温かい手と、美味しい食事
この世界に来てから貧乏な家で暮らしていた俺には勿体ないぐらいの部屋だった。
これが俺の部屋なの? 比呂として暮らしていた以前の部屋より大きくて立派なんですけど!
ベッドだって、なんだこれ! 高級ホテルに置いていそうなふわふわの羽毛布団に、マットレスは重厚感のある素材で作られていて、高反発でしっかりした厚みもある。これはスプリングも安定していて、体もあまり沈まないタイプに違いない。長時間寝ていても疲れないベッドだ! 通販の番組で見たことがある!
このまま今すぐ布団の上に飛び込んでいきたい衝動に駆られる。
だってこんなの寝心地のいいベッドに決まってるじゃないか、絶対に。朝までぐっすりパターンだよ!
本当にこんな豪勢なところを使ってもいいのかとシアンさんの方を振り向けば、彼女は入口で片膝を着き、俺に向かい深々と頭を下げていた。
それを見てぎょっとするのはこちらの方だ。ちょ、なんで俺なんかに頭を下げてるんだよ、シアンさん……!
焦った俺はすぐに彼女の元へ駆け寄った。
「ちょ、なにしてるんですか、シアンさん! 頭上げてくださいよ! どうして急にそんなことを俺相手に……っ」
「ヴァーミリオン様のことを頼みました。ウェイン殿」
シアンさんの雰囲気が、親しげのあるそれから急に騎士としての佇まいに変わる。
「貴方のような寛大な御方ならば、きっとヴァーミリオン様が生涯信頼を寄せる事のできる素晴らしき騎士となることでしょう。二人が肩を並べ、共に歩む日が来ることを私は楽しみにしています。いいえ、望んでいます」
「……シアンさん」
「食卓が整い次第呼びに来ます。小さな体での長旅、ご苦労様でした。まずはゆっくりとこの部屋で寛ぎください。ここはもう貴方の部屋です。好きに使ってくださって構いません」
彼女はそう言うと立ち上がり、俺に右手を差し出した。
俺は初め、その手の意味がわからずにぽかんと眺めていたが、しばらくしてからそれが握手を求めているのだとようやく気づき、慌てて手を握り返した。
その手を握り返したということは、シアンさんの言ったことを肯定するという意味で。
彼女の手の包み込むような温かさに、俺はどうしてかホッとしてしまった。どうしようもなく安心してしまった。
ヴァーミリオンの良きパートナーになれるかどうかは前途多難なところだが、俺でよければ出来る限り頑張らせていただきます、はい。
シアンさんはもう一度くすりと微笑み、頭を軽く撫でると、すぐに部屋から出ていってしまった。
握られた手を、俺はもう一度見下ろした。
「はぁー。温かい手、だったなぁ……」
握手を交わしたこの掌はまだ彼女の熱を感じでいるようで、熱い。
他人の手をこうも熱いと感じるなんて、俺、やっぱりどこかおかしいんじゃないだろうか。
にぎにぎと、掌を握っては開いてを何回か繰り返してみる。……たぶん、大丈夫だと思う。動作に問題はない。
俺の手は、熱を取り戻したのだろうか。それともまだ死人のように、冷たいままなのだろうか。
シアンさんは俺の手を握って、どう思っただろう。変に思わなかっただろうか。
「逆に遠慮なしにお前の手、冷たすぎんだよ! とか言ってくれる人、いないかなぁ……」
自分の手の温度なんて、自分ではよくわからないんだ。温かくなっていればいいけど、と一人呟く。
しばらく手を見つめたまま、握っては開いてを繰り返していた。
それからしばらくして、俺の部屋にメイドさんがやってきた。食事が出来たと呼びに来てくれたみたいで、俺はメイドさんの後をついて食堂までやって来た。
シアンさんが呼びに来てくれると思ったら、違うんだ。つい彼女が呼びに来てくれると思い込んでいた俺は少しばかり面食らってしまった。
食堂もまぁ、やっぱりお金持ちのお家という感じですごかったです。語彙力なくて悪いんだけど、でも本当にすごかった。
部屋の真ん中に大きくて長いテーブルがどーん、と置いてあって、その上には蝋燭も何本かあって食卓を柔らかい光で照らしていて、天井にはやっぱりきらきら輝くシャンデリアが吊るしてあって。
思わず口を開けたまま呆けてしまったものだ。
手元にスマホがあったら絶対写真に残していたい光景だ。貴族って、すごい。
この世界にカメラとかないのかな。アルバムを作りたいぐらい、ここにあるものすべてが綺麗だ。比呂の世界とはまた違った凄さだった。
テーブルから少し離れた壁際には執事さんと思われるおじいさんを初め、数人のメイドさん達が立っていて、俺を温かく迎え入れてくれた。
食事は長旅での俺の体調を考慮してか、消化の良いリゾットのような食べ物とサラダ、一口サイズに切られたフルーツが用意されていた。
この世界の果物、なんだよな。あっちの世界じゃ見たことのない形の物が多い。
オレンジの色をした苺のようなもの、角切りされた紫のスイカ、青いミカンのような果物。一体なんて名前なんだろ、これ。変わってるよなぁ。
