兄弟、深海を移動する
暗い。
66階のフロアに降り立ったレオたちは、真っ暗な闇の中に出た。
ユウトとエルドワが腕の中にいるが、その姿すら見えない。
間違いなく深海だ。
酸素キャンディを口にしてから来て良かった。ここに来てから食べようと思っても、かなり慌ててしまいそうだ。万が一手元から取り落としたら、ポーチから次のアメを出すにもだいぶ手間取ったことだろう。
さて、とりあえず。
まずは明かりが欲しい。
「ブライトリング!」
そう思っていると、腕の中のユウトが身動いで明かりの魔法を唱えた。
途端に蛍光灯のような大きな光の輪っかが浮いて、周囲を照らす。
ようやく開けた視界に、レオは少しだけ緊張を解いた。
周囲には目立った敵の姿も気配もない。いきなり襲われるようなことはないだろう。
抱えていたユウトたちを降ろしたレオは軽く腕を振って、水が動きを阻害しないことを確認した。
そして弟は物珍しそうに周りを見回す。
「ここが深海かあ……ホントに真っ暗だね」
「地上からの光が届かない場所だからな。……それにしても、海の中なのにこんな明瞭に声が伝わると思わなかった。水圧も大きいはずだが、そもそも水中で普通に動ける時点で、水中歩行の魔法が体外との圧力調整をしているのだろうな」
会話が出来るのも、当然魔法のおかげだろう。もしかするとさっきの主精霊の範囲魔法で括られた者同士に限られるのかもしれないが。
……これだけ便利で特異な魔法だ、確かに常時成立させておくには主精霊レベルの媒介が必要なのも頷ける。
「……クリスさん、近くにはいないのかな? エルドワ、場所分かる?」
「アン」
周囲には敵もいないが、クリスも見当たらない。やはり外れたところに出たのだろうか。
……彼のことだから何となく敵に囲まれている気がするが……もしかすると自分だけ先にひとりで行ったのは、レオたちを戦闘に巻き込まないためだったのかもしれない。
エルドワは周囲を匂って、クリスを探しに歩き出した。
「水の中でも匂い分かるのかな?」
「まあ、水溶性の匂いなら水に溶けるからな。どういう仕組みでそれがエルドワの嗅覚に反映されるかは分からんが、酸素キャンディが水と反応して空気を作り出した時、そこに含まれる匂いが揮発して鼻の方に抜けるのかもしれん」
魔法アイテムを正しく原理から説明できるものなどそうはいない。
こうして考察をするのが関の山だが、ユウトは一応それで納得したようだった。
「こういう原理を探求して、答えを見付けて再現したり組み替えたりできるのが魔工のお爺さんたちみたいな有能な職人さんなのかな」
「いや、原理まではそうそう分かっていないだろうが……その仕組みを術式で代替して組み上げる技術が彼らのすごいところだ」
「そっか。そんな人たちに装備やアイテム作ってもらえてるんだから、感謝しなくちゃ」
そんな話をしている2人の足下で、エルドワがくんくんと鼻をひくつかせる。
そして、大きな溝の前で足を止めた。
「アン」
「どうしたの、エルドワ。もしかしてその下にクリスさんがいるの?」
「アンアン」
「……この下? マジか……」
エルドワが覗き込む溝から2人も下を見下ろし、絶句する。
その先は断崖絶壁のようにいきなり落ち窪んだ海溝だったのだ。
当然だが真っ暗で、底が見えない。
「まさかクリスさん、海溝に落ちちゃったのかな?」
「いや、あいつはそんな間抜けな男じゃない。おそらく最初からこの下に配置されたんだろう。……一体、どのくらい下ることになるのか……」
「水中歩行の影響で浮力がないから、僕たちこのまま降りたら落下死するよね。……天使像で精霊さんに羽を付けてもらって降りてみる?」
「降りるだけならそれでいいだろうが……」
クリスの周囲にはおそらく敵がいる。あの羽では敵に勘付かれた時に機敏に移動して応戦するのは無理だ。それに。
「……エルドワ、次のフロアへの下り階段はこの下か?」
「アアン」
首を振られる。やはりか。
子犬は海溝から逆を向いて、前足であっち、と示した。
「向こう……この段の高さにあるんだな」
「アン」
ということは、一度下ってからもう一度ここまで上ってこなくてはいけない。何とも骨が折れる話だ。
「仕方がない、ユウト、魔法のロープで降りよう。あれなら掴まった状態でロープを伸縮すれば、いくらか楽に移動出来る。上に戻ってくるのにも便利だしな」
「うん、じゃあロープの片方をそこの岩に括り付けるね。……明かりはどうする? 一応僕たちを追尾するようになってるけど、このまま下に行ったら目立つから途中で敵に見付かるよね」
「そうだな、あのリングを小さくすることができるか? 最低限まで光量を落として、手元だけを照らして降りよう。おそらくクリスは水中たいまつを持っているから、敵はそっちに引き付けられるはずだ。まあ、近くに行けば匂いで気付かれるに違いないが、その時はもう底近くだろうし、十分応戦出来る」
