弟、兄に抱っこされて海を渡る
「レオ兄さん、クリスさん、お帰りなさい!」
「ただいま」
脱出方陣で外に出ると、すぐに近くにいたユウトが駆け寄ってきた。地上では特に何もなかったようだ。レオは弟の頭を撫でる。
……万が一あの吸血鬼がゲートから出たら、ここで即座にユウトと鉢合わせるところだった。そんなことになっていたら、きっとクリスが言ったように男は弟の魔性を欲しがり、眷属にしようとしたに違いない。
その様子を想像しかけ、嫌悪感に眉根を寄せたレオは、独占欲に駆られてユウトを抱き締めた。
……この子が自分以外の誰かに心を傾けることなんて、考えただけで虫唾が走る。
想像だけでも耐えられなくて表情の曇った兄に、弟は首を傾げた。
「レオ兄さん?」
「……充填中」
ただそう言うと、ユウトはおとなしく腕に収まってくれる。
何の、とは言わなくても、きっと彼には分かっている。通信機の魔力ではない。レオの心の、大事な燃料。
そんな兄に好きにさせたまま、ユウトは少しだけ身体を捩ってクリスの方を向いた。
「クリスさんも無事で良かったです」
「うん、ありがとう。私まで行っちゃってごめんね」
「大丈夫です、ここでは何もなかったし、エルドワもいるし。ねえ、エルドワ」
「アン!」
足下で子犬が尻尾をぴるぴるしている。それに微笑んで、クリスはエルドワを抱き上げた。
「そうか、良かった。私の方もレオくんがいたから何の心配もなかったよ」
ほぼひとりでやりきっておきながらよく言う。
そう思いつつもレオは口には出さない。クリスはおそらく謙遜しているのではなく、こういう『おかげさま思考』なのだ。
ゲートを無事に攻略出来たのはレオのエナジードレイン無効のおかげ、魔界語を読めるのはディアたちのおかげ、ベラールにいられるのはアイクたちのおかげ……。
だからこそ周囲への感謝があり、皆に慕われるのだろう。
ただ、魔族に対してだけは態度が違うが。
「ところで、社は開いたのかな?」
「あ、はい。2人が別空間に転移した直後に扉が閉まっちゃってたんですけど、ついさっき開きました。精霊さんの力も戻ったし、この辺りにマナも流れ始めましたよ」
「そうか、それは良かった! この辺り一帯にマナが満ちれば、他の漁場から魚が寄ってくる。ベラールの村も漁師さんたちも安泰だね」
クリスが一番気にしていたのは、村の収入源だ。
自分がゲートからの魔物を獲らなくなることでベラールの実入りが少なくなるなら、きっと彼はこの村を出ようとは思わなかっただろう。
しかしこうしてマナが満ち、豊かな漁場が戻ってくるとなれば、もうクリスは自由だ。
後は近くにあるゲートを攻略してしまうだけ。
「じゃあとりあえず一旦村に戻ろうか。アイクさんや漁師さんたちにも報告しなくちゃね」
「そうですね。……あ、僕が先に戻って、漁師さんに船を寄越してもらいましょうか? クリスさんだけ海の中を歩いて帰るようになっちゃう」
「ユウトくんたちはどうやって戻るの?」
「僕たちは沈下無効の靴の中敷きがあって、水面を歩けるんです。……えっと、クリスさん、エルドワの首輪の右から3番目の魔石を擦ってもらえます?」
「ん? こう?」
クリスがユウトの言葉に従って、抱いているエルドワの首輪の魔石を擦る。すると、そこに収納されていた沈下無効付き犬ブーツが装備された。
「うっわ、犬用のブーツ超可愛いね。え、これで水面歩けるのかい?」
「アン!」
岩の上に降ろされたエルドワは、そのまま海にジャンプする。そして水しぶきを立てるでもなくシタッと水面に降り立つと、そのまま駆け回った。
「へえ、すごい! これなら濡れなくて良いね」
「これで僕とエルドワが港に戻って、漁師さんに船を出してもらうようお願いしてきます」
「私は慣れっこだから、ずぶ濡れになっても気にしないけど」
「僕たちが気にしますよ。……レオ兄さん、僕行ってくるからちょっと放して?」
弟が兄を見上げながら、腕をポンポンと叩く。
それにレオは不満げな顔をした。
「……必要ない」
「もう、必要ないことないでしょ」
「お前の中敷きを貸してやればいい。ユウトのことは俺が抱えて行く」
「あ、なるほど」
兄に抱えられることに何の抵抗もないユウトは、それは妙案とばかりに手を叩く。クリスはそのやりとりに微笑ましげに笑った。
「クリスさん、気にならないなら僕の沈下無効の中敷きお貸しします」
「君たちはほんと仲が良いねえ。もちろん私は気にならないけど。ユウトくんこそいいの?」
「水虫持ちや超足クサじゃなければいい」
