外は暗いけど、おはよう
そりゃ見覚えもあるだろう。だって俺はこの屋敷で三年もの間、自分の家と同じように過ごしてきたのだから。
そうだ、庭だって忘れるはずもない。あそこでずっと剣の稽古を受けていたんだ。毎日、シアンさんやヴァーミリオンと一緒に、朝から素振りを始めて、走り込みもして。騎士の誓いだって、あの庭で交わしたんだ。
家具だって。俺の部屋に置いてあった物ときっと同じだ。だから見覚えがあるんだ。
なにを見ても懐かしいわけだ。この屋敷にはもう戻れないと思っていたはずなのに。またこうして足を踏み入れることができたなんて。
安心すると同時に、また別の不安が俺の背に乗りかかってくる。
だって俺はもう、ウェインじゃないから。俺のことを覚えている人なんて、ここにはもう誰もいないから。
寂しいというか、空しいというか、なんと言ったらいいのか。
『……ヒロさん?』
砂糖菓子の転がる、甘く可愛らしい声が聞こえ、はっと振り返る。
すると布団の中からもぞもぞと、さっきから姿が見えずにいたルナが顔を覗かせた。
そんなところにいたのかと胸を撫で下ろす。まさか布団の中に潜っていたとは思いもしなかった。
重い瞼をこすりながらこちらに視線を送るその仕草は、まるで寝起きといったようにしか見えない。精霊も眠ったりするんだろうか、なんて首をひねってしまう。
でもルナを見つけることができて、傍に仲間がいてよかったと、俺は眉を開いた。
「ルナ……っ、姿が見えなかったからいなくなったのかと思ったよ! よかった、俺一人じゃなくて本当によかった……!」
『いえいえ、すみません……。私も力を使ったので、少し休憩させていただきました。おはようございます……』
「おはよう! 外は暗いけど、おはよう!」
ぺこぺこと互いに頭を下げる姿はなんだかおかしい。
そうか、彼女も俺を瞬間移動させたりと色々力を使った分、体力を消耗していたんだ。なんとなく精霊自身って無限に力を使えるものだと勝手に思い込んでいたから、意外だ。
ルナはマナのない俺にも共有して分け与えてくれているのだから、それもあって余計力を消耗しているのかもしれない。いくら精霊といえど、体は小さいんだ。きっと彼女にも、限界はある。
俺のためにごめんな、と謝り倒したくなるが、喉まで出てきた言葉を呑み込んだ。きっと謝ったとしても、ルナに怒られてしまいそうだからだ。仲間なのだから互いに助け合うのは当然のこと、なんて。
彼女の負担を減らせるように、俺も自分で切り抜けることができるよう強くならなくちゃいけないと思った。いつまでも大きなお荷物のままではいけないんだ。
「ルナ、起きたばかりで悪いんだけど、俺は一体あれからどうなったんだ? 断片的にでいいから、教えてほしいんだけど」
ルナは俺を見ると、一度大きく欠伸をした。
目がまだ半分閉じているところを見ると、眠気が完全に取れていないのかもしれない。余程疲れているのだろうか。彼女を起こしてしまったことに、少しだけ罪悪感を感じてしまった。
話を聞いたら、好きなだけ寝かせてあげよう。俺の傷が治るまで、いっぱい寝てもらおう。
今にも睡魔がルナの意識を奪っていってしまいそうだった。
「……ルナ? 大丈夫か?」
『ヒロさんは、この屋敷の紳士な男性に……助けていただきました』
「え、紳士な男性?」
『傷口もお医者様に診ていただきました……。傷口にかけられた呪いも、解いてもらって……』
そういえばベッドから動き出した時、傷を負ったところの嫌な熱が消えていると思ったんだ。
意識を失う前はあんなにじくじくと痛んでいたのに、突然不思議だなって。
解いてもらったということは、医者が呪いを消してくれたのかな? 最近の医者はすごいな、呪術まで習得しているのか。白魔法的な感じなんだろうか。
「もしかしたら回復魔法まで使えてしまうのかもしれない、異世界の医者は……。なんてこった」
『紅い、少年です……』
はい? と聞き返せば、ルナの目はもう完全に閉じていた。目を閉じた状態で、話をしていた。
睡魔がすでに彼女を夢の中へと呼び込んでしまっているのかもしれない。それに耐えつつ、ルナは一生懸命返事をしてくれていたんだ。
