体に緊張が駆け抜ける
無償を蹴ってまでヴァーミリオンという子から逃げ出したいという時点で、相当やばいのではないだろうか。シアンさんの疲れ具合といい、俺の手に負える範囲を超えている気がしてならない。
ひねくれた子の相手など経験がない俺にとっては、未知である。近所の子は大体素直だったから。おとなしくても、騒がしくても、良い子ばかりだった。
「あぁ、そう怯えないでくれ。根は優しい子なんだが、少しばかり他人と違うところがあってな。本来ならば持つことのない力を与えられてしまったせいで、彼は周囲の人間に距離を置かれる事となったんだ」
「……持つことのない力?」
「そう、普通の人間にはない力だ。そのせいでヴァーミリオン様は、独りになってしまった。その力というのが……」
会話の途中、御者席から客車との境目にある窓を叩く音が聞こえた。シアンさんはその音を合図としたように、窓の外に視線を移す。陽が大分傾いてきたようで、空は段々と紅く染まりかけてきていた。
シアンさんは中腰で立ち上がり、窓から空を注意深く見上げる。話の続きを聞きたかったが、どうやらそこで途切れてしまったようだ。
「陽が沈む前に屋敷には着きそうだな。だがその前に、やることができた」
「え?」
「ウェイン君、君はここを動かないように。いいな?」
また話が見えないんですが……と内心呟いたところで、俺はシアンさんの真剣な眼差しを前に口を閉ざした。彼女の纏っている空気が柔らかさから一転、一気に冷めたように見えたからだ。すっと細められたその瞳と表情から察するに、憶測ではあるが外でなにかあったに違いない。
体に緊張が駆け抜ける。
多分、今ここで空気を読めずに俺もついていく等と素っ頓狂なことを言えば、抱かれている希望が失望へと変わってしまうのではないかと考える。俺のような小さな子供が興味本位でついて行けば、役立たずの足でまといになるのは確実だ。
自分の腕に自信があるわけでもないし、体力なんてこの姿じゃ劣等感しか持ち合わせていない。何があったのか気にはなるが、ここは大人しくしているのが今の自分のベストな行動だろう。
俺はシアンさんに向かい、大きく頷いた。
「もしも穴が空いてしまった時の対処は、ウェイン君に任せる。簡単な自己防衛ならば君にも出来るだろう。大人が扱う物ではあるが、御者席の側に剣が置いてある」
万が一なにかあった時はその武器を使うようにとの言葉を残し、動きを止めた馬車からシアンさんはすぐに降りると、どこかへ向かって行ってしまった。
一人客車に残された俺は、じっと窓の外を見つめる。外で何が起こっているかわからない分、胸を占める不安は大きい。
何事もなく、無事目的の屋敷へ辿り着く事が出来ればいいが。そわそわと視線を移せば、どうやら御者もシアンさんと一緒にどこかへ向かってしまったらしい。
ということは、今ここにいるのは俺だけなのか。
外で一体何が起きているのだろうと、もう一度窓の外に目を向けてみる。だがここからでは状況がさっぱりわからない。
馬車から見えるのは、くるぶしの辺りまで生えている柔らかそうな草が、野原いっぱいに広がっている光景だけだ。紅く染まる空も相俟って、どう見てものどかな風景が広がっているようにしか見えない。たまに吹く風が草を揺らし、まるで海原にいるような錯覚をさせる。
そこまで心配することはないんじゃないか、と気を緩みかけた時、気づくとそこには大きな影が差していた。
「……曇ってきたのか?」
にわか雨でも降りそうな天気に、ふと、空を見上げた俺は絶句する。
窓から見た空の一部が墨のように真っ暗になり、闇に染まっていたからだ。
天気が悪くなってきていて、大雨が降るかもしれないからシアンさん達が焦って外の様子を見に行ったんじゃないかと呑気に考えようとしていたが、見当はずれもいいところだった。
空が曇っているのは一部だけ。それも恐らく、この馬車の上だけだ。
俺は慌てて反対側の窓に移り、外を見つめる。するとこちら側には、シアンさんと御者の二人が揃って空を見上げていた。シアンさんの手には剣、御者の手には槍が握られている。
俺も同じように見上げてみると、そこにはとてつもなく大きな鳥が優雅に空を舞っていた。烏に似た、黒くて巨大な鳥だ。四階建てビルぐらいの大きさはあるのではないだろうか。
その鳥のまわりには、日本でもよく見かける普通のサイズの烏が数羽、取り巻きのようにして背後で飛んでいた。




