弟、虚空の記録の歪みと修整に疑問を持つ
虚空の記録を書き換える。
その言葉を聞いて、ユウトは目を丸くした。
虚空の記録はこの世界の全てが記されたデータベースだ。その所在は分からず、アクセスするにも賢者の石が必要だという話だった、けれど。
「……あの賢者の石の欠片で、どこにあるかも分からない虚空の記録を書き換える事なんてできるんですか?」
「本来なら無理だが、お前の助力があればほんの少しだけ記録の鍵をこじ開けることができる。お前は大精霊と魔王の権能を継いでいるからな」
「でも、そんなわずかな書き換えで何を……?」
以前ジードに虚空の記録に関する話を聞いたことがあるが、記述を書き換えたところで世界がその歪みを修正しようとして、結局歴史は同じような状況に帰結すると言っていたはずだ。
だとすれば、初代王の言う書き換えが意味を成すとも思えないのだが。
しかしそう考えたユウトに、男は予想外の言葉を返した。
「歴史を修正するのだ」
「……えっ?」
「魔王が言うには、お前たちが生きるこの世界は、すでに虚空の記録の改ざんによって歪められているのだそうだ」
「この世界が……?」
「まあ、今を生きているお前たちがその事実を実感するのは不可能だろうがな。……魔王は、それのわずかな修正を私に依頼したのだ」
この世界はすでに歪められている。そう言われて、はたと思い至ったのは賢者の石がそもそも復讐霊の手によって砕かれていたことだ。
当然その前段階として、賢者の石は復讐霊の手元にあったということ。
石自体を本人が使えなくても、どうにか人間をそそのかしてその時に虚空の記録にアクセスすることは十分可能だったに違いない。そして改ざん後に石を破壊して、人間には手が出せないようにしたのだとすれば、話は通る。
つまり初代王の言葉は十分信憑性のあるもので、魔王である父はそこに小さな修正を加えようとしていたということなのだろう。
けれど、ここで新たな疑問が湧く。賢者の石が砕かれずにあったのは、おそらく最終戦争よりも昔のこと。ということは、それほどの昔の歪みが、未だに残っているということだ。
一体復讐霊はどれほど大きな改ざんをしたというのだろう。
「……未だに解消されないような改ざんを、わずかに修正したところで何か変わるんですか?」
「変わるとも。小さな蝶の羽ばたきが、時を経て異国で嵐を巻き起こすように。もちろん世界の均衡を保つための修正は、主に虚空の記録自体が行うものなのだが」
そこまで言って、初代王はレオとネイに目を向けた。いや、二人にというよりは、ネイのベルトに押し込められた呪いの剣にか。
「……だが偶然か必然か、魔王とあの剣が出会った。そして世界の中枢……虚空の記録に一番近い、世界樹のシステムによって発生したこのゲートに潜ることができた。この状況を、使わない手はないだろう?」
「この状況って……こんな状況でも、ですか?」
レオとクリスが憑依され、その二人の魂が呪いの剣にある賢者の石の欠片に囚われている。
ネイは今のところ善戦しているが、時間が経てばどうなるか分からない。こちらにはエルドワもいるけれど、向こうにもキイとクウがいる。
決していい状況とは思えない。
しかし彼は問題ないと笑った。
「済まないが、我々の想定通りだ。『全ては上手く進んでいる』と言ったら、お前の兄は憤慨するだろうが」
そういえばさっきその言葉を聞いたレオは、胡散臭いものを見るような顔をしていた。彼も兄がそこに引っ掛かりを感じていたことに気付いていたのだろう。
「まあ、虚空の記録に関係するのはこのフロアだけではない。お前たちはここに来るまで、全員が虚空の記録の片鱗に触れてきた。ただ、そちらの方は虚空の記録自体の修正によるものだ。書き換えられたのではなく、並行する数多の世界からこの歴史が選ばれたにすぎない」
「……でもこれからあなたがしようとしているのは、修正と言いながらも書き換えなんですよね?」
「まあ、そうだな。……魔王は一つだけ書き換えを望んでいる」
「一つだけ?」
