どう見ても、病院で縫うレベルの傷口
「そうか、面白い。ではその傷口にも呪いを施しておこう。私に逆らうということは、苦を共にするということだ。覚えておけ、異世界の子供よ」
「残念でした、俺はもう子供なんかじゃないんだよな……! なんてったって、こっちで眠りについて早三年。起きた時にはとっくに二十歳を迎えていて、俺の頭脳と体はすでに大人へと成長していて…………っ」
言葉を続けようとし、でも瞬間、目に映る景色が変わる。
原っぱにいたはずが、今度はどこか藪の中へと一人佇んでいた。
脳が追いついていかず、きょろきょろと周囲を確認する。
「……俺、まだ話してる途中だったのに」
意気消沈して肩を落とせば、すみませんとルナが謝った。
『限界だったんです。ヒロさんの傷の具合もそうなんですけど、貴方が彼女に話している途中、呪術のようなものを飛ばしてきました。恐らく闇の力を借りてのことだと思うのですが』
「そういえば呪いがどうとか言ってたよな……。え、俺ってば喋っている間に呪いを受けちゃったの?」
『飛ばされた瞬間に私も発動させたのですが、少し掠めてしまいましたね。しばらく、苦しむことになるかもしれません。なんとか耐えてください』
痛む傷口を見てみれば、制服には血が滲み、地面へと滴り落ちていた。
思いの外出血が多く、俺は自分の腹を見て青ざめる。
あの時アディの母親は死に至る深さじゃないとか何とか言っていたような気がするけど、十分死んでもおかしくない傷に見えるんだが。
少なくとも、病院で縫うレベルの傷口で間違いないだろう。
こんなに血を流しているんだ、そりゃ痛すぎて叫びたくもなるや。
しかも呪いを受けて、しばらく苦しむかもしれないって……。
「……泣きそう」
傷を目視してしまえば、痛みは更に腹に集中して。
堪らずその場に尻餅を着いてしまった。
ちょうど後ろに細長い木が生えていて、背を預ける。
見上げた空から降る雨は、まだまだ止みそうになかった。
『ヒロさん、まだここで一息ついている場合ではありません。起きてください』
「……起きてるよ。大丈夫、少し疲れただけだ」
『もし眠ろうとしているのなら、こんな藪の中ではいけません。ここでは誰かが通りかかったとしても、見つけてもらえませんよ。せめて道に出てください』
街は目と鼻の先です、とルナは続けるけれど、当の俺といえば体を動かす気力がない。
さっきまで痛みに耐えながら声を荒らげていたせいか、妙な倦怠感が付き纏っている。
一度座ってしまえば、もう立ち上がることすら難しい。雨に濡れようが構わない。そう思えるぐらい、体が重かった。
だけどルナがそれを許してくれなかった。俺の耳元で小鳥のように喚いている。
『ヒロさん! ヒロさーん! こんなところで寝ちゃいけません! 体調が悪化するだけです! もう少しだけ頑張ってください!!』
ルナの体は小さいのに、やけにキンキンと頭に響くような大きさの声だった。
このまま寝てしまえば、今度は頬を叩かれ叫ばれそうだ。
さすがに怒らせるわけにはいかないと気怠い体を無理に動かし、俺はまた地面を這うようにして動き出す。
四つん這いになり、手足を無理に動かすと、ずきりと腹が痛んだ。
傷口から血が滲んでいるのだろうか、また腹の辺りがなにか生温いように感じる。
でもここで動きを止めればルナに叱られる。俺自身のためにも、止まっちゃいけないんだ。
「……っ、ぅ、あ」
痛さを紛らわすように、重い息を吐き出す。
このまま地面に横になって、眠ってしまいたいぐらいだ。地面を這えば傷口に泥がつくんじゃないかとか、そんなことすらどうでもよくなってくる。
眠い。それに雨に打たれたせいか、とにかく寒い。
白いワイシャツが、どんどん汚れていく。
泥とか血とか、これじゃあ汚れが頑固すぎて洗濯しても染みになってしまうかもしれない。
異世界に強力な漂白剤とかあるのかなぁ。ないよなぁ。こんな格好で家に帰ったら、めちゃくちゃ怒られるかもしれないよなぁ。
怒られる。そう、怒られる。……怒られる? 誰にだ?
