隠れていても死んじゃうんじゃないか……?
「まるで映画、いや……ゲームの中の世界だぜ、これは……」
人間より数倍サイズのある大きなモンスターを相手に、はたして俺達はどう戦えばいいのだろうか。その圧倒的な大きさの違いに、俺はただ呆然と奴を見上げることしかできない。
バッサバッサと大きな翼を広げれば、その風圧で馬車まで大きく横に揺さぶられる。風で揺れる草原が海原のようだなんて表現してみたりもしたが、もしやあれはこいつが近づいてきた時の影響だったりするのだろうか。
烏といえばよくゴミを漁っていたり、道路で車に轢かれた動物の死体なんかを突っついてるイメージがあるが、この世界の烏もそうなんだろうか。向こうの奴等よりも凶暴で、生きてる人間の血肉まで突っついて食べてしまいたいとか、そんな物騒なことを考えていそうだ。
その鋭い嘴が、対峙しているシアンさんと御者の脳味噌を狙っているように見えて、俺はぶるりと体を震わせる。
ヒーローらしからぬ震えだと苛立つが、やはりそこはただの子供なのだ。俺の腕ではどうしたってあのモンスターを退治することはできない。
あの大きなボス的存在の烏が俺達の体を突いた後の残骸処理は、取り巻き達の仕事になるのだろうか。骨にくっつくようにして残った僅かな肉まで、全て胃袋に収められてしまいそうだ。
一瞬こちらを、シアンさんがちらりと目配せしたような気がする。気のせいかもしれないが「そこから絶対に動くなよ」と、釘を刺された気がした。
「……何があっても動きません。ていうか、動けません」
伝わる事はないだろうが、客車の中でぽそりと呟く。だってこんな大きなモンスター、生まれて初めて目にしたんですから。
剣道だって対人戦はほぼしたことないし、川での出来事は運が良かっただけだし、巨大モンスターを討伐したことがあるのはゲームの世界だけで、だ。
「本能的にわかっちゃうんだよな……。こいつには勝てない、こいつに見つかったら俺はここで死ぬって。だって俺、いま怖くて動けないもん。初めてだよ、こんなの」
恐怖で体が竦むなんて、比呂の時だって、今までだって感じたことはなかった。
以前戦うことのできたモンスターはこいつに比べたら小さかったし、俺にだってなんとかできるレベルの相手だと思うことができたから。偶然自分の視界に侵入してきた子供を捕まえただけのモンスターとこいつを一緒にしてはいけない。
この烏は違う。この烏は明確に俺達人間を喰うつもりで来ているから、雰囲気から何からまるで違う。だからここで俺が馬鹿みたいに飛び出していけば、ただ奴等の餌になりに行くようなものなんだ。シアンさん達に任せるべきだ。俺は黙ってここから戦況を窺っていよう。
「……頑張ってください、シアンさん」
戦力外でごめんなさい。
シアンさんは烏を見上げながら、掌に握る剣を地面に突き刺し、ただそこに佇む。
御者がなにか耳元で声をかけているようだが、当然ながらここからでは会話の内容はわからない。御者からの言葉にシアンさんは黙って頷いた。
すると烏が、大気を震わすような大きな声を、辺り一面に響かせる。
「――――っ!」
俺はその鳴き声に心臓を跳ね上がらせ、体を固めてしまう。
怖い。本当に、怖い。
「お、俺……ここに隠れていても死んじゃうんじゃないか……?」
恐怖を全身で感じ取り、思わず馬車の床に転がるようにして身を伏せる。
「ヒ、ヒーローに憧れていた俺が、モンスターを前にしてここまで震えることしかできないなんて」
本場のモンスターはゲームの中とは違い、簡単に倒せるようなものじゃないんだ、と俺は泣きたくなる。
むしろシアンさん達も無事でいれるのだろうか。屋敷に着く前に共倒れなんて、シャレにならない。
「怖いな……。十七年間生きてきた中で、今が一番怖いかもしれない……」
といってもここではまだ十年間しか生きていない体だけど。
モンスターに見つかりたくない一心で身を伏せた俺だが、だがどうしても外の様子が気になり、物音に耳を傾ける。
取り巻き達も鳴いているのか、ギャアギャアと騒ぐ声が聞こえる。
その中の数匹は俺の存在に気がついているようで、客車のすぐ側で声を上げていた。
やめろよ、こっちに来るなよ……。言っておくが、俺はフラグのために呟いているわけじゃないぞ。
そうこうしているうちに、その中の一匹が、客車の窓を突っついてきた。
ひぇぇ、と俺は小さく悲鳴を上げて両手で頭を隠すように覆う。怖くて動けず、身を縮こませて耐える。すると外から、微かにだが馬の荒い鼻息が聴こえてきた。
