どこもかしこも真っ白な空間
* * *
『はい、もう大丈夫ですよー。目を開けてください、えーと……お名前、なんでしたっけ?』
「比呂です。江口、比呂」
『ヒロさん! かっこいいお名前ですね! 私はルナと申します。改めて、よろしくお願いします』
結界の中で逃げ出すことも叶わず、結局俺はこの見えない女の子の声に導かれ、一方的にどこかおかしな場所へ意識を引きずりこまれてしまったわけであります。
緊迫した雰囲気だったのに、彼女の声がほんわかしてるものだから、緊張感も何もなくなってしまって。今では動揺もおさまり、だいぶ和んできたかもしれない。
これはこれで良かったのかも、なんて思ったりもする。変に焦ったところで結界の中から抜け出せるわけでもなかったし、ね。
しかし俺、また幽体離脱しちゃったってことなのかな? そんなにぽんぽん意識を離されて大丈夫なのか、俺の体。そのうち戻れなくなるなんてことないよな? 下を見れば俺の体……戻りたくても戻れない、あぁ、離れていくばかりの意思と本体……なんてシャレにならないぞ、これ。
そう考えればまたそわそわして落ち着かず、早く自分の中に帰りたいと懇願したくなる。口には出していないけど。得体の知れない彼女の前で、出せるはずもないけれど。
「……ルナさん、俺、後できちんと戻れるんだよね?」
『心配しなくても大丈夫ですよ! ただ私の望む空間の中に貴方を連れてきただけですから! 私がヒロさんの意識を離せば、すぐ元に戻れます』
言っている意味はよくわからないけど、たぶん大丈夫なんだと思うことにする。……たぶん、な。
「目、開けてもいいかな?」
『はい、どうぞ』
ルナさんの言う通り、恐る恐る目を開けていけば、眩しい光が視界を遮る。
真っ暗な部屋にいたせいか、目が慣れていないこともあって、光が痛いぐらいに眩しい。
それでもなんとか耐え、ゆっくり瞼を開いていくと、俺の前に広がっていたのは何も無い真っ白な空間の中だった。
あまりの白さに口を開けっぱなしにしたまま、驚く。
どこもかしこも真っ白で、壁も窓も天井も見当たらない、なんとも不思議で、それでいて無機質な場所だった。さっきまで俺がいたところとは別世界といっても過言ではないかもしれない。
むしろ俺が床だと思い込んで座っているここも、実は底も何もなくて、ただ宙に浮いているだけなのかもしれないのだと錯覚すると、急に不安に襲われ怖くなる。
な、なんぞ、ここ!? 宇宙空間でもあるまいし、俺はどこに連れてこられたってんだ!!
息をするのも辛くなるほど、目に映る場所すべてが白一色だった。
いやはや、一体どうなっているんだこの世界は。あ
まりの白さに目が眩しさを通り越して、痛くなってくる。動悸まで酷くなるまで一方だ。
奥が見えず、無限に続く空間をここから眺めているだけで、具合が悪くなりそうだった。
「……なんか怖いかも、ここ」
『そうですか? 逆に何もなくて、落ち着きませんか?』
「白いし、何もないから余計怖いって感じるのかもしれない。音も聞こえないし、密室された空間だから不気味さが増してる気がする」
『やっぱり暗い方が落ち着くのかしら……。それとも少し物や風景を足してみます? ちょっといじってみますね』
「いやいやいやいや、別にいじらなくてもいいです! むしろいじるって何なのとか気になるんだけど、そこは置いといてくれていいから! とりあえずどうして俺をここに連れてきたのか気になるかなって! 俺の本体とか今頃どうなっちゃってるんだろうなー、無事かなー!」
これ以上おかしなことをされたら俺の思考回路が追いついていかなくなるのでやめてほしいところです。今でもギリギリで動揺しっぱなしだってのに、俺の頭がパンクしちゃうよ。
あはは、とぎくしゃくした顔で笑っていると、ふと目の前に小さな女の子が現れた。
『ヒロさん自身は向こうで眠っているので、そうおかしな目で見られることはないと思いますよ。ドアの向こうではしっかりあの少年も見張っているみたいですし』
「少年……。もしかして、アディ……?」
『はい。あの方の行動もよくわかりませんね。母親に対して抱いている使命感のつもりなのかは知りませんが、貴方のことを口では突き放しつつも実は心の奥底でとても気にかけていたり、何をしたいのか真意が掴めないというか、どっちつかずというか、優柔不断といいますか……』
母親? アディが母親への使命感で……?
