背中に冷や汗が流れるような思い
ご検討の程よろしくお願いします、と手を振りつつ、俺はすぐに執事さんの後を追って走った。
ステファニーもステファニーなりに悩んでいるし、やっぱり見せないように気丈に振る舞いはしているけど、落ち込んでいたからそのままにしておくのは嫌だったんだ。
さっきみたいに詮索するようなところがなければいいんだけどなぁ、と苦笑してしまう。
彼女がその後、どんな顔をしてこっちを見ていたかなんて、俺には知る由もなく。ただ次に案内される場所がどこか、自分で答えを探すことに精一杯で振り返ることさえしなかった。
ステファニーが自分の指を見つめ俯いていたなんて、気づくはずもなかった。
後を追いかけていくと、執事さんは二階へと上がっていった。
その廊下を進み、突き当たりまで歩いていくと、ある部屋の前でぴたりと立ち止まる。
そこを見て、うわぁ……と思わず低い声が漏れそうになった。
思い当たるところがある俺はその場所に辿り着いた途端、それこそ背中に冷や汗が流れていくような思いだった。
執事さんが連れてきてくれたのは、ヴァーミリオンの部屋の前だった。
ここまで来てヴァーミリオンの元に近づく羽目になるとは……と、思わず顔を顰めてしまう。
以前まで俺もその隣の部屋を使用していたので、もちろん忘れるはずもない。まさかとは思っていたが、そのまさかだったとは。
執事さんは目を細め、眩しそうにして部屋のドアを見つめていた。
やっぱりこの屋敷に住む以上、主への挨拶は絶対なのだろうかと思い、沈んでしまいそうになる。会いたくないわけじゃないんだけど、むしろ助けてもらったお礼を言わなきゃいけない立場なんだけど。
なんの覚悟も決めていなかったから、妙に動揺してしまっている。直接顔を合わせたわけでもないのにすでにこんなに緊張しているだなんて、やっぱりおかしいんだろうか。
避けては通れない道で、覚悟を決めなければいけない時なのかと肩唾を飲んだ時。先に執事さんが口を開いてくれた。
「……ここはこの屋敷の主であるフォルトゥナ卿の次男、ヴァーミリオンさまのお部屋になります。少しばかり特殊な力を持つ方なのですが、根は素直でとても優しい子なんですよ。ですが、色々と事情がありまして、ヴァーミリオン様は部屋に閉じこもるようになってしまいました。なんとか元気づけようと私達も声をかけ続けたのですが、届くことは叶わなかったみたいで……。完全に塞ぎ込んでしまったようで、困り果てているところです」
「……そう、なんですか?」
「私達ではどうも力不足のようです。余程心に深い傷を負ってしまったのでしょうね……。つい最近まで笑顔も見せるようになり、歳相応の子供らしさも出てきていたのですが。なんとか励ましたいと思っているのですが、どうしたらいいものかと皆悩んでいます」
神は更に酷なことをあの子に与える、と執事さんは肩を落としてしまった。ステファニーの時と同じで、そんな姿を見たら俺は言葉を失ってしまう。
どんな顔をしてその話を聞けばいいのかわからなくなり、無意識に唇を強く噛んでいた。
誰も知らないことではあるけれど、聞いている内に自分が責められているような気分になってくる。俺がいなくならなければ、ヴァーミリオンもステファニーも傷つくことはなかったのかなって。
だけどそう思えば思う程、この屋敷での比呂という存在意義が薄れていくようにも思えてしまう。おかしいよな、もう俺は俺なのにそんなことを気にしてしまうなんて。
苦しさを吐き出すように、俺はつい言葉を漏らしていた。
「……あの、執事さんはそれがウェインのせいだと思ったりしていますか? あの子が以前のままだったらよかったのに、なんて。そんなふうに感じたりしますか?」
どうにも聞かずにはいれず、変に思われようと構わずに俺は訊ねてしまった。それ以上にこの人が、今のこの状況をどう思っているのか気になったからだ。