そういえばこれは馬車なんだから、御者席の方には馬もいるはずだ。馬だって縄に繋がれて外に放置されているわけなんだから、逃げたくても逃げることができず、恐怖で体を震わせているに違いない。
しかも人間と違って身を隠すことができないんだ、怖いのは俺だけじゃない。そう考えたら、今度は自分のことよりも馬の方が心配になってきた。大丈夫なのかな、と気にかけていると、馬車全体がガタガタと横に動き出す。
「ひぇっ……な、なんだ?」
あまりにも長く揺れるものだから、不安になって御者席側の窓からゆっくりと顔を覗かせていく。
すると馬車に繋がれている馬の頭上で、あの取り巻きの烏達が超低空飛行で好き勝手に飛び回っているではないか。
「あいつら、マジでこっちに来やがった……! フラグ立てるために呟いたわけじゃないってのにー……っ!」
馬は怯えているのか、烏が近づく度に体を横に揺らしたり、足をばたつかせているように見える。その振動が縄を伝い、客車にまで揺れを引き起こしているみたいだ。
「そりゃ嫌だよな……。もしかしたら自分の体をあの尖った嘴で突いてくるって考えたら、怖くて仕方ないよな……だって穴があいちまうもんな……」
どうにかしてあの烏達を馬から遠ざけてやりたい。シアンさん達はどうしているんだろう、あのでかい烏と戦っているんだろうか。
馬車から離れなければ、少しぐらい動いてもいいんじゃないか。せめて、そう、あいつらを追い払うぐらいは。
俺だってあんなものを見た後だから怖くて仕方ないのだが、でも、どうしても馬を助けてやりたい。
「馬が怪我したら、誰がこの馬車を引っ張ってくれるんだよ。頼りになるのはこいつしかいないんだぜ? なら、守ってやるしかないじゃないか。何がなんでも、守るしかないだろ……!」
馬が襲われていることにシアンさん達は気づいていないのだろう。どのみちこのままでは馬が暴れる可能性があるし、暴走して馬車が横転しても困る。
それにシアンさんも言っていたじゃないか。穴が開いた時の対処は俺に任せるって。なら、今がその絶好の機会なんじゃないだろうか。
幸い窓を突っついていた烏も馬の方へと移動している。
俺はゆっくりと、音が出ないよう少しずつ扉を開けていく。烏に見つからないよう、慎重に、そろりと隙間から体を覗かせ、ステップに足を置く。
烏達は馬に悪戯を仕掛けている事に優先しているのか、まだ俺の存在には気がついていない。
地球の烏より周囲を警戒していないんじゃないだろうか。向こうだったらこの時点で気づかれて、すぐに飛び去り、逃げられているところだ。
俺は馬車から上手く抜け出すと、御者席へと向かう。
シアンさんはここに剣があると言っていた。忍び足で移動していき、覗き込んでみる。するとそこには確かに、一本の剣が椅子の脇に立て掛けられていた。でもそれは子供が持てるような大きさの物ではなかった。
わぁ……、やっぱり大人が持つ剣は大きいな。しかもだいぶ重そうだぞ、これ。持ち上げた瞬間バランスを崩し、そのまま倒れていってしまいそうだ。
俺はその剣の柄を握り、考える。
これを持って烏に立ち向かったところで、すぐ逃げられて終わりじゃないか、と。剣で一羽一羽を斬り落としていたらキリがないし、俺の体力が持たない。いや、持たないのは確実だし、まずその前に腕力が追いついていかないだろう。どう見ても簡単に振り回せる代物じゃない。
剣を見つめ、唸る。では、どうするか。どうするべきか。
すると、剣が置かれていた先にもう一つ、なにか使えそうな物が立て掛けられていることに気がついた。それを見つけた俺は目を大きくする。
これだ! と剣をそっと置いて、その武器と矢を数本だけ握りしめ、そそくさとまた客車に戻っていく。こっちの腕もそこまで自信があるわけじゃないけど、烏相手なら剣よりはまだ使えるかもしれない。
客車の扉を少しだけ開けたままにして、俺は手の内を整える。
狭い場所なので、いつも通りの立射は出来そうにない。体勢を崩しながらも、烏という名の的を射るために神経を研ぎ澄まし、深く呼吸する。
失敗しても、成功しても、どのみち俺は扉を閉めて床に伏せ、隠れるだけだ。ヘマしたって、客車という名の防護壁が俺を守ってくれる。
怖いけど、ここは馬を助けるためなんだ。狙いを外しても俺は死にはしない、体の力を抜いて気楽にいこう。ぶっつけ本番で最初からパーフェクトなんて無理なんだと、予防線を張っておく。
