第11話
ジャハンナリンクとの契約で、僕は三日三晩寝込んだらしい。
泣きそうな顔で覗き込む火精霊を目にしたときには、つい幼子にするように頭を撫でてしまっていた。
「遅くなってすまない。皆の居場所はこの御守りに作っているんだ。貴女の居場所はどのようにすれば良いだろうか?」
「…今じゃなくていいわ、やっと目が覚めたばかりなのに…。まずは休みなさいよ」
「これ以上は、気になって休めないよ」
「…もう。また倒れても知らないわ」
そう言いながら、ジャハンナリンクは手を伸ばす。
水の板の上部、鎖を通している穴に沿って、赤い糸のようなものが巻きついた。…どこかで、見たことがあると悩んで。
それが彼女の剣を彩っていた紅炎だと気づくのに、少し時間がかかった。
倒れたのは彼女のせいではない。僕の力が足りないせいだ。
「お前はそう言うがね。契約するのに魔力は十分なんだ。ただ、人間は契約をしなくなって久しい。人間の身体というもの自体が、精霊と契約するだけの能力を有しなくなってきているんだろう。それだけのことだ」
「…僕だけではないということ…?」
「そうだ。昔は精霊と契約できる人間が当たり前にいた。しかし、今はいない。長い時間をかけて、その能力が退化している」
水の寝台に寝かされていた僕の上に、狼が飛び乗った。
小さな足の圧力で、肺腑の空気が押し出される。
「うぐっ」
思わず声を漏らすと、途端にまなじりを吊り上げたシャロレイトラハが現れた。
「ジエラルーシオン…! なんてことをするんだ、バルザック、お前はもう少しジエラルーシオンを労れ!」
「はははァ。契約の衝波は病ではない。お前の心配は杞憂だ、こんなことでジルオールは死なないぞ。それよりも、火精霊が側にいるというのに姿を現すとは、シャロレイトラハも随分と丸くなったのではないか?」
「く、ふ、バルザック、苦しい」
水精霊を挑発しているのだろうか。
確かにこの程度では死なないけれど、胸の上で足踏みをするのはやめてほしい。
「あたしが戻るわ。あんたは居たらいい、目が覚めるまで…ずっとあたしは付いていたから。もういいの」
「私はバルザックに注意をしに出ただけだ。それとジエラルーシオンに少し話を。何ということはない、すぐ中に戻る。貴女は気の済むまで看病をするといいだろう」
お互いに嫌な顔もせず、気遣っている感じの発言なのに、なぜか空気が痛い。
「…対属性の気がピリピリするね」
火と水の気配が反発して空気中で摩擦を起こしている。
彼女たちは我慢しているだけで、やはり水と火の精霊とは本質的に仲良くできないのだろうか。それとも当人たちが仲良くしても、纏う気配だけはどうしても反発してしまうのだろうか。
…何となく、後者だという気がする。彼女たちの表情に、きっと嘘はないだろう。
「もう起きるよ。出発の支度をするから」
「反発を体感できるようになったか、それは重畳。しかし今はもう夕暮れ。もう一晩は眠ってからの出発だ」
「でも。僕は今起きたばかりで…」
「はァ? ジルオール、聞こえたのか? ほれ。今度こそ聞こえたか?」
「…ぅく、わかった、わかったから足踏みするな、苦しい」
降参の声を上げると、ようやく狼は身体の上から降りた。
思わず息をつく僕の枕元で、ふさりふさりとしっぽが揺れる。
「では、シャロレイトラハ。僕に話とは?」
「なぜ起きる! 寝ろ。今すぐ」
「わぁ。大丈夫だったら」
「問答無用だ」
話を聞こうと身を起こしかけると、水精霊が強固に僕を寝台に押し倒す。仕方なしに転がり直して、相手の言葉を待った。
「この先も谷底を行くのか、一度上に戻るのかという話だ。上へ行くならジエラルーシオンが寝ている間に地面を隆起させて連れていきたいと、ラグレンディアが」
「…まだ、直接言ってはくれないか」
「私たちは内界で共に過ごす時間が多いので、大分慣れたが…それでも私ともあまり話そうとしないぞ。ドルアリィグとは会話になっているようだ。ジエラルーシオンにかける言葉には迷うようだが、決してお前が嫌なわけではない。悪く思わないでほしい」
「もちろん。人慣れしていない彼に、僕が頼み込んでついてきてもらっているのだから、悪くなど思うはずがないよ。しかし、道か…地の裂け目を捜さねばならないだろうか」