「いや、ユウトくんに訊いたんだけど……まあ、レオくんのNGに引っ掛からなければいいか。ではありがたく借りるよ」
クリスはユウトから中敷きを借りて、すでにエルドワが走り回っている水面に降りた。
踏み出した足は、沈むことなく海水を踏みしめている。
「これ、便利だね。私も素材取って来て作ろうかな」
「……ジャイアント・ドゥードルバグの素材だ。まあ、後であんたの装備用の素材は取りに行くから、その時についでに手に入れれば良い」
レオもユウトをお姫様抱っこして水面に飛び降りた。
少し荒い動きをするのは、そうすると弟が兄の首にぎゅうっと縋り付いて来るのが楽しいからだ。
もちろん可愛い弟を落とすような愚行はしないが、そんなそぶりを見せると必死にくっついてくるユウトに、レオの機嫌はみるみる回復した。
クリスはその様子を見ながら苦笑していたが、特に突っ込むことはしない。指摘をするのは無粋だし、そうしたところでレオにやめる気がないことは分かっているのだろう。
彼は水面を歩きながら、別の話を始めた。
「レオくん、残ったゲートの攻略はすぐに行くかい?」
「……いや、とりあえず攻略計画を立ててからだな。何日くらい掛かるか計算して、色々準備もしないといかん」
「ん? 攻略は多分1日でいけるけど」
「……何?」
レオは何を言っているのかとクリスを怪訝な顔で見た。
村の近くにあるゲートはランクA。それも水棲魔物の住処で水場フロアなのは確実だ。特化装備のないレオたちには難儀であり、攻略にいつもの倍以上時間が掛かっても不思議ではない。それなのに。
訝しがるレオの視線に気付いたクリスは、「そういや言ってなかったっけ」と肩を竦めた。
「実はあのゲート、すでに私が65階まで攻略済みなんだ」
「は? 65階って……ランクAのフロア上限が70階だから、あと5階以内にボスフロアじゃねえか!」
「うん、そう。つまり私と行けば65階から攻略を始められるから、1日で終わると思うよ」
あっさりと言う男に、レオは呆れたため息を吐く。
「何だよ、ゲートをクリアする気満々だったんじゃねえか」
「そういうわけじゃなかったんだけど。海が時化てる時とか、祭りで大量の食材が必要な時とか、ゲートに入って魔物を倒すことで獲物を調達しててね」
「……それで65階まで?」
「必要な魔物がいる階がまちまちだったから、どんどん下っちゃったんだよ。……それに、まあ、夜が暇だったものでね」
クリスはそう言って頭を掻いた。
「……君たちは知っているだろうけど、私はここ20年、『夜中に必ず5回トイレに起きる罠』に掛かっていたんだよ」
「ああ、知ってる」
絶妙に掛かりたくない嫌な罠だ。
レオが頷くと、クリスは続けた。
「その罠のせいで、夜に全く寝た気がしなくて睡眠不足でね。当時の私はアホなりにいっそ夜起きていて昼間に寝た方がいいんじゃないかと考えて、ずっと昼夜逆転生活を送っていたんだ」
「……ああ、そうか。『夜中に』必ず5回トイレに起きる罠だもんな。昼間寝る時は平気だったのか」
「うん。もちろん、昼間は昼間でやることがあるから、寝てるのは午前中だけだったけど。……とにかくメインで活動する時間帯が夜になってしまったから、すごく暇を持て余してしまっていたんだよね」
「……その暇つぶしに、ゲートを地味に攻略していたわけだな」
「一応暇つぶし目的じゃなくて、食材として売れる魔物を獲ってくるのが主な目的だったのは本当だよ」
ベラールに彼が来てから幾年。
クリスの強さなら、月に一度くらい脱出方陣の配置されている5階ずつを攻略しているだけでも、最下層に近付いてしまうのは当然のことだろう。
……レオたちにとってはだいぶ助かる話だ。が、こんなにあっさりクリスを縛るものが消えてしまうとなると、アイクにとっては心の準備をする暇もないな。……まあどうでもいいか。
「こちらとしては攻略の手間が減る分ありがたい。だが、それでも多少の計画と準備は必要だ。昼飯を食べながら相談して、行けるようなら午後からゲートにアタックしよう」
「うん、了解」
レオたちが話をしながら歩いているうちに、港が近付いてきた。
岸に辿り着いたら、とりあえずは一旦休憩だ。
そう思ってレオが少し歩みを早めた時。
クリスが港の桟橋に何かを見付けて目を瞬いた。
「あれ? あそこにいるの、アイクさんとエリーさんだ。アイクさんが外に出てくるなんて珍しいなあ。レオくんに会いに来たのかな?」
「……いや、違うだろ」
……これは、ちょっと面倒臭い昼食になりそうだ。




