雨と窮鳥
いつの間にか暗雲は、王国東部からアイルヘルン西部を覆い隠すほど空いっぱいに広がっていた。マチルダは少しずつ高度を落としながら、雲海の隙間から地表を見透かしている。進行方向の先に鈍色の巨大な水面が見えてきていた。
退屈なので遊びに来ただけなのだが、思ったよりも雨風が強くなってきている。マルテ湖畔では慌ただしく走り回る人影が見えていた。ゲミュートリッヒから派遣された新王都建設チームが、嵐への備えをしているようだ。
「いないみたいニャ」
「途中デは、スれ違わナかっタぞ? ミーチャはトもかク、ヘイゼルの魔圧を見逃すこトはナい……っと」
突風で飛ばされてきた防水布を、エルミが空中でつかまえる。風に押し流されながらもなんとか抱え込んで着地すると、ふたりを出迎えたマドフ翁に手渡した。
「おお、すまんの嬢ちゃんたち。助かった」
「ミーチャたちは、もう帰ったのニャ?」
見ると遺跡に天幕を張っただけの建物のなかには、新しく運び込まれたと思われる荷物があった。
「ああ、ふたりはクエイルとマルテの嬢ちゃんと一緒に王国行きじゃ」
「王国?」
なんでまた、とエルミはマチルダと首を傾げる。王族と高位貴族ごと王城を吹き飛ばして、王国はもはや政治的にも軍事的にも国の態を成していない。いまさらアイルヘルンが――少なくともゲミュートリッヒが――干渉するような事態は思いつかなかった。
「マルテの嬢ちゃんが王国の民に助けを求められてな」
「なんでそうなるのニャ? マルテちゃん関係ないと思うのニャ」
「実際そう言って嬢ちゃんは断ったんじゃが、クエイルが受けると言い出してのう」
「マすマすワかラん。ミーチャとヘイゼルがソれに乗っタのか?」
「そのようじゃの。王国を荒らす賊の討伐とか言っとったが」
それを聞いたエルミとマチルダは顔を見合わせて呆れる。
為政者不在の国を荒らすとしたら、おおかた軍の残党だろう。それが王国であれ聖国であれその両方であれ、荒そうと荒らされようと王国の問題だ。アイルヘルンの住人が――まして国を滅ぼした当事者が――関わることではないと思うのだが。
まあ、あのふたりはそういう気質なのだ。
「度を越したキレイ好きトいうノは、治らン病気みたいナものダ」
マチルダの端的な表現が、エルミにもすんなり腑に落ちた。それは自分たちも含めてだが、ミーチャとヘイゼルが行く先々で行ってきた行為のほとんどは過剰で一方的な清掃と廃棄処分みたいなものだ。自分の家でも公共の場でも、目に見える範囲で汚れがあるのは許せないというような本能。誰にも止められないし、止める意味もない。
「またとんでもない乗り物で出て行ったから、心配は要らんぞ」
「ソうイう心配ハ、全クしテいなイ」
「それもそうじゃの」
遅かれ早かれ賊とやらは間違いなく皆殺しになるのだろうし、いまから追いかけたところで邪魔にしかならんだろうというマチルダの意見にはエルミも同感だった。
「それじゃ、ゲミュートリッヒに戻るのニャ」
上空の暗雲と強くなる雨風を指して、作業員のひとりがふたりに尋ねる。
「こんな空模様で飛んでも大丈夫なのか?」
「問題ナい。ワタシとエルミが一緒ならバ」
「なんでもできるのニャ♪」
まあそうだろうとは思っとったがの、というマドフ翁たちに見送られてエルミはマルテ湖畔を飛び立つ。
「ドうせナら、マた雲の上まデ……ん?」
羽ばたきながら急上昇していたマチルダが、なにかに気付いて翼を傾けた。マチルダの視線をたどって、エルミは眼下を見下ろす。
「どうかしたのニャ?」
「なにかイる。森の切レ目に、倒木がアるのハわかルか?」
言われて白いものは視界に入ったが、なんなのかは判然としない。