執事さんが「どうぞ、召し上がってください」と勧めてくれたので、腹が減っていた俺はそれはもう綺麗にぺろりと平らげたものだ。
とても美味しくて、昨日まで質素な食事しか食べていなかった自分が信じられないぐらいだった。
いつもは硬い米に、何で作られたのかわからない薄い具材無しのスープ、父さんが川で捕まえた魚だったり、山かその辺りの草むらで採れた何かの野菜しかなかったのだ。
それがこんなにも美味しいご飯にありつけるなんて、と不覚にも俺はまた泣きそうになってしまう。
美味しい。けど、あの集落の人達は今も質素なご飯を食べていると思うと、どこか複雑な気持ちになってしまう。
この豪勢な食事に使われている材料を少しでも他の貧困な地域に分けてくれたならなぁ、なんて思いながら口を動かしていると、俺はふと、この場にヴァーミリオンがいないことに気がついた。
ここには使用人がたくさんいるけれど、今ご飯を食べているのは俺一人しかいない。彼の騎士候補となるならば、一緒にご飯を食べた方が絆も強まるような気がするんだけど、さてこの世界ではどうなんだろう。同じ釜の飯をうんたらかんたらというのはないんだろうか。
行儀が悪いと知りつつも、俺はきょろきょろと顔を動かしヴァーミリオンの姿を探す。
うん、いない。やっぱりどこにもいない。
「どうかされましたか、ウェイン様」
彼の姿を探し続ける俺の様子に気づいたのか、執事さんが声をかけてくれた。
「ヴァーミリオンはいないんですか?」
「ヴァーミリオン様はいつもお部屋で食事をとられていますよ」
「部屋で? みんなと一緒に食べたりしないの?」
「私達は家臣になりますので、主と一緒に食事をとるなど畏れ多くて。この部屋も滅多に使うことがないのですが、今日はウェイン様がいらっしゃるとのことでしたので、私達も久しぶりに腕を振るって食事をご用意しました」
お口に合いましたか? と聞かれたので、俺は満面の笑みを浮かべて、もちろんと大きく頷いた。
ご飯に文句はなし。今まで食べてきたものが食べてきたものだったので、こうしてしっかりと味付けされていて、胃にも優しい食事を口にすることができて、俺の心は幸せ満開なのです。胃が満たされると人間幸せを感じるって本当なんだなぁ、と実感した次第でありました。
だけどやっぱりこの大勢いる中で一人だけもぐもぐと食べているのは何か気まずいというか、人の視線が気になるというか。
ヴァーミリオンも俺と同じで、この視線がやけに気になるから部屋で食べているんじゃないか、なんて思ったりしていて。……そんなわけないか。
「……一緒にここで食べたらいいのにな」
俺が何気無しに呟いた独り言が聞こえたのか、執事さんは嬉々として声を上げた。
「それはいい案ですね!」
「え?」
「ウェイン様が誘ってくれたなら、きっとヴァーミリオン様も部屋から出てくると思いますよ! やはり一人で食事をするより、二人で頂いた方が美味しいし、楽しいと思いますからね!」
「え、えーと、そうですね……?」
「ヴァーミリオン様も初めはここで食事をとっていたんですよ。ですが、いつからか私達にまで気を遣い始めて、自室に籠るようになってしまったのです。自分から距離を置き出したと言ったらいいんでしょうか……」
執事さんは以前のヴァーミリオンを思い出しているのか、目を細め遠くを見つめているようだった。
最初から部屋に籠りっぱなしじゃなかったんだ。なにかしら自分の中で思うところがあったのかな。
執事さん達もヴァーミリオンの力について、なにか知っているんだろうか。
「あの、ヴァーミリオンのことなんですけど」
「はい」
「ヴァーミリオンがどうして人と距離を置こうとするのか、皆さんは知っているんですか?」
聞けば執事さんは目を丸くした。
「俺、あの子の噂、全然知らなくて。シアンさんに聞いても上手くはぐらかされちゃったし……。そんなにあいつは怖い存在なんですか?」
あまり人伝てにあいつの事を知ろうとするのはよろしくないんだろうけど、でも気になるものは気になる。
シアンさんが教えてくれないのなら、ここにいる人達に聞くしかないだろう。
どんなに彼が、他人曰く恐ろしい力を持っているのか、事前に聞いていた方が驚きも少ないだろうし、ある程度傷つけることのない上手な接し方ができるかもしれない。
はたしてどんな力なのだろうか。まさか実は半分魔人の力が流れていて、危機的状況になれば角や尻尾を生やし戦い出すとか、世界を破壊してしまう程の狂人的な力を内に秘めているだとか、実はある程度人の血を呑まなければ生きていけない体なのだとか、まぁ考えれば色々とある。
ドキドキしながら執事さんの言葉を待っていると、なにも答えることはなく、ただ曖昧に笑うだけだった。沈黙の笑顔といえばいいのか、なんというか。
なんなの、その反応。やっぱり教えてくれないってこと?