思わずバルザックを見た。
しかし、狼は目を細めただけだ。
道案内は恐らく、彼の言う四精霊と無事に契約をさせた時点で終わったのだろう。
メディヴァルは自力で辿りついた者の願いを叶える。
バルザックはメディヴァルへ案内するなどとは言っていないのだから、この先進むべき道は、僕が決めねばならないのだ。
少し、考えた。
バルザックは、ここはメディヴァルへ至る谷だとは言わなかった。ここは飽くまで、ツルギノアトでしかない。それに。
「上に戻ろう。実のところ、魔物の棲む森を…抜けたという気がしていないんだ。僕はまだ、森を進まなくてはならないんだと思う。目印など何もない。それでも。まだ、谷底を捜すのは尚早だという気がしている」
明確な理由を持たない僕の言葉。
振り回される精霊たちにとっては迷惑だろうと思うのに。
「わかった。それではラグレンディアに伝えておく。ジエラルーシオンはもう少し眠るといい。人の子は精霊ほど頑丈ではないのだが、体調を問われると反射のように大丈夫だと口にする…と、ドルアリィグが言っていた」
「…本当に大丈夫なのに」
「それは明日、ドルアリィグが判断する。私たちは彼ほど、人間のことを知らない。明日の朝様子を見て、あまり元気がないようなら、特製の薬草汁を飲ませてくれるそうだ」
「…薬草…汁…?」
「緑精霊の秘薬だ、死にかけの人間も元気になると言っていた。ただしその苦味に、飲ませた人間の七割が形容しがたい悲鳴を上げるそうだ。それでも九割がすぐに元気になり、残りの一割は気を失ったあとで、元気になったという」
気を失うほど苦いのか…大変な味がするということだけは理解した。しかしながら飲ませた全員に効果があったとなると、さすがは緑精霊の秘薬。回復薬としての効果がとてつもないことは確かなようだ。
「…ジルオール、腹は減らないか。…なぜ笑っている?」
狼が不思議そうな声を出す。僕はますます破顔した。
「いいや、空いていない。何でもないよ。僕は頑張らなくてはいけないなと、改めて確認しただけだ」
「…ふん。お前が頑張っていないところなんて見たことがないが。そんならァ、もう寝ちまいな。ジルオールが元気をなくすと、どいつもこいつもソワソワして仕方がない」
そう言う彼自身もまた、その中に含まれているのだろう。
仲間たちは偽りなく僕を案じてくれている。
それが嬉しくて。ただふわふわと幸せな気持ちで眠りについた僕は。
…風精霊の変化を、見逃したのだ。
惨事に、緊張感が漂う。
アルトは口をヘの字に曲げて、自分は悪くないと主張した。
「ジルオールは結局、戦っちゃ駄目だなんて言わなかったもん! すっごくすっごく手加減したし! それにどうせ霧の中を歩いてたんだ、僕が触らなかったら迷い人になってたのは確実じゃないか!」
アルトが吹き飛ばした帝国兵たちは、確かに息がある。
鎧や兜は壊れているものが大半だが、大きな怪我をしているものは見えない。間違いなく、慎重に慎重を重ねて手加減してくれたのだ…彼なりに。
「アルト。怒っていないから、どうして帝国兵と戦ったのか、教えてくれるかな。彼らは僕たちの野営地点からは離れていたようだ。近付いたから止むに止まれず戦ったというようには見えない」
居心地悪そうに、小さな身体が身じろぎする。
ジャハンナリンク辺りが引っ掻き回すかと思ったが、彼女は意外とおとなしくしている。
初見の印象から無差別に攻撃的な火精霊だと思っていたのだが、少し彼女に対する認識を改めなくてはならないようだ。
「…た、から…」
「ん?」
「ジルオールを殺すって言ったから! メディヴァルを取りに行ったなら好都合だ、戻ってきたところを殺して奪えばいいって、そう言ったんだ!」
成程、確かにその方が帝国にとっては都合が良いか。
けれど、それでアルトが怒る理由が、やはり理解できない。
僕の首には元々懸賞金がかかっているし、僕自身、森へ入るところを見られている…。
いや、そうではない。
僕の顔を。
僕がジエラルーシオンであることを。知っている者が帝国兵の中にいる。
「…そうか。メディエノルの民が、帝国軍にいるんだね。僕を殺して宝石を奪えばいいと提案した…その人物が、アルトには許せなかったのか」
泣きそうな顔をしたアルトに、そっと手を伸ばした。風精霊はおとなしく、僕に頭を撫でられている。
