【一方その頃】ネイとウィル
ウィルは魔妖花の実を食べ終わると、立ち上がって一度術式方陣を振り返った。
そして纏っていた黒いローブを脱ぎ、さっきまで自分がいた辺りにそれを落とす。同じように靴もそこに放った。
どうやら自分がこの場で術式に呑まれて消えたように偽装工作しているようだ。
そうしてジアレイスから与えられたらしい装備一式をそこに放置して、ウィルはシャツとスラックスだけという出で立ちになる。
そこでようやく、彼はネイに向き直った。
「こちらにはあの方の指示で?」
あの方というのはレオのことだ。ウィルはネイがレオの直属であることを知っている。
レオがネイを代理人ノシロとして使った際に会っているのだから、まあ当然か。
「もちろんあの人の命令だよ。今回は君と会って話を聞くのが目的だったんだけど……一応訊くけど、ここでこんな話してて平気?」
「彼らに聞かれることを心配しているんですか? でしたら問題ありません。あの魔手に囚われると、五感がすべて麻痺してしまって何も見えませんし聞こえませんから。さっきまでの私もそうでした」
そう言いながらも、ウィルは逡巡する。
「……それでも、彼らの近くで話をするのは確かに気が進みませんね。場所を変えましょう」
「あ、待って。裸足だと足跡が目立つから、俺の靴貸してあげる」
そのまま進もうとするウィルを呼び止め、ネイは隠密用の靴を差し出した。足跡の付きにくい特製のものだ。
ジアレイスたちに足跡を判別する能力があるとは思えないが、用心するに越したことはない。
「ありがとうございます。……では、こちらに」
素直に借りた靴を履いたウィルは、ネイを伴って細い通路を入り口に向かって戻り始めた。
少しだけ、淀んだ空気の息苦しさから解放された気がする。
ここまで来れば大丈夫だろう。
ふう、と小さく息を吐いたネイはその道すがら、疑問に思っていた事をウィルに訊ねた。
「……ウィルくんさあ、方陣の中であんまり魔手に絡まれてなかったんだけど、何で? ジアレイスたちはがっつり覆われてたのに」
おかげでどうにか彼を助け出すことができたわけだが、なぜウィルに対してだけ魔手の攻め手が弱かったのかが分からない。
その答えを求めたネイに、ウィルは肩越しに振り向いた。
「そうだったんですか? 魔手に囚われてから程なくして身体も精神も麻痺してしまったので、あまり自覚はないのですが……。可能性があるとすればこれのせいかと」
言いつつ、シャツの胸ポケットから何かを取り出す。
それは、ウィルの自宅から唯一消えていたあのアイテムだった。
「バンマデンノツカイの素材か……!」
「素材だと加工したものよりも効果は薄いですが、それでも瘴気無効が付いてます。これのおかげで私は多少魔手に敬遠されたのかもしれません」
「なるほどね~。君が返術に掛かっちゃってる時はどうしようかと思ったけど、それがあったから何とか助けられたのね」
これを肌身離さず持っていたのなら、やはり瘴気中毒を警戒して対策をしていたということだ。
つまり彼は魔研の人間に仕向けられたのではなく、自らの意思でここに来たということ。
その理由が気になるが、これは歩きながら訊くような話ではない。
ネイはその話をひとまず横に置き、また別の疑問を投げ掛けた。
「ところでウィルくん、さっきの方陣の中にローブとか色々置いて来ちゃったけど、ここから消えるつもり?」
「ええ。ここにいる間に、彼らの持つめぼしい書物はあらかた読んで頭に入れましたので、もう用はありません。まあ、ここに持ち込まれたものだけですが、それでも十分。あとはこれ以上いると、降魔術式で恐ろしい未来を引き寄せる片棒を担いでしまいそうですし、そろそろ消える頃合いだと思っていました」
話を聞くだけと思っていたが、どうやら今の時点でもう彼の目的は果たされているらしい。ならばウィルをここから逃がすべきだが。
「消える頃合いだと思ってたって……もしかして俺が来なくても逃げられた感じ?」
