氷の世界に閉ざされたような静寂さ
* * *
――母は初めから冷たい人だった。
――俺のことも、いつも冷めた目で見ていた。
陽が沈み、明かりの消えた廊下を一人で孤独に歩く。
先を照らす光もない空間は、闇に包まれ肌寒く、外を流れる微かな風の音でさえ騒がしく聞こえる程、静かで穏やかだ。
日中は人が多く賑やかだが、今この場所は氷の世界に閉ざされたような静寂さに包まれている。
誰の声も聞こえない。誰の気配も感じない。今ここにいるのは、紛れもなく自分の存在だけ。
フォルトゥナ学園。ここは母が教師として勤めている場所だが、同時にアディの家でもある場所だった。
魔力の大きさは他人より優秀であるのに、おかしな子供を産んでしまったばかりに他人から蔑まれることになった母。住む場所も見つけられず途方に暮れる中、親子の姿を見兼ねたこの学園の経営者が声をかけ、ここに住み込みで働くことになったのだ。
アディは初め、どうして母がそう他人から厳しい言葉を投げつけられるのか、わからなかった。
だけど母と一緒に過ごす内、それは自分のせいで責められていることに気づいてしまった。アディがいるから、母が悪く言われていたのだ。異端な子供として睨まれ、突き放され、暴言を吐かれ、距離を置かれてきた。
自分も同じ人間なのに。話す言葉も同じはずなのに。
どうして自分は普通の人よりも肌が黒いのだろう。母は白いのに、どうして自分だけこうなのだろう。
この力だってそうだ。闇の加護なんて、こんな力、要らなかったのに。他人は知ることさえない、アディと母だけの秘密だった。
物心がついた時には、父の姿はそこになかった。父がどんな人だったのか、母には聞いたこともない。きっと聞けば、あの人は怒ると思っていたのだ。
悲しむのではない。傷ついた表情を見せるのではない。母はただただ怒り、アディを罵るはずだ。お前のせいでいなくなったのだと、怒鳴られて終わりだ。
父も自分のように浅黒い肌をしていたのだろうか。髪の毛も、冷たい金属のような色をしていたのだろうか。生きているのか、死んでいるのかさえわからない。それを知るのは母のみだが、アディには確かめる勇気もなかった。
ドアを開け、母が学園の経営者であるフォルトゥナ卿から与えられた研究室へと足を運ぶ。この研究室こそが、アディの家でもある唯一の部屋だった。
見渡してみると、そこに母の姿はない。どこへ行ってしまったのか。
だが母が何も言わずにいなくなるのは、よくあることだった。その間、アディは部屋から一歩も外へ出ることもなく、ただひたすらに帰りを待つ。
母はどんなに子供に冷たく当たっても、見捨てることはしなかった。愛がないのはわかっている、この生まれ持つ力に助けられていることもわかっている。それでもやっぱり母が常に傍にいてくれるのは嬉しいし、安心した。
机に広げられている紙を覗いてみると、そこにはまた新たな魔法陣が描かれている。なにかの召喚陣、だろうか。異世界から他の人間を以前と同じように呼び込む気なのか。いや、だがそれとは少し陣の形が違うような気もする。
何かをまた呼び出そうとしているのか。今度は一体どんなものを呼ぶつもりなのか。
アディは描かれた召喚陣を見つめながら、ここから逃げ出していった漆黒の少年の姿を思い返していた。異端な自分相手に、普通の人間と同じように接してくれたヒロのことを。
母はヒロを利用し企んでいたが、アディはどこか複雑だった。
ヒロもこの辺りにいる人間と同じで、もっと自分を蔑んでくれるような人間だったら良かったのに。そうだったら母のやろうとしていることにも、もっと積極的に手を貸すことができたのに。
母はあれからアディには目をくれることもなく、新たな手段を探し始めていた。黙々と本を漁り始め、机に向かって紙になにかを書き殴っている。
ヒロは母に傷を負わされていたようだが、大丈夫なのだろうか。人の力を勝手に使い、呪いまで彼に施していたようだ。
母のしていることが間違っているのは、アディにもわかっていた。だがアディには母しかいなかった。その母さえいなくなってしまえば、自分には頼れる人もおらず、独りになってしまうのだから。