「……よし!」
俺はのそりと上半身だけを上手く扉から覗かせ、的を狙って弓を構える。
そう、先程御者席から見つけてきたのはこの弓だったのだ。烏を追い払うには、こっちの方が効率が良さそうだろう? 剣を振り回すより、圧倒的に打ち落とせると思うんだ。
だが弓を構えるにも、いつもと勝手が違うので上手く指に力が入らない。
それに微かにだが、どこか遠くから地響きに似た音が聞こえてくるような気がする。かたかたと振動が邪魔をし、俺の指先を狂わせようとする。
邪魔しないで欲しいのだが、自然現象だけはどうにも止める事ができないので誰にも文句は言えない。たぶんこの地響きも、近くにいる大型烏の仕業だろう。羽根を広げたりなんだりして、地面を揺らしているんだ。
俺はとにかく烏に当たるよう狙いを定め、一発の矢をその群れに向かい、強く放つ。馬に当たらないよう、そこは上手く考えて、行動を起こす。
これで俺の手元に残る矢は残り三本しかない。どうにかして、少しでも烏を追い払い、馬を助けなければいけない。
放った矢はその内の一匹の羽根だけを貫いた。
やっぱり難しかったと項垂れてしまうのは仕方の無いことだ。一応狙っていたのはその胴体だったからなぁ。まぁ、お決まりといえばお決まりだけど。
動かない的なら確実に狙える自信はあるけれど、動く的は狙ったことがない分、ずれる。ぶっつけ本番で成功できる程のスター性は持っていないということだな、俺は! 仕方ないさ、こればっかりは!
すると矢に気づいた烏達が、今度は一斉に俺の方を振り向く。
この様子からするに、おそらく馬から気を逸らすことには成功したんじゃないだろうか。
小さな悲鳴を上げながら、俺は扉を思いきり閉め、また頭を両手で押さえながら床に伏せる。
四方八方から窓、屋根を啄く音が狭い室内に響く。
こんこん、というキツツキのような可愛らしい軽い音などではなく、それはもう鈍器で殴りつけるような音に近いものだった。こんな嘴で突っつかれたら確実に体のどこかに風穴が開いてしまうことだろう。むしろ心臓か脳みそを一撃でぐしゃりとされてしまいそうだ。
「ひぇ……っ。ていうかこれ、客車がもたないんじゃないか!?」
このまま続けられたら天井が落下してくるんじゃないだろうか。
さっきまでこんな生き物が頭の上を飛んでいたことを考えると、とにかく馬が不憫だ。よく暴走せずに耐えていたものだと思う。だって、どう見ても室内にいる俺の方が取り乱している。
音に耐えていると、またぐらぐらと馬車が揺れ出していることに気づいてしまった。まさか奴等、性懲りも無くもう一度馬の方に移動していったのか?
窓から御者席側を覗いてみると、馬の周囲にはなんの異常も見て取ることはできなかった。馬も暴れてはいないようだった。あれ、揺れているのはこの客車だけ? え、だとしたらこの揺れは何なんだ?
横揺れは更に大きくなり、俺は立っているのも困難になり、床を転げ回る。
地震? 俺の下でだけ、地震が起きてる!? そんなことってあるか!? あるわけないだろう!
客車の中で大きな地震が起こった場合はどう対応したらいいんだ。学校ではこんな狭い場所での対処法なんて、教えてくれなかったぞ。電車やバスならまだしも、客車って。
揺れは段々と横から縦に変わっていき、地響きは更に大きくなっていく。俺は恐怖で頭がいっぱいで、もう泣き出したくなっていた。
地面の下をなにか動いているような、押し出そうとしているような、そんな感覚がする。まさか地面が割れようとしてるんじゃないよなぁ、これ。
「さっきから何なんだ……。あのでかいモンスターがキレてバタバタと暴れてるんじゃないだろうな」
怖くて怖くて、ひやりとした汗が背中を流れ始めた時。
大地を引き裂くような音と共に、恐らくあのモンスターのものと思われる大きな叫びが、辺り一体に響き渡った。
鼓膜が痛いぐらいに揺れ、俺は思わず声を上げて耐える。
向こうの世界では聞いたことのないような轟音と、ぴりぴりとした振動に、どこかでとてつもなく破壊力のある爆弾が爆発したのではないかと変に錯覚してしまう。
俺は生きて帰れるんだろうか。巻き込まれて、今度こそ死んじゃうんじゃないだろうか。
しばらく動けずにいると、客車の扉が勝手に開いていったのがわかった。
シアンさんが帰ってきたのかと思い、ぱっと顔を上げると、俺を見下ろす真紅の瞳と視線が重なった。
「……?」
……誰だ?