「分かった」
ユウトは魔法のロープを近くの岩に括り付けると、レオのところに戻ってきた。
その弟を片手で抱き上げ、自身の肩にエルドワを乗せる。
今回はユウトにロープを握っていてもらわないといけない。エルドワを抱いている余裕はないのだ。
「俺が身体を支えるから、ユウトは魔力でロープをゆっくり伸ばしてくれ。エルドワ、落ちるなよ」
「アン」
「ん。じゃあ、明かりを小さくするね」
準備ができたところで、ユウトがブライトリングの明かりを落とし、小さく縮めて手元に移動させた。
ほんの僅か、互いの存在とすぐ近くの絶壁が見える程度の明かり。後はエルドワの嗅覚と、レオの気配感知だけが頼りだ。
レオはゆっくりと絶壁を降りた。
「ユウト、少しずつロープを伸ばしてくれ」
「うん」
弟に指示をすると、身体が緩やかに下降し始める。周囲が真っ暗で今ひとつ分かりづらいが、辛うじて明かりを反射する海溝の壁面で、自分たちが潜っているのが分かった。
壁を見ながら大体1メートルを何秒で降りるかを測り、経過時間からおおよその降りた距離をはじき出す。
下ること数分。
……すでに50メートル近く降りているようだ。
その辺りで、ようやく下の方にぽつりとひとつの明かりが見えた。
クリスのたいまつだ。
配置された場所は高さこそ大きくズレていたが、横軸ではすぐ近くだったらしい。
「あれ、クリスさんの明かりだよね。……あちこち動いてるってことは、やっぱり戦ってる?」
「だろうな。あいつの水棲魔物特効武器は両手剣だから、たいまつ持ちながらでは戦いづらそうだ」
「アン」
「あっ、エルドワ!?」
突然、レオの肩に乗っていたエルドワが下に落ちた。
いや、自分から飛び降りたのか。一瞬で暗闇に溶け込み、どこに行ったのか分からない。
「どうしたんだろ。こんな真っ暗なのに……大丈夫かな、エルドワ」
「こっちに敵が寄ってくる前に、クリスの加勢に行ったのかもな。あいつは鼻も利くが、考えてみれば魔界の番犬の血を引いてる。この暗闇でも平気で周りが見えているのかもしれん」
「あ、そっか。……でも、心配だなあ……」
……その心配はおそらく無駄だ。エルドワが消えた先、見えないところで、敵の気配が減っていく。闇の中からガリゴリと骨を囓る音がする。
ユウトに見えないのをいいことに、おそらく効率重視のかなりワイルドな屠り方をしているのだろう。
「ユウト、ブライトリングを大きく展開しろ。クリスのところを照らしてやれ」
「そしたらまたクリスさんのところに敵が寄ってこない?」
「平気だ。この辺の敵はあらかた片付いてる」
「そうなんだ。それなら」
ユウトはロープから片手だけ離して、ブライトリングを操った。
それは手元から下の方に向かっていき、大きく広がるとパッと光を放つ。一気に周囲が照らされて、クリスとエルドワ、そして累々と積み上がる魔物の死体が露わになった。
「レオくん、ユウトくん! 迎えに来てくれたんだ、ありがとう! エルドワも、飛び込みで加勢ありがとう」
「アン!」
エルドワは可愛らしく尻尾をぴるぴるしているが、その口元には敵の鱗と骨の破片、そして血が付いている。
気の利くクリスはそれをユウトに気付かれる前に、きれいに拭ってくれた。
そしてレオとユウトが底に降り立つ頃には、もう動いている敵は1匹もいなかった。
「……だいぶ暴れたようだな」
「そうでもないよ。酷い時にはフロア中の敵が押し寄せてきたりするし。それに比べたら普通だと思う」
過酷な状況に慣れすぎてしまった男は、平然とそんなことを言う。
どう考えても全然普通じゃないのだけれど。
少し呆れつつも、レオは周囲を見回した。
「しかし、結局俺たちは水中戦をやらずじまいか。まあ、フロアの雰囲気を味わっただけでもだいぶ違うが。……とりあえず、解体して素材を剥ぎ取ろう」
「あ、その点なら大丈夫。ここで魔物を捌いていると血の臭いを嗅ぎつけて、中ボス級魔物の巨大鮫が襲って来るから」
「……ん?」
今の科白に対して『大丈夫』という表現は違うのではなかろうか。
「え、これから中ボス級の魔物が来るんですか?」
「うん、十中八九。ユウトくん、ブライトリングをもう少し上の位置で固定しておいてくれる? この辺り一帯が見渡せるだけでだいぶ違うから」
「わ、分かりました」
「……あんたがひとりだけ別行動して先に雑魚を片付けていたのは、このためか」
「んー、こういう配置になるのを最初から狙ってたわけじゃないけど。ただここに出た時に、巨大鮫相手ならボス戦前の模擬戦としてはちょうどいいかもなとは思ってたんだ」
クリスは軽くそう言ってたいまつをしまうと、素材剥ぎ取り用のナイフを取りだした。
「さて、素材回収を急ごう。すでに血の臭いは流れ始めてる。戦闘に入ると、これみんな食い散らかされちゃうからね」
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