でもあの人がこれ以上ヒロを傷つけるつもりなのだとしたら、アディはどうするべきなのか。なにをするのが正しいのか。
ヒロは違う。この世界にいるような人間とは違う。
アディはゆっくりと息を吐いた。
そして自分の腕にはめられているリングを見つめる。これは母が作りあげた、アディの魔力を自分の力へと移し替えるための特殊な魔術が施されたものだった。
裏には術式がびっしりと彫られており、アディの持つ闇の力を僅かではあるが共有し、自分のものとしている。
こんなものなどなくても、マナを上手く扱える人間ならば少しばかりの魔力でも好きに操れるはずなのに。それを実際魔法として駆使することも容易いはずだ。母はそれができるはずなのに、しようとしない。
まるでアディの力にコンプレックスを抱いているかのように、自らの力で魔力を行使しないのだ。こんな術式を一人で創り上げてしまう母の力は凄いものだと思うのに。自分の実力を自分で受け入れられないのだ。
ヒロは母に責められるアディを、かばってくれた。
ヒロは、アディを普通の人間だと言ってくれた。
友達になっていたはずだとも、言ってくれた。
嬉しかった。誰かが自分の味方になってくれることなんて、今までなかったから。あの時アディは心臓を掴まれたかのように、動けなくなってしまったのだ。
今でも彼は、そう言ってくれるだろうか。友達になりたいと言えば、手を取ってくれるのだろうか。これからもずっと、友人として対等に渡り合える関係でいてくれるだろうか。
だがそう考えて、アディは肩を落とした。
いいや、それはない。それはもう、絶対にないだろう。
アディ自身ではないが、母が彼を傷つけてしまったのだ。しかもあのような呪いまで施して、ヒロを追い詰めて。
自分はもう彼の敵として認識されてしまっているだろう。
仕方の無いことだけれど、とても悲しかった。次にヒロと対峙した時、一体どんな眼差しを向けられるかと考えると、怖くもなる。
だけど、そこで終わりじゃない。
アディはヒロに嫌われようとも、なんとかして母の手から守ってやりたいと思うようになっていた。
あの日、彼と初めて出会った時。違う器に入っていたが、ヒロはアディのことを魔物の手から救ってくれた。あの時からアディの彼に対する想いは変わっていた。そう、ヒロには三年前から恩義を感じているのだ。
だけど母はそんな彼を傷つけようとしている。ヒロが傷を負ったのをこの目で見た時には、母に対し今まで抱いたことのない怒りさえ感じた。あの一件で、親に対する想いが手の平を返したように変わってしまった。
だが彼の味方になるということは、それは母を完全に裏切ることに繋がっていく。
はたしてあの人を、裏切れるだろうか。頭を撫でてくれたことすらなかった母の、味方でいてもいいのだろうか。
少しばかり感じている情が、影から顔を覗かせてくる。
でも、アディはもうヒロが傷つくのを見たくない。ヒロが傷つき、死ぬのも見たくない。ヒロには生きていてほしい。たとえ元の世界に戻っていく人だとしても、彼には自分の道を歩んでいってほしい。
アディはもう、幼くて、自分一人では何もできない子供ではない。アディにはもう、一人で生きていく力がある。術もある。他に必要なものがあるとすれば、それは前へ踏み出す勇気だけだ。
だとしたら、悩まずとも自分のやるべき事は決まっている。きっと、それは。
「……嫌われるのを怖がっていたら、何もできない」
アディは母の机の引き出しを開け、焦ることなく一つずつ、確かにそこを探していく。
自分のすべきこと、それはヒロの助けになることだ。
嫌われていてもいい。蔑まれてもいい。その代わりアディは恩を返すために、精一杯彼に尽くしていくだけだ。
そしていつか、伝えたい。
あの日言うことができなかった「ありがとう」を。
母に敵意を向けられた時、この力を使ってでも自分は抗わなければいけない。
なんとしても、ヒロを助けるために。彼の力となるために。