そこに立っていたのはシアンさんではなく、全く見覚えのない一人の少年だった。
髪の毛は真っ赤に燃え盛る炎のように紅く、瞳も炎をそのまま移したような神秘的な色をしていて。その不思議な色に、不躾にも初対面の相手に対し、俺は自然と魅入ってしまっていた。
なんて綺麗な赤なんだろう。
儚げに灯る炎は、強く吹けば今にも消えてしまいそうで、誰かが支えていなければ危ういとさえ感じてしまう程揺れていた。
いや、その前に先程のモンスターはどうなってしまったんだろう。あの音は? というか、なんでこの子が客車に入ってくるんだ? シアンさんはどこに行ってしまったんだろう。頭にはハテナが増えていくばかりだ。
「邪魔だ」
だがその一言で、俺の抱こうとしていた幻想が砕かれていってしまった。
赤い少年は俺を見下すように一瞥すると、そのままふんぞり返った様子で椅子に腰を落ち着かせた。
足を組み、腕を組み、気取った座り方はあまり態度がよろしくない。
俺と同じぐらいの小さな子のくせに、なんだ、この偉そうな仕草は。
俺が唖然としていると、今度は扉からシアンさんが顔を覗かせた。
床に蹲る俺と目が合い、たまらず苦笑いを浮かべる。俺も頬を引き攣りながら、とりあえず気まずそうに笑みを浮かべた。
「ヴァーミリオン様、お手を煩わせてしまい、申し訳ございませんでした。ですが、私と御者、それにこちらの少年も助かりました。ありがとうございます」
ん……? ヴァーミリオン、だと?
どこかで聞いたことのあるような名前に、俺は首を傾げる。
「構わない。それよりも早く屋敷に戻れ。臭くて敵わん」
臭い? 臭いってなに? 外が? え、もしかしなくとも俺のこと?
少年を見上げれば、まるでゴミを見つめるような蔑んだ紅い瞳とぶつかって。
そこで思い出す。ろくに風呂も入れずに過ごしていた自分の体のことを。
俺はひくりと更に頬が引き攣って、シアンさんはあちゃー、とばかりに額を押さえている。
あぁ、ヴァーミリオン。思い出した。
さっきシアンさんと話した、俺の主になるかもしれない子の名前だ。なるほど、確かにこれは他の子が無償を蹴ってまで逃げ出すわけだ、うん。生意気にも程がある。態度がでかいにも程がある。なんだ、その言葉遣いは。さぁ、君は一体何様のつもりなんでしょう。
俺の中でこの子は、短時間でもれなくクソガキ認定をされてしまった。
「ウェイン君、この方が先程話したあの――――」
俺は皆まで言うなと、手で制する。
シアンさんも察したようで、眉を八の字に下げ、頭を低くした。
少年はふんぞり返り座ったままで、特に自分の発言など気にしていないようだった。
なんてふてぶてしい態度なんだろう。これが主となるべき子供の態度なのだろうか。自分の発言が他者をどれだけ不愉快にさせているか、きっとわかっていないんだろう。
これが子供の姿だなんて信じられない。この子はまだ幼いのに、こんなに態度がでかいのか。どんな教育を受けたらこう育つのだろう。将来的に不安しかないのだが、このままでいいんだろうか、これ。
先程の轟音の事など、頭から吹き飛んでしまった。
「……初めまして、ウェインです」
「早く出せ。屋敷に帰る」
「これからお世話になります、よろしくお願いします」
「さっさとしろ。出せ」
「あの、ヴァーミリオン様。彼がこれから屋敷で共に過ごすことになる、騎士候補のウェイ――――」
「シアン、いい加減にしろよ。俺は今気分が悪い。早くしろ」
こちらの発言を一切聞こうとしないその言い方に、さすがに俺もむっとする。