「いいんだ、アルト。民には民の生活がある。民を守れなかった王族は憎まれて当然だ。僕は数多の死の上に立っているのだから」
「僕は悔しい。ジルオールは皆のことを考えているのに。僕は宣言する。決してあいつとその一族には守護を与えない」
彼が呟いた瞬間に、周囲にささめくような音がした。
「呪いか」
バルザックの平坦な声に、僕は慌てた。
「アルト! 取り消してくれ」
「いやだよ、あいつ嫌いっ」
「アルト。その人はもしかしたら僕を憎むに足る理由を持っているかもしれないじゃないか。…帝国は僕を見つけられず、匿っているものがいるはずだと民を疑った。そのせいで僕と同年の少年たちが連れ去られ、殺されたんだ。無関係な子を殺された親は、僕を憎むに決まっている。その子の家族だけじゃない、友人や親戚だったとしたって僕を憎むに決まっている。僕はあのとき、名乗り出なかったのだから」
不意に僕の隣に姿を現したドルアリィグ。
僕がアルトにしたように。緑精霊は僕の頭を撫でた。
「あまり偽悪的になるのは良くない、ジエラルーシオン。名乗り出なかったのではない、名乗り出られなかった。お前はあの頃、滅ぼされた集落の一つにいた。帝国がたくさんの子供を殺したと知ったのは、もっと後だ」
「…なぜ…、知っている?」
僕の、最悪の罪だ。
名乗り出られなかった。
全てが遅かったから。
今更名乗り出たところで、誰の命も戻らなかったから。
帝国が民に理不尽な要求を突きつけていた頃…僕は城の隠し通路から出た先で無様に泣きわめいていたのだ。
長い長い通路。暗い暗い通路。
中途で明かりもなくなった。
腹が減っても喉が乾いても立ち止まるわけにはいかない。
追っ手に怯えながら手探りでひたすらに前へ進んだ。
ここから出られれば状況が良くなると信じた。
その先には。
けれども、ただ、一面の死があって。
…あれを絶望と呼ばずして…何をそう呼べば良かったか。
大人も子供も男も女も。無残な姿で転がされ、顧みられることもなく腐って。腐敗と血と焦土の酷い臭気の中で。墓すらもなく。
僕は己の身に帝国が迫るまで、本当には何も知らなかったのだと思い知らされた。彼らが殺されたのは、今じゃない。集落が焼き払われたのは。その火が消えたのは。腐肉に獣が群がったのは。いつのことなのか。
その時、僕は一体、何をしていた?
「森の外のことはァ、俺にはわからないが。後から名乗り出ることだってできたんだろう。そうしなかったから悔いてるのか?」
「…いいや。それでは到底償いになどならないと思った。今も。無駄に帝国を喜ばせる気はない」
名乗り出たならば。
…少年たちの死は、本当に無駄になると、そう思った。
けれどそれがただの保身ではなかったと、一体誰に言えるだろうか。殺された子の親ならば、僕にこそ彼らの死の意味を問われたくなどないだろう。
どんな言葉で飾ろうとも、罪なき少年たちが身代わりに殺され、僕は今生きている。
「緑精霊は風精霊ほどには溢れていないがね。それでもその分布や繋がりから、火や水や地よりはずっと情報が早い。散らばる骸に、焼き払われた木々に、そして己の無力にお前が如何に嘆いたかを、私たちは知っている」
「僕は知らなかったけど、風精霊も知ってるって。僕らは風の吹くところならどこにでもいるし…伝達は誰よりも早いからね」
少しだけ大人びた表情をして、アルトも言う。
こんなことは、できれば優しい彼らには…隠しておきたかった、けれど。精霊に見られてしまっていたならば仕方がない。
「アルト。お前が人を嫌う必要はない。僕は誰がどんな思いを僕に向けようとも、それを受け止めたい」
風精霊はツンとそっぽを向いた。
「アルト」
「…呪ってまではいないもん。僕が守護しないだけだよ。他の風精霊のことは知らない。それでいいでしょ!」
頬を膨らませたアルトは僕と目を合わせないまま姿を消した。思わず溜息をついた僕に、ドルアリィグが笑う。
「安心するといい。アルトルテレサは理解した。グライア・メディエノルの人間を呪いはしない」
「…貴方たちには、僕らがどこの生まれかなんてわかるの?」
