第10話
ゲヘルドザナシュが語るのは、可愛い娘の自慢話。
ちょっと口下手でお転婆だが心根は優しく、努力家で、攻撃魔法は一族内で屈指の腕。新たな術をものにする速度も同じような年の子らの中では一番早い云々…。
微笑ましくは思うものの…あまりの話の長さに少し時間がもったいなく感じてきた。
それでも約束は約束だ。
僕は話を聞くと宣言したのだから、途中で遮ることはできない。
「娘はジエラルーシオンが精霊と契約を始めたと聞いて、真っ先に契約精霊として名乗りを上げた」
ちらりとバルザックを見遣れば、知っていると言わんばかりに頷いている。
…そんな話は、何も聞いてはいない。
訝しげな顔になる僕に、狼は呆れたような声を出した。
「名乗りを上げただけではどうしようもない。その証拠に、ジルオールにはジャハンナリンクの声は聞こえなかった。名乗るだけなら、今までだって数多の精霊が名乗りを上げたさァ。風は相性が良いようで声だけは過剰に聞き取ったが、それでも名前が聞こえたのはその中の二人だけ。ジルオールと契約できる精霊というのは実に狭き門なんだ」
それを受けて再びゲヘルドザナシュが語りだす。
「その通りだ。波長が合わない、と…娘は落胆した。可哀想なくらいに」
波長が合わなければ声も名前も聞こえない。
名前が聞こえなければ、契約はできない。
そして、ジャハンナリンクは努力した。
「ジエラルーシオンが火精霊と契約しに来るまでに、自力で実体化して名乗ることにしたのだ。名を知っていれば、微かながらも力の繋がりができる。さすれば多少無理矢理にでも、波長を合わせることができる」
「…自力での実体化か…。誰でもできるようなものなのか?」
契約者の魔力を消費せず実体化できるのは、ドルアリィグが特殊だからだと、以前に狼が言った。
精霊は元々人の目には見えぬものなのではなかっただろうか。
僕の疑問は、しかし意外な言葉で解明された。
「方法自体は昔、ドルアリィグが我が一族にも伝えてくれている。ただ、膨大な力を緻密に操ることが必要な術だ。まだ年若い精霊であるジャハンナリンクにはとてもとても難しい」
彼は火精霊と仲が良いのだろうか。
ドルアリィグの姿を思い浮かべると、肩を竦めるような気配が伝わってきた。
「随分と昔の術式だ。今ではもう少し簡略化できるのだがね。火にその術を伝えたのは確か…そう、火精霊エンデルヴァルドが人間の娘に恋をしたからだった」
驚く僕の耳に、しみじみとゲヘルドザナシュの声が響く。
「エンデルヴァルドの恋は叶わなかったが、契約精霊として人間の娘が死ぬまで側で見守ることはできたそうだ。彼は既に精霊界へと帰ったが、ドルアリィグに出会えた場合にはくれぐれも深く感謝を伝えるようにと一族に言い含めて行った。本来であれば届かないはずの声を、届けることができた…それはとても革新的な出来事だ。…まさか最古の精霊と、私の代でまみえることになろうとは思わなかったが」
「私は古い精霊の一人であるというだけだ。この世界とは知れば知るほどに興味が尽きないから、なかなか精霊界に戻る気にはならないのだよ」
ドルアリィグの声は、どこか自嘲じみた色を含んでいた。
彼ほどに長く存在するというのは、それほどまでに例のないことなのだろう。
何せ彼は、この森が森になる以前からいるという。
古い精霊の一人、という言い方をするところをみると、彼と同じように精霊の常識よりも長く帰らない変わり者というのは幾らか存在しているのだろう。
顔見知りがいればドルアリィグも寂しくないだろうから、それはそれでいい話だと思う。
不意に聞こえた溜息に、我に返った。
「しかしながら私の与えた術が原因というのであれば、ジエラルーシオンには謝らねばならない。ジエラルーシオンの契約精霊は戦を望まないと、私は主に言ってしまったのだから」
確かにドルアリィグは言った。
僕には、戦を望む精霊の声は聞こえない、と。
実体化した精霊が契約を迫るというのは、彼にとっても予想外の出来事だったのだ。
「契約する気は、既にあるのだろう?」
ドルアリィグが問い、僕は頷いた。
「そうだね。僕と契約をしてくれるために努力したと言われてしまえば無下にも扱いたくはない。けれど、僕は契約精霊同士で諍いが起こることは望まないよ。どうしたらいいかな」
おお、と嬉しそうな声を出すゲヘルドザナシュに苦笑した。
ふわりと僕の隣にドルアリィグが姿を現した。
彼が、ゆっくりと手を伸ばすと。
「きゃああっ!?」
