第14話
ひたすらに闇が続く洞窟の、気が遠くなるほど先。
…夢を見たせいか、少し笑えてしまった。
確かに遠い。随分と歩く。
洞窟に入ってどれだけたったのか、日が見えない以上数えることすらできない。
精霊たちは出てこない。実体化した途端に恐ろしい勢いで力を奪われるのだそうだ。
けれど会話はできたし、少しくらいなら力も使え、狼は相変わらず僕の前を跳ねる。
確かに闇は続く。
あまりに長いその洞窟には一本道ながらも幾度も緩やかなカーブがあって、松明の明かりもさして先まで届かない。
何日も何日も岩肌が続く代わり映えしない景色だ。本来なら不安に負けて狂いそうになるのかもしれない。
本当に進んでいるのか。
別れ道を見逃してきてはいないか。
こんなにも長く一本道だけが続く。
何かあっても逃げ場もない。そんな風に思っただろう。
辛かっただろうな。
ここを行くのが、僕一人ならば。
あの日足を引き摺り歩いた隠し通路との、それは決定的な違い。
「この道はほんの少しずつだけれど、上へ向かっているのじゃないかな」
口にした僕に、狼はにやりと笑う。
「ははァ。どうしてそう思う」
「地の裂け目の底にあった入口から、洞窟へと入った。当初は少しずつ下がるまっすぐな道に見えた。だというのに実際に進んでみれば、道は少しずつ曲げられていたように思う。地面の下を通って、あの見えなかった向こう岸へ向かっているのじゃないかと思って」
既に方向感覚もない。
外の景色など一切見えないし、上ることも下ることもあって高さもわからない。
それでも今、深い谷の底からは、上がってきているような気がする。
「水がなァ」
呟いた狼に目を向けると、はっとしたように彼は首を横に振った。
「水が、何?」
「何でもない」
「ずるいぞ、バルザック」
「ずるくない。でも、まァ、いいか」
どうせ、もうすぐだ。
そんなバルザックの言葉に耳を疑う。
「…え…?」
「水が零れちまうから。最初は一番低いところに置いてあったんだけどなァ。精霊界は物の見事にこの辺りにぶつかってきやがったんだ。色々抉れるし、人間は吹っ飛ぶし。本当に散々だったな。誰も願う暇なんかありゃしなかった。誰かが願わなけりゃ、石なんか無意味なんだ」
「バルザック?」
「おめでとう、ジルオール。ここが終点。願いを叶える石とやらが、いっつまでもある場所だ。この世の終わりまでなァ…」
狼が走り出して、僕は慌てて後を追う。
不意に目の前が開けて足が止まりかけるけれど、スピードを落とさない狼を見失うわけにはいかない。
「バルザック、待てっ」
広がるのは地底湖。
冷たい湖の真ん中に。
願いを叶える宝石は…。
水の中まで駆けていった狼は、不意にばしゃりと音を立てて倒れた。
「バルザック!」
悲鳴を上げて彼を追う。
濡れるのも構わずに駆け込めば、水は僕の膝を越える。
バルザックは。
水の中に沈む、四角い石の上に身を横たえている。
「どうした、具合が悪いのか。起きろ、バルザック!」
服が水を吸って重い。
そんなものより、両手で抱え上げた狼が異様に重い。
意識がないのだ。
そう思い至って、血の気が引いた。
「バルザック、バルザック! どうして! 呼吸…そう、呼吸は、あぁぁ、していない、どうして、どうして!」
「しているよ、落ち着けって」
「していないじゃないか!」
「しているんだよ。弱いが今はまだなァ。早く水に戻してくれないか、死んじまう」
言われた意味はわからなくて、でも、死んでしまうと言われれば水に戻すよりない。震える手で、四角い石の上に彼を横たえた。
ぐにゃりと、狼は抵抗もなく…。
…僕は今、誰と話していた?
狼は意識がない。けれど、今のはバルザックの声だ。
恐る恐る、目を上げる。
「はははァ、落ち着いたか。ちょっと身体から離れてくれよ。息のあるうちにしまわないと使えなくなるんだ」
周囲を見回しながら、バルザックから一歩離れた。
声はどこから…、上…?