母さんに。
でも、母さんはここにはいない。
じゃあ、誰に?
俺が汚れて帰ってきて、誰に怒られるっていうんだろう。いやいや、豚小屋のような臭いがするとか、怒鳴られそうだろ?
帰りたいなぁ。……どこに? 俺の帰る場所って、どこ?
うん? あれ、俺ってなに考えてたんだっけ?
体が熱いせいか、頭もぼんやりとしてくる。
するとなぜか余計なことばかりが思い浮かんできてしまう。
比呂になってしまったのなら、俺の帰る場所なんてこの世界にはもうない。もう、どこにもないんだ。
いま考えなくてもいいことばかりが俺を襲ってくるようで、更に気力を奪っていく。
「……どうした、俺」
『ヒロさん? 大丈夫ですか、ヒロさん! あと少しです! 少しだけ、力を振り絞ってください!』
「うん、大丈夫……。あと、すこし……すこし、だよな……」
帰る場所がないって、けっこう悲しいことだよな。
ウェインの中にいた頃はそんなこと、考えもしなかったのに。
ウェインとして生きていれば今頃屋敷に戻って、またヴァーミリオンやステファニーとたわいない話でもして笑って、シアンさんに剣の稽古をつけてもらって、温かい食事も待っていて。今まで通りの生活を送れていたかもしれないのに。
でも、今の俺といえば。
今の俺には、何も無い。
何も、無い……。
そこまで考えて、俺の存在意義はあるんだろうか。
「……ルナ」
『はい、なんでしょう』
「アディの母さんを止めるには、俺じゃなきゃいけないよな?」
薮を這い、ようやく小道へと辿り着く。
ルナの目を見て言うことはできなかったけれど、恐る恐る聞いてみた。
これで俺じゃなくてもいいだなんて言われたら、どうしようかと怖くもなり。らしくもなく、情けなくなってしまう。
でもルナはそう言わなかった。言ってはくれなかった。
『……っ、もちろんです! 私のような存在は普通の人には見えません! 加護を受けていたとしても、精霊が心を許さない限りは声すらも聞こえません! 私のことを見ることも、声を聞くこともできるのは、この世界にはヒロさんしかいないんです!』
ヒーローを目指してただ日々鍛錬と豪語していたあの頃の自分が、恥ずかしい。
実際はこうも弱く、心も小さくて、こんな状況で誰かに必要とされる存在でなければどうしたらいいかわからないなんて、以前までの俺なら考えもしない事態だ。
情けない。これでヒーローだなんて、情けない。
『その私がヒロさんを頼っているんです! 貴方を手伝うって約束もしたじゃないですか! ヒロさんでなければ、彼女を止めることはできません! それに、その子供も!』
「……腹が痛すぎて、弱気になったのかな。ごめん、変なこと聞いて…… 」
『いいえ、弱音を吐いたっていいんです! それにヒロさんには、会いに行かなくてはいけない人もいるじゃないですか! その目標のためにも、こんなところで諦めないでください!』
ルナの叱咤激励を浴びながら、俺はずるずると藪から抜け出し、小道まで這ってくる。
疲れているけれど、でもそこでくだばることをルナが許すはずもなく。
だけど、そこまでだった。小道へ辿り着くと、もうやりきったと言わんばかりに体に力が入らなくなってしまった。
うつ伏せになり、地面に顔をつけ、道の先を見つめる。
「痛いし、寒いな……。今日一日で、どんな環境の変化だよ……本当……っ」
『酷い怪我を負っているので、精神的に参っても仕方の無い状況なんです。私もまさかあの場でヒロさんに直接仕掛けてくるとは思いもしませんでした。しかも、彼女自身があんなにも早く追跡してくるだなんて』