墓穴を掘るだとか、そんなことはどうでもいい。遠回しに、俺のせいにしているのだとしても。
「ウェインがいなくなったから、その子は塞ぎ込んでしまったと。やっぱり、そう思ってしまうものですか?」
「……ふむ、そうですね。そうズバリと言われると、困ってしまいますね。初めはそう考えようとしたのかもしれませんが、今となってはウェイン様の責任だとは思いません。長く傍に仕えてきたのに、彼の心を本当の意味で開くことのできなかった自分達の責任なのではないかと感じています。むしろウェイン様がいたから、今まで見ることのできなかったヴァーミリオン様の笑顔を目にすることができたのだと感謝していますよ」
執事さんはそう言うと、なにか思い出しているのか遠い目をして前を見つめた。
「あの時のヴァーミリオン様の笑顔は確かなものでした。私は今まであの方の、あんなに楽しそうな表情を見たことがありません。生き生きとして俯くこともなく、不安など一切感じさせることのない眼差しでした。……あれが表に出ることのなかった、本来のヴァーミリオン様の姿だったのでしょうね」
それは俺も知っている。
初めて会った時のヴァーミリオンは俺にもすぐに見抜けてしまうぐらい、不安定だったから。疑心暗鬼というか、きっと周囲全てが信用できず、誰も彼もが敵に見えていたんだと思う。
他人を突き放すことばかりを考え、眉間には常に皺が寄せられて機嫌が悪く、自分に近づいてくるのはフォルトゥナ卿の息子を護る騎士という肩書きにしか興味のない奴だと、さも当然のように言い放っていた。とにかく何事にも冷めている子供だった。
歳の割に大人びていて、言動も明らかに歳相応ではなくて。こっちが心配になる程、あいつは孤独のように感じていた。
だけど騎士の誓いを交わしたあの日から、ヴァーミリオンは少しずつ変わっていった。本当にちょっとずつで、気にかけていないとわからないような微かな変化だけれども。
俺に対する態度も、周囲への接し方も随分和らいでいったように思えた。突き放すことばかりを考えず、受け入れていくように自分から変わっていこうとする雰囲気を感じていた。
自惚れているように聞こえてしまうかもしれないけど、おそらく俺のことを心から信頼してくれていたんだと思う。あいつの騎士として、認めてくれたんだとわかる。言葉の節々に棘はあるものの、その皮肉っぽさがヴァーミリオンらしさなんだ。
だから俺も、心を許してくれたばかりの彼の元から姿を消してしまったことが申し訳なくて仕方なかった。一応宣言はしていたものの、やっぱりどうしたって謝って済むレベルじゃない。土下座して、許されるかどうか。そんな問題だと思う。
「ヒロさん。もしヴァーミリオン様が外に出ているところを見かけたら、声をかけてあげてくださいませんか? なんでもいいんです。挨拶でも、他愛ないことでも、どんなことでも」
「……俺に話しかけてくれるかな。いや、その前に目も合わせてくれるか、どうか」
「おや、何年も冷たくあしらわれ続けている私の前でそれを言いますか、ヒロさん。避けられることを恐れてはいけませんよ。諦めずにアタックし続けることが大事なんです。拒絶されようと、例え嫌われていようと」
「え、なんですかそれ」
「根は優しい子だと申し上げましたでしょう? いずれは返してくれるようになるんですよ。返ってくるのはひねくれた言葉ばかりなのですが、そんなところがまた可愛くて」
俺はつい吹き出してしまった。確かに初対面の馬車の時もそうだった。臭いと言われ突き放されかけたけど、馬を守るために行動を起こしたことを褒められたりしたんだっけ。
なるほど、この屋敷の人達はそんなヴァーミリオンの中身を知っているから離れていかないのだと改めて確信した。誰にでもそうなんだろう、あいつは。
なんだかんだ言って、結局ヴァーミリオンもお人好しなんだ。ホント、あいつを妬みかけていた俺ってば小さいなぁ、と笑ってしまう。