見上げようとしたら、狼を緑色が包み込むのが見えた。
思わず手を伸ばすけれど、間に合わず…狼の身体は水の中へと引き込まれた。
追いかけようとする僕に、再び彼が笑う。
「ジルオール。あれは外へ出るのに最近使っている身体でなァ。久方振りに息のあるまま谷底まで落ちてきた狼なんだ。俺ァ、死体は動かせないからな」
ああ。
バルザックは、水の中じゃない。
水の中、緑色の石柩に閉じ込められた狼。けれども彼の声を、頭上から発するもの。
ゆっくりと目を上げた。
自分でも、眉根が寄るのがわかった。
「メディヴァル、なのか?」
「そうだ」
「…願いを叶える…、…宝石?」
「お前がそう思うんなら、そうかもなァ」
岩壁に埋まる男の姿。
手足は洞窟の壁と同化していて見分けがつかない。胸像のように、まるで岩から生えているようなその姿。
にやりと笑うその顔は、人間と同じ作りをしているのに。…まるで、僕の狼が笑ったときのよう。
「…なぜ、そんなことに…」
「願わないのか、ジルオール」
「元々は人間なのか?」
「いいや、俺は石だ。石らしくないがね、人に似た姿を取って遊んでいただけ。そのうち全部同化して、完全に石に戻るよ。とはいえ、お前の願いを叶える間くらいはもつ」
わからない。
頭痛を堪えて、濡れた手で目許を覆う。
願いを叶える宝石。
彼は自分を石だという。
僕には、人に見える。
さっきまでは、狼だと思っていた。
「ジルオール。そのままじゃあ風邪を引く。人間は脆いからなァ。そら、そこに上がるといい。水精霊を使うのを忘れるな」
彼が言い終わると同時に、水中から緑色がせり上がってきた。
広場のような、石床。透明な。緑色。
その上に身体を引き上げて、僕は床を撫でる。
緑石。滑らかな質感には覚えがある。
「僕の剣と…何か関係はあるのだろうか」
「あるさァ。あれは俺の右足だ」
「右足!」
「その頃はまだ左が動いたしな。どうせ動かないならこっちは要らないだろうって、剣にするよう願った奴がいたからな。まァ、そいつがあったところで、もう俺が歩けないのは事実だ。乾かすのを忘れてるぞ、ジルオール。ここでは精霊を使っても問題ない」
呆然とする僕に、彼は何でもないことのように言う。
メディヴァルの足。
だけども、この剣は。緑石の、剣は…。
「イシュテアス…、彼が願ったのか。この剣は…代々伝わる王の剣だ。彼は、彼が、お前の足をっ…」
「会いたいか。あるぜ、イシュテアス」
ほれ、と。
小馬鹿にするような声が降る。
ざばりと水音が響いて、僕は目を向ける。
水の中から持ち上がるのは緑色の石。大人一人くらいの大きさの…、違う、人間が一人閉じ込められた緑石の柩。
その中には、目を閉じた男。
「…え…?」
「残念だが魂は既にない。瀕死だから、開けてやることもできないな。開けたら死ぬぞ、二秒くらいで。話をすることはできないが、見るだけでも嬉しいか?」
イシュテアス。建国の英雄。
僕のご先祖様。
柩は流れつくように僕の側まで漂ってきた。自分が立ち上がったことにも気がつかないまま、濡れた手で、緑石の表面を拭う。
「なぜ…?」
「あるのかって? それがイシュテアスの願いだったからだ」
「…なぜ…?」
「こうして身体を残したかって? お前にわかりやすく言うんなら、魔を封じるための要だから、かな」
「…な、ぜ…?」
「俺が保管してるかって? ここなら世界が終わるまで、壊れないからだ」
「…バルザック」
「なんだ」
「…お前、本当にバルザックなんだな…」
僕が言葉にできないうちに、さらさらと先読みして答えてしまう。
苦笑して、石柩から手を離した。
見上げた男は、ふんと鼻を鳴らして目を逸らした。
「いけないか。俺ァ、動けなくなったからな。外に出たければ入れ物がいるんだ」
「…動けなく、なった。前は動けたのか」
「そのために人の形になったんだ。ここから出ることは、できなかったけどな」
「なぜ動けなくなった」
メディヴァル…バルザックは口籠る。
「答えたくないか」
「無駄話は願いを叶えた後にしよう。その後なら、幾らでも話をしてやるよ。お前は辿りついたのだからな」
「いいや、先に答えてもらう」
バルザックはぱちぱちと目をしばたたかせた。
けれども、僕は退かない。