「ジャハンナリンク! ド、ドルアリィグよ、娘に何をする!」
後ろっ首を摘まれるようにして、ドルアリィグの手にぶら下げられたジャハンナリンク。あまりの身長差に、完全にジャハンナリンクの足が浮いている。
まるで猫の仔を摘むようなその姿。
彼が女の子をそんな風に扱うとは思わなくて、僕はつい目を丸くする。
「それだけ泣いて気を乱せば、自分で実体化することもできまい?」
言われてみれば、ジャハンナリンクの目と鼻が赤い。
女の子を泣かせてしまうのは、少し後味が悪い。
「…貴方は、自らの姿だけではなく、他の精霊をも実体化させることができるのか」
周囲の気配から、驚いたのは僕だけではなかったが、言葉を止めることができなかったのは僕だけだ。
「このような扱いでも構わなければね。力には流れというものがある。精霊界とこちらでは力の流れ方が違うから、私たちは人の目に映ることができないのだ。契約精霊は契約者と力の流れを同調させることで実体化する。この世界の力に流れを合わせることさえできれば、契約せずとも実体化はできる」
くすくすとドルアリィグは笑う。
うまく隠したつもりだったのだが、緑精霊には簡単に僕の内心が伝わってしまっていたようだ。
「そんなことができるのはドルアリィグくらいだ。これは言わば、世界に対する過干渉なのだからな」
「バルザック。お前は世界の意志をご存知なのか?」
ひやりとするようなドルアリィグの声。
常に穏やかなドルアリィグ…彼から聞いたことのないその声に僕は息を飲んだ。更に驚くことには、あの飄々とした狼が簡単に非を認めて謝ったのだ。
「…言い過ぎたな。俺たちは互いの遣り方に口を出すべきじゃァない。俺は、この森さえ守れれば大抵のものは好きさァ?」
「私も、私の興味さえ満たせるのならば、大抵のものが好きだよ。この世の移ろいは私が目を離せぬほどに興味を引く事柄だ。そして、精霊が人の世を体験するためには実体が必要なのだ」
「わかってるさァ。悪いなんて言っちゃいない。俺とてこのザマなのだから」
くつくつと笑う狼に、緑精霊も笑みを浮かべた。
もしかして彼らは古い知り合いだったのだろうか。
互いの事情を知っているような…その上で関わり合う事を避けているかのような言い方に。
「安心してほしい。私たちは別に喧嘩をしているわけではないよ、ジエラルーシオン」
柔らかな声で緑の精霊が言う。
「長く生きていればすれ違うことの一度や二度はあるだけの話さァ」
僕を宥めるように狼も続ける。
少しわかってきた、内心を誤魔化すときのバルザックの仕草。
目を細めて舌なめずりをしたその様は、しかし獲物を前にした獣のそれそのものだ。彼の後ろめたさを隠した声音とはどう聞いても相手を小馬鹿にしているような調子で…ドルアリィグの他には恐らく僕にしかわかってあげられそうにない。
不器用な狼と穏やかな緑精霊はどうやら和解が成立しているようなので、僕が口を出すことではないのだろう。
「では、ジャハンナリンク。僕の契約精霊たちと喧嘩せずにいてくれるだろうか?」
ドルアリィグは、ジャハンナリンクの足を地面に下ろすと何も言わずにかき消えた。不安そうな目で、火精霊は僕を見つめる。
「…あんたがそう言うなら」
「ありがとう。僕との契約のために苦労したと聞いた。すまなかった」
「…あたしがしたくてしたことだわ」
「戦わずとも僕と契約してくれるか? それともやはり一戦お望みか?」
ようやく、彼女はふわりと笑った。
気の強そうな目を和らげて、本当に嬉しそうに。
「そうね、契約してあげるわ! あんたの気が変わらないうち…今すぐよ!」
周囲の気温が一気に上がった。
驚く僕をものともしない、強烈な熱気。
理由はすぐにわかった。
僕らを取り囲むように描いた炎の円。僕の身長よりももっと高く、音を立てて炎が噴き上がる。
意識は保てないだろう。
微かな諦めが胸をよぎる。
…僕はアルトルテレサ・アルティエルと名乗る風精霊が、竜巻を叩きつけてきた日のことを思い出していた。
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「そうだったの。それじゃあジエラルーシオンは、『可哀相なメディーエヴァルク』を捜しに行くのね?」
「違うよ、メディヴァルだよ」
「…なんでよ。望みを叶えるものなんでしょう? それなら『可哀相なメディーエヴァルク』と決まっているじゃない。そうでしょ、ラグレンディア!」
「…知らない」
「違うもん! メディヴァルだもん!」