「私の口からは、控えさせていただきますね」
「え。やっぱり執事さんもダメなのかぁ……。うーん、じゃあ一つだけ教えてほしいんだけど、そのヴァーミリオンの力は執事さんにとっても、恐ろしいと感じるものなの?」
皆が皆、恐ろしいと感じるのだろうか。そこが不思議だった。
だけど執事さんは首を横に振ってみせた。
「恐ろしいだなんて、とんでもない。ヴァーミリオン様のお力は、我々を守り抜く熱き炎そのものです。あの方がいなければ、この土地はとっくに魔物に滅ぼされています」
――――炎。
その時俺の脳裏に過ぎったのは、馬車から見た烏の残骸だった。
丸焦げになり、地面から突き出た突起に串刺しの状態にされていた、あの光景だ。
ヴァーミリオンが、炎で燃やした……? でもどこからあの魔物を一瞬で焼き尽くす炎を出したんだ? まさか口から炎を吐き出すわけでもあるまいし。目から炎だなんてそれこそありえないだろうし。
となると、考えられるのはやっぱり……。
答えがどこかに辿り着きそうになった時、執事さんがそれを遮るように頭の後ろで大きく手を叩いた。
「……っ」
瞬間、答えが音と一緒に拡散していく。
も、もう少しで閃きそうだったのにー! なんでそこで手を叩くかなぁ!
散った答えを頭の中でかき集めようにも、なかなか上手くは拾えない。せっかくの俺の閃きが……! ない頭で考えた俺の想像が……!
「今は食事の時間ですよ、ウェイン様。あまり深くは考えないように。美味しいものは冷めないうちに、です」
「……はい」
「いずれ、必ず知ることです。初めから知っていては、ヴァーミリオン様の心を本当の意味で察することはできません。貴方はまだここに来たばかりなのですから、まずは探るより、屋敷の生活に慣れることです」
気になると知りたくなって仕方ない性分で、俺は誤魔化すよう苦笑いを浮かべるしかない。
この様子では恐らく他の人に聞いても同じ結果にしかならない気がする。
これ以上嗅ぐっては変に使用人達の噂の的にもなりかねないので、その力を目にする日まではお預けということになるだろう。野暮なことだし、さすがに俺もそこまでは踏み込めない。
「シアンが楽しみにしていましたよ。明日からすでに全力でいくと言っていましたから。ウェイン様に相当期待を寄せているようですね」
「へっ?」
「これからのウェイン様の日程は、全てシアンが決めるんですよ。朝から晩までなにをするか、どんなことをするか、時間表を作ると張り切っていましたから」
へ、へー……。騎士候補として、シアンさんが俺の面倒を見てくれるのか。
まぁ全然知らない人よりは、少しでも見知った顔の人が相手にしてくれた方が俺としても若干ではあるがやりやすいかもしれないし、よかったといえばよかったのかもしれない。
剣術はもちろんのこと、やっぱりある程度は勉強もしなきゃいけないんだろうか。そういえば俺、この世界の文字について全く知識がないから、書くことはおろか読むことさえできないんだけど。
文字はなんとかなるかもしれないけど、まさか数学はないよな? 計算とか文章問題とか、そんなのヴァーミリオンの専属騎士には必要ないと思うんだけど……どうなんでしょう。
まだ俺はここに来たばかりだし、難しいことはしないと思うんだけどなぁ。
朝から剣の素振りかなぁ、と考えながらスープを飲んでいる小さな背中を、執事さんがとても優しい目で見つめていたことに俺は気づくことができなかった。
そしてそれがどんなことを意味するのかも、俺は知る由もなかった。
ご飯を食べた後はすぐに部屋に戻り、備え付けの洗面所で歯を磨き、想像以上に体力を消費していたのか、疲労しきっていた俺はすぐに布団に入り、夢の中へと沈んでいった。
