第13話
夢を見た。
あの日の夢。
全てを失った僕が見た、僕の進むべき道。あれは疲れと空腹が見せた幻覚だったのだろうか。
腐り落ちた骸の中を歩いた。
時折吐いて。泣いて。死を恐れているのか、望んでいるのか、それすらもわからない。
靴の裏に踏みしだく土にも、遺体が混ざることに怯えた。死者を足蹴にしているような錯覚。
倒れてしまいたいくらい疲れているのに、立ち止まれない。どうしていいか、わからない。それでも腹は減り、喉が乾く。
周囲の死者に申し訳なく思いながらも、僕の身体は生きることを望む。その浅ましさに涙が出る。いっそのことと、深い眠りと安らぎを望む。都合のいい話だ。許されるはずもないことに、涙が出る。
夜の闇が近づいて。
獣の遠吠えに、怯えた。
ぽたりぱたりと雨粒が落ちてきて。
…僕は、焼け崩れた民家の扉を開く。
その家を選んだのは、ただ、屋根が残っていたからだ。
「…うっ…」
室内には女児の死骸。うつ伏せに倒れたその背に、剣が突き立っている。
「…なんて…惨いことを…」
僕よりも、ずっと小さな身体。
彼女は手を伸ばしていた。
その手の先には両親と思しき男女が、折り重なって伏している。
涙が出た。
もう、どれだけ泣いたのかわからないくらい泣いた。感情が動いている気はしなくても、視界はゆらゆらと水に沈む。
後ろ手に扉を閉めて、そのまま、横の壁に背を預ける。ずるずると崩れ落ちた僕には、もはや立ち上がる気力などなかった。
目を閉じて、少し落ち着こうと意識的に呼吸を繰り返す。手の甲で頬を拭って。涙を止めようと上を向いて。
「…もう、たくさんだ…。なぜ、帝国は侵略など考えるんだ。…なぜ…」
湖と森の恵みに感謝をして、隣人と手を取り、日々を生きる。どうして、それがいけないのか。ここまで他国に踏みにじられねばならないような、どんなことを、我が国がしでかしたというのか。
「…ごめんなさい…。僕にもっと力があれば…。守れなくて、ごめんなさい…」
うなされるように繰り返して、いつしか意識を失った。疲労は限界だった。
眠るつもりもなく、眠りに落ちて。
囁くような声で目を覚ました。
本当はそれすらも夢だったのかもしれない。
安らかには眠れぬ日々が続いていたから、夢の中でも夢を見てたのかもしれない。
僕を起こしたのは、少女だった。
「起きて。お兄ちゃん、起きて」
壁に凭れていた僕は、慌てて立ち上がった。
生きていた。
生きている住民がいたんだ。
こんな中で、よく生きていてくれた。
そう思うと嬉しくて、少女の腕に触れようとして。
僕の手は空を切った。
「…え…?」
「起きて。危ないの。こっちよ。早く」
疲れて目測を誤ったのだろうか。
少女は僕の驚きなど意に介さずに、家の奥へと僕を誘う。目を上げれば、緊張した顔の夫婦がこちらを見ている。
「あの…、勝手に入り込んですまなかった。僕は決して怪しいものでは…」
「お兄ちゃん、こっち」
「どうか、お早く」
短く呟いた家の主人に目礼し、僕は急かされるままに少女を追う。隣室の物入れに、匿われるように押し込まれて。
隙間から覗く僕の目に飛び込むのは。
「一人も生かして逃がすな!」
そんな怒声と共に、銀色の鎧がオレンジ色の光を照り返した。蹴り開けられた戸口から見えたのは、焼け落ちる集落。兵士に追い回される人々。
息を飲んで、飛び出そうとして。
「出ちゃだめなのっ」
いつの間にか隣で膝を抱えていた少女が、泣きながら言う。
「我慢して、我慢して、待ってたら、隠れてたら、終わったよってお父さんとお母さんが教えてくれるから、出ちゃだめなの…」
彼女はもう僕を見ていなかった。
自身に言い聞かせているのだ。
けれども、妻を庇って主人は斬られ。その妻は背後の部屋に隠れた娘を守ろうと、その場を動かず。
「…お父さんっ、おかあさぁんっ!」
斬られた両親に耐えられず、少女は隠れ場所を飛び出した。振り払われ、倒れた少女の背に突き立てられたのは銀色の剣。
呆然とする僕の前で。
「ちっ、抜けねぇ。力が入りすぎちまった」
「ははっ、子供はヤワいからなぁ。大人を斬るのと同じつもりでやると床に刺さっちまうんだよな」
「おい、あっち。アレ見ろよ。可愛いのが逃げ回ってら。楽しめそうだ、早く行こうぜ」
笑い声さえ残して、帝国兵は去っていく。
近隣に火の手が回り、あんなにも悲鳴が上がっているのに。
どうして。
なぜ笑う。
ひくっと喉がおかしな音を立てた。
もう、たくさんだ。こんな光景。
僕は。泣いている場合なのか。
「…貴様らあぁぁっ!」
耐えられずに剣を抜いて、物入れから飛び出した。
こいつらだけは、許さない。
…そう、思ったのに。
僕は、真っ暗な部屋の中に立ち尽くしていた。しんとした室内。明かり一つない。
扉は閉まっている。
家々は焼け落ちている。
少女も夫婦も、とうに事切れている。
火の気はない。
血に濡れてもいない。
それはそうだ。
この集落が滅んだのは、今ではない。
抜いた剣を、鞘に戻した。
振り向いた先には、飛び出してきた物入れ。
目を向けた先には、親子の死体。
両親に手を伸ばした格好のまま、床に縫い止められた小さな骸。家族を守ろうとした、勇敢な親の骸。割れた窓の外には月が煌々と輝いていた。
「…雨は…やんだのだな…」
どうでもいい言葉が零れた。
戻ろう。
何が起きているのか。どうすれば良いのか。きちんと理解しなければ。
僕だけが逃げたところで何の意味もない。僕だけが平和に暮らしていく未来は、ない。
…時間をかけながら、今度は地上を歩いて戻った。
一人で逃げたあの道も酷いものだったが、まだましだったと知る。
地下には僕しかいなかったからだ。
滅ぼされた集落。
帝国兵の陣営。
盗賊に落ちた男。
それでも、食えずに死ぬ幼い子供。
期限の切れた張り紙。
身代わりの少年たち。
全てが遅い。
僕が見るものは。手遅れのものばかり。
世界の終わりかと思った。
けれど世界は終りっこない。このままでは。終わるのは僕の国だけ。
帝国はのうのうと生き延びるのだ。
そんなことが許されるのか。
生きれば生きるほど己の罪が増えていく。今の自分の力では、それすらも止めようもないことを知って。
けれど迷うことは、もうなかった。
踏みにじられた親子は、未だ繰り返す悪夢の夜にいるのだろう。安息を得られていないと知りながら、僕には彼らの墓すら掘る余力はない。
逃亡中に、一つ所に長く留まるわけにはいかない。どの遺体も埋葬する時間はない。
己の身だけを守って、ここまできた。
なのにあの日悪夢の中にあって尚、紛れ込んだ僕を、彼らは助けようとしてくれたのだ。
両親。宰相。兵士。女官。庭師。馬番。そして、あの親子。周囲の人々は必死に僕を逃がした。
それをわかっていて、怠惰な理由で、安易に死を選ぶことなど許されない。
例えもう、僕の生を望むものがいなかったとしても。
僕がどれだけの死の上に立っているのだとしても。
この命の終わりまでには。
僕には生きた意味が、なくてはならない。
それが、せめてもの報いだ。