ネコ獣人の感覚器は鋭いものの、視力はそれほど高くない。魔力で嵩上げされた魔族の視力はエルフをも超えるのだ。エルミは視覚の代わりに、鋭敏な聴覚と嗅覚を研ぎ澄ます。雨や風は薄く展開した魔導防壁に弾かれているものの、音は聞こえてくる。
「小さい子が、泣いてる……あの声、たぶん有翼族ニャ」
声の聞こえてきた方角に降下しながら、ふたりはクスリと同時に笑う。しょせんは自分たちも、ミーチャとヘイゼルの同類なのだと。
「あレだ」
倒木の陰に倒れている、小さな人影。白く見えていたのは、樹皮が裂けて露出した辺材部分だった。まだ新しいので、嵐による突風か落雷かで倒れたのだろう。声を聞く限り木の幹に押し潰されて動けないだけで、致命的な負傷ではなさそうだ。
ただ……
「ゴブリンがイる」
「ウチが仕留めるニャ」
マチルダの得意な電撃では、有翼族ごと感電しかねない。エルミは携行袋から弾倉を取り出すと、胸の前で吊っていたステンガンに装填する。
「手前に四体、奥にデカいノが一体ダ」
「わかったニャ」
見えていた四体の頭を撃って次々に倒すと、大き目の個体はすぐ大木の陰に隠れた。上空を旋回しながら射撃を加えて遮蔽から燻り出し、手槍を振りかぶったところであっさりと頭を撃ち抜く。
「ヨし、もう近くに魔物はイなイ」
ふたりは着地して、倒木の方に向かう。近づく足音を聞いてパニック状態になっていたが、エルミが声を掛けると悲鳴は止んだ。
「だいじょぶニャ、ゴブリンは倒したのニャ」
「……だ、だれ⁉」
「ウチはエルミ、こっちは親友のマチルダちゃんニャ」
のほほんとしたエルミの声に有翼族の子は警戒を緩めるが、姿を見ると絶望したように顔を歪めた。小柄で細いふたりには、巨大な倒木を押し退ける力はなさそうだと思ったのだろう。
「エルミ、少しダけ魔力を頼ム」
「はいニャ」
翼を仕舞ったマチルダの背中にエルミが抱き着くと、魔力循環で筋力を底上げした魔族娘は倒木をひょいと投げ捨てた。
「え」
有翼族の子供は、唖然とした顔で固まる。
近くで改めて見ると、怪我は思ったよりもひどかった。左の翼と脚は折れ、腕や腰にもひびが入っている。打撲や擦過傷は全身に負っていて、雨風にさらされてずぶ濡れの身体は冷え切っていた。
「そのまま動かないで、すぐ治療するニャ」
エルミは折れた骨を修復しながら、全身に少しずつ治癒魔法を掛ける。カタカタと震えているのは恐怖からではなく、寒さによるものだろう。
触れているうちに、女の子だとわかった。細い手足と薄い胸。肋骨の浮いたお腹。有翼族は飛ぶために細身だとはいえ、この痩せ方は度が過ぎている。
「濡れたままじゃ、死んじゃうのニャ」
「向コうに、雨を避けらレる場所を見つけタ」
痛みが和らいで動けるようになった有翼族の子を、近くの岩穴まで連れて行く。手早く火を熾して当たらせると、ようやく安心したのか彼女はボロボロと涙を流し始めた。
「もう大丈夫ニャ」
「あ、ありがと……、でも、だいじょぶ、……じゃ、ないの」
「ニャ?」
困惑したエルミが周囲に目をやるが、特に問題らしきものはない。マチルダは首を傾げる。
「ナにか、あっタのか?」
「……たすけを、……よんでこいって、……いわれたの。……あいるへるん、まで、……ふりかえらずに、……とべって」
ああ、とエルミは腑に落ちる。マチルダも同じことを感じているのがわかる。きっとミーチャやヘイゼルもこうだったんだろうと。
「……きっと、……あたしを、……にがす、ために」
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