彼女がなんのことを言っているのかさっぱりわからない。
『そういえばヒロさん、私の姿が見えていますか?』
ルナが俺の前で小さな手を振っている。
小さな女の子といっても、本当に手の平サイズぐらいの大きさでしかない子供のような姿だ。なんていうか、アレみたいな。向こうの世界でいう、双子のお星様の片方に似ているっていうか、それの金髪バージョンっていうか。ふわふわしていて、随分可愛らしい姿なんだなぁ、と。
「み、見えてます。思ってた以上に小さくてビックリしてます」
『私は人ではないので、ヒロさん達と同じような体はしていないんですよ。なんだか色々なことに巻き込まれているようだったので、私も私なりに貴方のことを心配していたんです』
「心配? 俺を? ルナさんが?」
『ルナさんだなんて、とんでもない! 私のことはどうぞ呼び捨てしてください!』
えぇ、なんだかそれはそれで呼びにくいような、むしろさん付けのほうがしっくりくるような……。とにかくちょっと、呼びにくい。
『先程の彼は貴方にきちんとした説明をしていなかったようなので、ここは私の出番かなと思い、でしゃばらせていただきました。本当はあまり関わるのはよろしくないのでしょうが、状況が状況です。この度はこちらの世界の者の不手際でヒロさんを巻き込んでしまい、本当に申し訳ございませんでした。頭を下げて済む問題ではないと思うのですが……』
「そう、それ。俺、そこが気になってたんだよ。どうして俺がいきなりこっちの世界に飛ばされて、しかも他の子供の中に入ってたのかなって不思議だったんだ。アディは自分に問題があるからとか言ってたけど、それ、全然答えになってないしさ。ルナが謝るようなことでもないと思うし」
なんとなくだけど、あの時アディは自分を責めるような、辛い顔をしていたんだよな。俺がいたからこうなった、だとか、残酷なことを突きつけなければいけない、だとか。
しかも自暴自棄に、俺をここに呼んだのはアディにしておいてくれたほうがいい、なんて言っていたような気もする。
ルナは頬に手を置いて、そうなんですよね、と溜息を吐き出していた。
『まず説明させてもらえば、ヒロさん自身は亡くなってこちらに転生されたわけではありません。貴方はとある女性の召喚術によって、向こうから呼び込まれた存在なのです』
「俺が、呼び込まれた……。ゲームやマンガなんかでよくある話か」
『私は初めから見ていたので事情を知っていますが、ヒロさん、向こうで意識を失う前に水を覗きこんだりはしませんでしたか? なんでもいいんです。カップに入った水でも、雨上がりに出来た水たまりでも』
とにかく水に関係するものであればなんでも、とルナは続ける。
俺は三年前の、あの日のことを思い出す。
自分から覗きこんだわけではないけれど、そういえば子供が川の水辺に引っかかるハンカチを、必死に腕を伸ばし取ろうとしていたところを助けたことがあったんだった。
ハンカチを取って子供に無事手渡したのはいいものの、バランスを崩し、川に落ちて流されてしまったんだ。流された、というよりは、底に沈んでいったんだけど。
泳げない俺は浮き上がることもなく、真っ逆さま。
もしかして、この時点ですでにルナの言う召喚術に影響されてたってことなのかな? いつもの俺だったらありえないっていうか、なんというか。
「川に落ちたんだよ。子供を助けたと思ったらヘマしてそのまま、水の中にぽちゃん……と」
「あぁ、なるほど。それで貴方がこちらに呼ばれたんですね。だから彼女はあんなにも怒りを隠せずにいたんでしょう」
怒る? なんで俺がそこでその女の人の怒りを買わなきゃいけないんだ? なんの関係もないよな? そもそも誰なんだよ、俺を呼び出した人って。
首を傾げてみせれば、ルナは眉を下げて微笑んだ。
『アディさんは貴方を中途半端な器、と呼んでいましたね。覚えていますか?』