「十八年前、お前が犠牲を払った転移のことだ」
十八年前の転移。それはつまり、呪いの剣の力を利用してこの卵の殻からアレオンとライネルを王宮に送り届けた、あの日の転移のことだ。
ユウトはそれに眉を顰めた。
本来の過去は昨晩見た夢とは違う、ひどく重苦しいものだったからだ。そこに手を加えるというのなら、それは蝶の羽ばたきとしてはあまりに大きな一陣。
「……あの日犠牲を払ったのは僕だけじゃないですけど」
「その辺りの詳しいことは私も知らぬ。ただ、お前たちはすでに虚空の記録によって修正されたその日を通ってきただろう?」
「えっ? あ、あの夢ってそのために虚空の記録が用意したもの……? でも、だったら書き換えは必要ないんじゃ……」
「いや、必要なのはそこではない。……あの日の転移、お前だけ別のところに飛ばされたはずだ。虚空の記録はそこまでの修正をしていない。……お前個人に対し、虚空の記録はほぼ手を出さないからだ」
「え……それって、どういう……?」
「これ以上の細かい話は、私がすることではない。とにかく、魔王は当時のお前の転移先を修正したいそうだ。お前を護る使命を帯びた、あの神の依り代の近くに」
つまるところ、あの日王宮に転移したアレオンたちと同じところにユウトの飛ばすよう修正をしたいということか。
……本来の過去ではあの後は魔力放出による昏睡状態で、どういう経緯で魔研に囚われたのかは覚えていないのだけれど。
「……わずかと言っても、その書き換えをすると過去がだいぶ変わってしまうのでは?」
「おそらくはな。お前たちの人格形成にも多少影響があるかもしれぬ。だが気にしなくても、この虚空の記録とリンクしたゲートを出た時点で、修正した事案は世界とお前たちの中で事実となり、修正前との違和感などなくなるはずだ。修正前の記憶は残らぬからな」
もしあの時、アレオンと同じ場所に転移していたらどうなったのだろう。
……実を言えば、あの日ユウトだけ別の座標に飛んだのは自分の意思だった。卵に関するアレオンの記憶と、自分自身の記憶を封じたのも当時のユウトだ。本来の過去の中では、アレオンが魔王と己によって雁字搦めにされていたから。
卵の中にいる間、アレオンは弱った身体でありながらユウトをとても大事に護ってくれた。そんな彼をこちらの都合で縛り付け、苦しめたくなかったのだ。
(……修正された後の状況でレオ兄さんと同じ場所に飛べば、つじつまを合わせるための多少の記憶の調整はあれど、きっと僕を護ってくれる。魔研に囚われることもなかったかもしれない。でも……)
書き換え自体はわずかでも、生まれた歪みに虚空の記録が作用し、必ず大きな揺り戻しが来る。それがプラスに働くとは思えず、側にいればアレオンが捲き込まれるのは必定。
ユウトはその書き換えに助力する気持ちにはなれなかった。
(何より、あの魔研での出来事が全てなかったことになったら、僕とレオ兄さんの間に兄弟という絆は生まれなくなる。それにあの時感じていたのは痛みや苦しみだけじゃない。喜びや温もりも無くすことになるんだ)
辛くもあったがレオと過ごした大切な日々は、確実にユウトの心と思いを強くしてくれた。それはきっと兄も同じだと信じている。
互いに命を賭しても護りたいと思い、互いのために生きていた。
この過去があったからこその、今の兄弟なのだ。
おそらく魔王は、虚空の記録を書き換えることで予定通りアレオンに息子を護らせ、従属させるという過去を作り出すつもりだったのだろうけれど。
そんな過去、自分は欲しくない。ユウトはそれを素直に口にした。
「……ごめんなさい、虚空の記録の書き換えは手伝えません。その過去は僕にとって必要なものだから」
「ほう。……それがもしも、今後の歴史を左右する分岐点だったとしてもか?」
「歴史を左右する分岐点……?」
……それは、これが自分たちの未来に関わる重要な選択だということだろうか。
『そうだ、お前は死ぬ』
ユウトの脳裏に不意に、己の死を予言したグルムの声が響いた気がした。