ちなみに服は、部屋に戻ったらベッドの上に白くて薄いヒラヒラした素材のワンピースのような服と、同じく薄地の白いズボンが置かれていたので、それを着て寝ています。
すーすーしてて落ち着かない服だし、女の子が着るようなパジャマに似ているなー、と頭の片隅で思いつつも、でもあまり意識しないようにした。
気にしたら負けだ。慣れだ、慣れ。郷に入っては郷に従えだ。
やっぱりふかふかの布団は最高だぜ、と思っていればあっという間に睡魔に襲われたし、明日の朝ごはんはなんだろな、と呑気なことを考えながら寝た俺は、自分の甘さと脳天気さに心底後悔することになった。
空が暗闇から徐々に白く染まってきた頃だろうか。たぶん朝の四時過ぎくらいだとは思うんだけど。
まだ夢の中で幸せに浸っていた時に、部屋のドアを思い切り強く開ける音に驚いた俺は、一気に現実に引き戻された。
なんだ、不法侵入者か!? と勢い良く体を起こし、周囲を確認する。
だけれど俺の前で仁王立ちしていたのは、昨日の夜に別れたはずのシアンさんだった。
まだ早朝だというのに、シアンさんは鎧をきっちり着こなし、髪はばっちり後ろに結い上げ、腰には剣までぶら下げている。すでに仕事へ向かう恰好だ。こんな朝早くからご苦労なことだ。
「……シアンさん? おはようございます……朝から仕事ですか?」
だけどシアンさんが答えることはない。
なにか様子がおかしい彼女に、俺はまだだるくて横になっていたい体を無理に起こしながら、ドアの方へと視線を移した。
「あの~……?」
「いつまで眠っているつもりだ、ウェインくん? 騎士たる者、主が目を覚ます前に行動するのが基本だろう。さぁ、起床の時間だ。起きて顔を洗って着替えて、君は朝食の時間まで素振りの練習だ」
ふぇ? とすっとぼける暇もなく、シアンさんに布団を剥がれてしまった。
温かい布団が! 俺の温もりが残る気持ちのいい布団が!
手を伸ばすもそれは届くことなく、むなしくも空振りとなってしまう。
掛け布団が奪われたことにより外気に晒されてしまった俺の体は体温を奪われ、肌寒くて思わずその場で丸まってしまった。
なにするんだよ、シアンさん! ひどいよ、シアンさん! こんな小さな子供になにするんだよぅ!
「おはよう、ウェインくん。さぁ、着替えようか」
ムッとしてシアンさんを見れば、それ以上に怖い顔をした彼女と目が合って。
「……はい」
俺は寒いのか、シアンさんの顔が怖いからなのかわからないが、口答えする事なく……いや、言えるわけもなく、震えながら支度を始めたのだった。
着替えた俺が彼女に連れられてやってきたのは、中庭らしき場所だった。
屋敷の壁に囲まれるようにして、そこには噴水だったり、綺麗に色とりどりの花が咲く花壇が置いてあったり、中庭でのティータイム用かテーブルや椅子まで設置されていたりで、これまた貴族の屋敷らしい作りとなっていた。
まだ若干眠気に襲われている俺だったが、シアンさんに剣の鞘で頭を叩かれ、嫌々ながら目を覚ます。
「……あの、シアンさん。素振りって」
そう聞こうとして彼女を見やれば、さらになにか遠くからギャーギャーと騒ぐ声が聞こえる。
朝から騒々しくて一体なんなんだとげんなりすれば、シアンさんはにんまりと人相の悪い笑みを浮かべ、声のする方を向いて一人満足したように頷いている。
なんとなくだけど、これにはもう嫌な予感しかしない。
「じい! 貴様……俺が誰かわかってやっているのか! こんなことをして、ただで済むと思うなよ!」
「朝からお元気でなによりです、ヴァーミリオン様。いつも私を無視する貴方がこんなにもたくさんのお言葉を返してくれるだなんて、じいは感激しております。ありがとうございます」