「いいえ。ただ、まもなく建国祭ですし、レオさんが私の手に入れた情報欲しさに近々救出に来てくれるだろうと踏んでいましたので」
「うわっ、俺たちまんまとウィルくんの思惑に乗った? 元々は俺たちにさらわれたテイで消える予定だったのか」
「はい。まあ、この方法だと取り戻しに来られるリスクがありますが。……でも今回は、思いがけず奪還のリスクのない理由が付けられそうです」
その理由が、『降魔術式の返術によって呑まれて消えた』ということか。
しかし他の三人が無事で、ウィルだけが消えるなんておかしな話だと思うのだけれど。
そう突っ込んだネイに、ウィルは一つ頷いた。
「そこで彼らが私に掛けようとしていた『瘴気中毒』がキーになります。……聞いた話では、ジアレイスたちは以前一度、降魔術式の返術を食らったことがあるとか」
「ああ、あったね。確か、魔法学校の講師がユウトくんを助けるために強制返術をしたことがあったはず」
「その時に、彼らの中では『返術により発生した魔手からは絶対に逃げられない』という共通認識ができている。そして今回は二度目。私たちは、互いの目の前で魔手に呑まれました。彼らはその時点で、私が逃げられるわけがないことを確認しているわけです」
逃げられるわけがないのだから、本来なら魔手が消えれば四人ともその場にいるはず。
なのに一人だけ、装備を残して消えるわけだ。
そこに、『瘴気中毒』が掛かってくるらしい。
「ジアレイスの持つ書物で読んだのですが、この瘴気は降魔術式との親和性が高いらしいのです。逆に、人間が降魔術式に完全に呑まれないのは、瘴気がないせいではないかと言われています」
「……あ! でもウィルくんが瘴気中毒で体内に瘴気を蓄えていたら、降魔術式との親和性が発揮されるってことか……!」
「ジアレイスもその書物を読んでいますので、同じ結論に達するはずです。あとはこのまま、ネイさんが侵入した形跡も残さずに去ればいい」
確かに、それならジアレイスたちはウィルを追いようもない。
そもそもウィルを瘴気中毒にした(と思い込んでいる)奴らの自業自得というもの。
となると、ここでネイが考えるべきは、どれだけ侵入した形跡を消せるかということだ。
「……ウィルくん、納骨堂に繋がる出入り口を開ける術式って動かせる?」
「いえ。私は自由な行動は許されていませんでしたから」
「だよね。じゃあこれ以上進む意味もないか。違和感を抱かせないためには何かを持ち出すわけにもいかないし……。ウィルくん、話はあとで聞くから、もうここで脱出しない?」
この中を歩き回れば、その分何かが起こるリスクが高まる。
だったらもうこの拠点で話を聞くよりも、脱出してしまった方がいいだろう。ネイはそう判断する。
しかしウィルはその提案を聞いて立ち止まり、横に首を振った。
「……その前に、ネイさんにお願いが」
「お願い? 俺に?」
この状況で、一体何の頼みがあるというのか。
ネイが首を傾げると、ウィルは身体ごとこちらを振り向いた。
「さっき、ここにある書物はあらかた読んだと言いましたが、実はまだ読めていないものがありまして」
「うん?」
「それが、ジアレイスの部屋の鍵付きの書棚に入っている書物なのです」
あ、なるほど。察し。頼みとはそういうことか。
「俺にそれを開けろってことね。よし、任せて」
ジアレイスの隠している書物。
それはネイとしても、レオのために是非持ち帰って欲しい情報だ。
二つ返事で了解する。
「それから、書物を読み切るためにこの一晩、時間が欲しいのですがよろしいですか」
「いいよ、ジアレイスたちが解放されるまでまだ時間あるし。俺もその間にレオさんに連絡とって下準備するから。……余計なものに触んないようにだけ、気を付けて」
「分かりました」
ウィルの帰還は、我々にとって大きな状況の変化を生むだろう。
今まで中々掴めなかった魔研の目的や策謀が明らかになるはず。
そのためには、最後まで気を抜かずに行かなくては。