これは話をするのは酷かもしれない。俺は慌てて「もういいよ」と彼女に布団をかけてあげた。ふわふわの、軽くて温かい羽毛布団だ。これならルナも重いとは感じないだろう。
『炎の少年が……貴方を、助けて……』
炎の少年。その言葉に、思わず息を呑む。
ルナはすでに意識を手放して寝入っていた。すーすーと、気持ち良さそうに寝息を立てている。
俺は困ったように、窓の外へと視線を移した。確かに、あいつの炎なら呪いなんて簡単に消してしまえるかもしれない、なんてことを考えながら肩を落とした。
また、助けてもらったのか……。
ルナの言う炎の少年が、きっとヴァーミリオンを指しているのはすぐにわかった。
ここまで来て、ヴァーミリオンなのか。ウェインから抜けた後だっていうのに、縁の切れることのない相手なんだろうか。
あいつには、会った時から助けてもらってばかりいる。
初めは馬車で顔を会わせた時、次は街でスライムに襲われた時、そして今回は傷の呪いまで消してもらって。
俺は腹の底から重い溜息を吐き出し、その場にしゃがみこんだ。ぐしゃぐしゃと、そのまま髪の毛をかいた。
今は本体に戻ったといえど、以前の俺はあいつの騎士だったわけで。それでも助けてもらってばかりというのは、いかがなものか。本来ならば、騎士である俺がヴァーミリオンを助けなければいけない立場のはずなのに。惨めだな、と背中を丸める。
しかも今更になってそう思い返すことになるだなんて。なんて役に立たない男なんだ、俺ってやつは。
ヒーローになりたいと夢見ていたはずなのに、これじゃあむしろヴァーミリオンのほうがヒーローそのものに見えてきてしまう。
特別な力を持っていて、魔物相手にも怯まずに立ち向かうことができて、本当の意味でみんなを助けていて。んでもって、あのルックス。どこにでもいる平凡な、俺のような芋野郎とは大違いだ。
「……最後のは完全に僻みだろ。芋って。自虐にも程があるだろうが。なんだよ、芋って」
でも確かに、ヴァーミリオンはかっこいい。
剣を振るえば様になるし、加護を受けた炎は外見にも反映されているのかまるでアニメや小説の主人公のようだ。性格も子供のくせに割りとクールで、そう、あいつはファンタジーそのものなんだ。
やることなすこと、全てに意味があって、それが誰かを助けることに必ず繋がっているっていう。
俺だって意味があって行動していたけど、あいつとは比較にならないというか。行動力が小さいっていうか。いやいや、そもそも意味のない行動ってあるのかな。
ヴァーミリオンがもっと大きくなったら、どんな奴になるんだろう。色んな意味でみんなを惹き付ける、それこそ本物のヒーローになっているんじゃないだろうか。今抱いているみんなの印象を覆す程の、大きな功績を残して。
俺にはない、カリスマ性も持っていそうだし。もっと、もっと、今よりも強くなっていそうだし。
「……いやいやいや、だからなんでか僻みが混ざってきてるんですけど。そういうことを言いたいんじゃないんだって。違うだろ。妬んでるわけじゃないんだよ、俺」
頭を左右に振りながら、俺は両手で顔を覆った。
あいつは他人を避けておきながら、やっぱり心根は優しい奴なんだなって思った。なんだかんだ言いつつも、助けずにはいられないっていうかさ。
ウェインがいなくなって、どうなることかと思っていたけど。また部屋に閉じこもってしまったんじゃないかと心配していたけれど。
「あいつはあいつなりに、向き合っているのかな……。それとも、また我慢して上辺だけを取り繕っているのか……?」
そうして、良心が痛み始める。チクチクと、俺の胸を罪悪感が刺していく。やばい、と思った時にはすでに遅く。
さっきまで自分のことで精一杯だった分、今は心に余裕が出来てしまっているからだろうか。段々と後悔の念に苛まれていく。
せっかく閉ざしていた心を開いた相手がいたのに、目の前からすぐに消えてしまったなんて。悲しいことだろう。裏切られたような気分になるだろう。
思わず顔を両手で覆ってしまった。
あの男が自分の前から逃げた、なんて思われていたらどうしようと、精神的に責められているような気分になっていく。
別に今は誰にも責められていないんだけど。自分で自分を追い込んでいるだけなんだけど。