「アルティエルの分からず屋。そんな風に人の話を聞かないから、熱さ対策の風結界をかけるのに術者を吹き飛ばすようなミスをするのよ。結局、火精霊の棲み処で水精霊を使わせて。あんなことしたら、最悪、ジエラルーシオンが燃やされちゃうのよ。あたしが出たから皆は下がってくれたけど」
「アルトルテレサ・アルティエルだもん! うるさいジャハンナリンク、寸足らず!」
「何が足りてないって言うのよ、失礼しちゃう。適当なことばっかり言って、嘘吐きアルト。どうせ呼び名はアルトなんだから、どっちだっていいのよ」
「良くなぁい! ふんだ、絶対足りてないもん。…ほら、風入れたら隙間プカプカだもんね! ジャハンナリンクはみえっぱり! シャロレイトラハが気に入らないのも、おっきいからでしょ!」
「…なっ、やっ、やだっ、どこ計ったのよ、馬鹿ぁ! 燃やしてやる!」
ぎゃあぎゃあと喧嘩するのは火精霊と風精霊。
その傍らでおろおろしていた地精霊が、困惑げに振り向く。助けを求めて。
目を向けられた緑精霊が少しだけ口の端を上げ、隣にいた水精霊は肩を竦めた。緑精霊はゆったりと立ち上がり、視線に請われるまま年少組の元へと歩く。
…べりっと簡単に、風と火の精霊を引き剥がした。
何か言いかけた彼らはしかし、ドルアリィグの目を見た後、そろそろと俯いた。
「メディーエヴァルクというのは、メディヴァルの古い呼び名だよ。地精霊は移動しないから、情報がもう少し古いのかも知れない。ラグレンディアには…メディエル・ヴァルゼクードと言えばわかるのではないかな」
「…それならば知ってる」
「全て同じものを指すというのに、時を経て短くなっていく。呼称とは面白いものだよ。その時代に即し、かつ個人名のように少しずつ変化していくのだから」
ドルアリィグが、ふとこちらを見て目を細めた。
「本来はメドゥ・ディエラ・ヴァルド・ザム・ゼルクード。名前ではない。古い言葉で『新たなる血を祝福し、その望みを叶えよ』という命令の言葉だ。恐らく彼自身が名を問われたときに、覚えていたその言葉を復唱したのだろうね。それは石の名として人の世に認知され、流れる時に削り取られた」
「誰かの命令で願いを叶えてるの…?」
「『可哀相なメディーエヴァルク』のお話では、彼自身の望みだったはずよ」
「…メディエル・ヴァルゼクードは、命令で願いを叶えているという話だった」
疑問符を浮かべる年少組に接する緑精霊は、保護者然としていて微笑ましい。
ドルアリィグは、やれやれと言うようにもう一度こちらを見た。
「彼の真実の物語を私は知らない。伝え聞くことには、メディエル・ヴァルゼクードは善き願いも悪しき願いもひたすらに叶えた。長い歴史の中で、この名が長く広く伝わったのは、それだけの実績があるからだ。それに対し、メディーエヴァルクは善き願いのみを叶えたとされる。しかし善きものだけの世界などは幻でしかない。人の望みとはいつだって相反するのだ。右から見た正義は左から見たときに悪と呼ばれる。完璧など有りはしない。故に教訓を含む彼の物語は『可哀相な』と称された。そして一番新しく、最も実績が少ないのがメディヴァルという呼び名だ。示す石は同じもののはずだが…その理由もまた、辿りつけばわかるのではないかな」
納得したようなしないような顔をした年少組を置いて、ドルアリィグはゆっくりとこちらへと近付いてきた。
他の精霊たちは不思議そうな顔をしている。
「石の名が変わったのは、世界が破滅の危機に瀕したからだ。生き物が激減し、伝える者が少なくなり、情報が歪み朧げになる。世界は幾度も滅びかけた。神々が争ったとき。異なる世界がぶつかったとき。太陽を失ったとき。私が知るものも知らないものもある。この世界は運がないのか…世界同士の衝突など私が知る限りでも三度はある。それでも滅びていないのだから、悪運が強いだけかも知れないがね」
ふと、ドルアリィグは笑った。
「目が覚めたら、話の続きをしよう」
そう言われて、あっと思い当たった。
一面の白い世界。
契約精霊たちのお喋り。
動かない身体。
曖昧な意識。
これは恐らく、緑精霊と契約した日と同じ状態だ。僕は、また、眠っていたのか。
気がつくと同時に、周囲の景色が曖昧になった。夢が覚める。
…いや、これは…、夢ではない…。
「ジエラルーシオンの内界なのだから、…そうだな、心の中のようなものだ」
普通の人間は自分の内界など見ることはできないのだけれどねぇ…と、妙に遠くでドルアリィグが呟いた。




