兄、クリスの別の顔を知る
薄暗い部屋に赤い瞳と牙がだけが光る。
クリスが背中を向けた途端に豹変した男に、一瞬反応が遅れたのはそこに殺気がなかったからだ。
そう、殺すつもりなのではない。この男、クリスの血を吸って眷属にする気なのだ。そう気付いた時には、吸血鬼はすでに彼の背後に肉薄していた。
「クリス!」
「我が眷属となれること、誇りに思うが良い!」
男の手がクリスの剣を持つ右腕を掴み、反撃を封じてからその首筋に牙を立てようと赤い口腔を晒す。あの牙に噛まれたら、確実にレオと敵対する眷属になってしまうのだ。
ヴァルドがユウトにしたのとはまるで違う、敬意の欠片もない一方的な従属契約行為。
それが成されてしまうと思ったその瞬間、クリスは慌てた様子もなく掴まれた腕を起点に身体を反転し、逆の手で吸血鬼の口に何かを放り込んだ。
反射的に口を閉じた男の顎に、彼は強烈な掌底をお見舞いする。
「ングッ……ぐあ、な、何をっ……!?」
予想外に素早い反応と衝撃に、吸血鬼はたたらを踏んで後退した。
どうやら口に入れた何かは、はずみで飲み込んでしまったようだ。
それを確認したクリスは自由になった腕を引き戻し、視線だけでレオを振り返る。
「ね、大丈夫。私は最初から魔族のことなんて一切信用してないから」
気負いのない淡々とした科白。
その言葉に、一瞬呆気に取られた。
つまり、この男に同情してみせていたのは全部演技だったということだ。レオまですっかり騙されていた。
思わず気が抜けたような深いため息が漏れる。
「最初からかよ……」
「ゲートでの転生で上位魔族に生まれ変わるには、高い魔性が必要なのは知っている? この男のように元が上位なら尚更大量の魔性が必要になるんだ。つまり上位吸血鬼が転生するには大量の部下を抱えたコロニー、かなり深層のゲートがなければ意味がない。なのに、たったひとりでいるなんてありえないだろう?」
「……そこには確かに違和感があったが……そうか、ボスが強いほど階層が深いのって、それだけの数の部下を配置する必要があるからなのか」
クリスは本当に最初から、こちらを欺こうとする敵を見越していて、欺き返していたのだ。
何てことないように言う彼に、少し距離を取った吸血鬼は忌々しげに顔を歪めた。
「くそっ、間抜けた奴で楽勝だと思っていたのに……! それより貴様、我に何を飲ませた!?」
「無駄な質問ですね。これから消え去る魔族に答えが必要ですか? ……まあすぐに分かります」
……何だかクリスの様子がいつもと違う。
彼特有の柔らかい雰囲気は消え、男を冷眼視し、どこか威圧的ですらあった。
港で魔物と相対する時はこんなふうではなかったはずだ。……もしかして魔族と何か因縁があるのだろうか。
クリスは右手に持っていたオートクレールを左手に持ち替える。
一瞬、さっき吸血鬼に掴まれて右腕を痛めたのかと思ったけれど、どうやら元々左手が利き手のようだった。
……なるほど。敵が武器を持つ手を封じてくるのを見越して、最初はわざと右手に持っていたのだ。利き手をフリーにするために。……何ともクレバーでしたたかな男。敵に回したら厄介そうだ。
「私を吸血鬼の眷属に仕立てて、ボスの座を押しつけてここを出るつもりだったのでしょうけど、そうは行きません。魔族がエルダールを闊歩するなど言語道断」
「くそっ、ジアレイスといい貴様といい、人間どもは我の邪魔ばかりしおる……!」
「そうかこいつ、クリスを眷属……半魔にして、ここから抜け出すつもりだったのか! 上位吸血鬼は生娘の血を好むと言うから、まさかおっさんの血を吸いに来るとは思わなかった……!」
以前ヴァルドに聞いた話では、一度でも他人と交わった人間の血を吸うと、純血の吸血鬼は腹を下すと言っていた。眷属を作るためには我慢するということか。
「ふん、こっちだって不服だが、背に腹は替えられん! それでも生息子なら血が不味いだけだから、いくらかマシなんだ!」
「……生息子?」
おっさん相手に思わぬ単語が出た。
ついクリスを見ると、途端に男を見据えていた彼の眼がすうっと細められる。……何かヤバいくらい殺気が出てるんですけど。
「……誰が魔法使い通り越して妖精ですって? そもそも私がこの状態なのは適齢期に貴様ら魔族の罠で女にされてたせいですからね? ……本当に、魔族どもは害悪でしかない。いいでしょう、私たちが鉄槌を下してやります」
誰も魔法使いとか妖精とか言ってないが。
どうやらその辺の話は彼の地雷だったようだ。
「罠!? な、何の話だ、我には関係ないだろう!」
「私を妖精扱いした以上同罪です。問答無用」
クリスが剣を構える。これは殺る気だ。
その視線がちらりとこちらを見たことに気付いて、レオも合わせて前に出る。そしてオートクレールよりも大きな剣を、これ見よがしに鞘から引き抜いた。
その上で、努めて彼以上に殺気を飛ばす。
敵から最初に来る攻撃は、一番ランクの高い者へのエナジードレインのはず。それを自身へと向けさせるためだ。
魔物の初動は特に、セオリー通りの動きしかしない。こちらがそれに対応すると2撃目からは臨機応変に攻撃をしてくるから、短期で決めるならエナジードレインが来た直後が肝心だ。
まあ、クリスなら確実に決めてくれるだろう。
臨戦態勢の2人の殺気を浴びた男は、さらに数歩距離を取ると即座に、思った通りの魔法を唱えた。
「エナジードレイン!」
「レオくん、後は任せて」
想定通り、レオに魔法が向いた隙に、クリスが吸血鬼に向かって駆け出す。
その後ろ姿を見送りながら、レオは自分に降りかかった魔法の帯を手で払った。おそらくこの後の展開は全てクリスの頭に入っている。余計な手出しは必要ないだろう。
「エナジードレインが効かないだと……!? くそっ!」
「このまま死んで、下位魔物に転生して下さい」
クリスが冷徹な声でそう言い放って、剣を振りかぶった。
「そんな屈辱、受けてたまるか! ふん、どうせ貴様らの攻撃は我には当たらん! 変化してしまえば……あ、あれ?」
「……次に生まれ変わった時、魔族でなければ少しは優しくしてあげます」
吸血鬼は変化をして攻撃をかわすつもりだったようだが、何故かその身体は別の形にはならなかった。
それに慌てた男目掛けて、クリスの剣が一閃する。
清浄属性のある剣は、その身体を真っ二つにした。
「ば、馬鹿な……っ、ぐあああ!」
「紅蓮の柱」
クリスはだめ押しとばかりに、ポーチから取り出した上位魔石の浄化の炎で敵を包み込む。
……さすがだ。あっという間に決着は付いてしまった。
2人は炎で焼かれる魔族が灰となって崩れ落ちるのを見届ける。これで精霊の祠は開放され、ユウトの元に戻れるだろう。
最後に、吸血鬼の身体から零れた二つの魔石が、床をカツンと打った。
30超えると魔法使い、40過ぎると妖精、らしいです




