシオン」
「今夜、アルスセリヴァン王子の寝所に使いを頼みたい。退去勧告は渡すつもりだが…もし相手の了承が得られれば、ここに連れてきてもらえないだろうか」
「…ほう。直に会うつもりか」
僕は頷いた。
本来ならば、脅かして退かせるつもりだったが、どうにも帝国の状況がわからない。
女の子だからといって甘く見るつもりは決してない。可能であれば、帝国の王についての情報収集を。そして。
「精霊と契約し、願いを叶える宝石を手に入れたこの僕が相手であることを、帝国に伝えようと思う。…それに」
人ならざる力を目にしても尚、戦うか否かを。王の子であるというその人に、そして彼女たちに判断できないのであれば…帝国の王へと伝えてもらおう。
戦うというのであれば。
「王子という肩書きで我が国へ来たのだから、当然覚悟もあるのだろう。二人の首を帝国に送り返すことも、考えている」
メディヴァルもグライア・メディエノルも、帝国には渡さない。
「殺していいのなら、今すぐにだって簡単なのよ。この城の兵士も、王子だか王女だかの女二人も」
ボッと音を立てて僕の横に火の玉が現れた。相変わらず好戦的な、ジャハンナリンクだ。僕は苦笑と共に火精霊を宥める。
「ジャハンナリンク、僕の方針は変わらない。できるだけ民には怪我をさせず、殺さずに。貴女が強いことは知っている。けれども、だからこそ、貴女には可能なことだろうと思う。王女二人についても、まずは今夜を待ってからだよ」
つまらなそうに了承し、炎は消えた。