「普通はあまり興味もないし、国の違いなんてわからないだろうがね。見分けのつく精霊が側にいればいいだけだ。風精霊とは疾く伝達するもの。そして火と水と地と緑の精霊にならばグライア・メディエノルの民は簡単に見分けが付く。なぜならお前たちは、一度は私たちとまみえている。未だにね」
そうか。精霊の洗礼だ。
この地に生を受けた子供は必ず『柊と湖の儀式』を経験している。精霊たちは、必ずこの地の民を見守ってくれているのだ。
バルザックは、可笑しなことだなんて言ったけれど…僕らにはやはり大きな意味があることだと思う。
他の国にはない、大切な儀式。
僕はやはり、この国が好きだ。
「ラグレンディア。傷付けず彼らを閉じ込める、堅牢な場所を作れるだろうか」
名指しされたことに怯えるような気配。けれども声は返った。
「できる、と思う。このまま人の身長よりも掘り下げて、そのまま幾つか空気孔を付けて蓋をしたら…。少し土の結合を強めれば、人の力で出ることはできない、と…」
「では、そのように」
「わかった」
応えと同時に、ゆっくりと地盤が沈下した。
音もなく歪む地面。
目がおかしくなったのかとも思ったが、地面は精霊の力により確実に形を変えていく。
網目状の地面の下に、帝国の鎧が見えた。
牢の入口が天を向いているようなものだが、もちろん扉はない。蓋になっている網目状の岩を切り崩さねば出ることはできないし、それは人の力ではできない。
数日食わずとも死にはしない。
それは今、僕が生きていることが証明している。
続いて緑精霊にお願いをした。
「ドルアリィグ、ヤドリヤナギを。彼らを霧から守ってほしい」
「ジエラルーシオンの望むままに」
穏やかな声が消えるより先に、低木が地下牢獄を囲い込む。
「いずれ彼らの仲間が追いついて面倒を見るだろう。僕らは先へ進まねば」
「…ジエラルーシオン」
ラグレンディアの声。躊躇がちに彼は呟く。一人言のように、ぽつりぽつりと。
「彼らの仲間が、彼らを…見捨てるつもりであった場合には、そう発言した者が同じ状況に陥るように…罠を張っても?」
「構わない。いい足止めだ」
確かに、帝国ならば切り捨てかねない。
けれどもそうすれば自分たちも同じ目に遭うとわかれば、仲間を見捨てるわけにはいかなくなるだろう。
ラグレンディアがふらりと姿を現し、しゃがみ込んだ。地面を撫でて、何かを話しかけている。周囲の地精霊に呼びかけているのだろうか。
僕は、側に立つ狼の額に指を伸ばす。
頭上からの気配に目を上げた彼が、ぴぴっと耳を揺らした。
「…どうした。迷いの匂いがするな。石を捜すのをやめるか」
「まさか。自分の甘さが嫌になるだけさ」
「彼らを生かすことが、というわけではないようだ。はははァ。全く面倒な奴め」
言われて僕は赤面した。ばれている。
そう。メディエノルの民が敵に回ることは、想定されていた。自分が受け入れられるなんて思っていたわけじゃない。だというのに、少し悲しい。…そう思うのは僕の甘さだ。
「メディヴァルを捜す。それは変わらない。けれども…民が望むことはもう少し考えてみなければならないな。僕を帝国に差し出すことを望む民のほうが多いのならば、最終的にはそうしたほうがいいのかもしれない」
「「「「「「駄目」」だ」」」」
多重の音に驚いた。
彼ら自身も驚いたようで、くすくすと笑い声が後に続く。
思わず肩の力が抜けた。
バルザックが舌なめずりをする。
「なァに、石に願えばいいじゃないか。民がお前を憎まないようにってな」
「…そんな都合のいいこと、願えるわけがないだろう」
「ははァ、甘っちょろい。都合のいいことを願うための石だろうが。イシュテアスなら、願ったな。英雄には民の支持という下地が必要らしい。そこを見逃すわけがない」
「…ええぇ…?」
情けない声を上げた僕に狼は笑う。
本当に、イシュテアスはそんなことを願ったのだろうか。それとも僕の意識を何かから逸らさせる、彼なりの冗談なのだろうか。
…きっと冗談なのだろう。
イシュテアスならば、そんな小細工は必要としないに決まっている。彼は僕とは違うのだ。
英雄だったなら最初から、こんな事態にならないように動けているはずだ。
バルザックは小さな声で「…ははァ?」と小馬鹿にするような声で呟いている。
なぜなのかはわからない。
本当に馬鹿にされているようだということだけはわかったが…まぁ、構わない。




