英国的返礼
「そうですか……」
ヘイゼルが優しげな声で、誰に言うでもなく呟いた。その声は、なぜか俺の背筋を凍らせる。近くにいた者たちの身体を強張らせる。どんな魔物の咆哮よりも直截に、本能の奥深くまで喰い込んで心を震え上がらせる。
「タキステナ領主は、この期に及んで、まだゲミュートリッヒに攻撃を仕掛けてきたのですか」
そのようですね。うん。そして、まだ諦めていないようです。
見ると町の住人たちも静まり返って棒のように固まっている。いつも穏やかなヘイゼルが……いや、いまも見た目だけなら穏やかではあるのだけれども、そのヘイゼルが発する濃密な気迫に当てられてフリーズしてしまっている。
「ミーチャさん」
「ひゃい!」
直立不動で振り返った俺を、ヘイゼルは柔らかな微笑みで見据える。
「ひとつ購入していただきたいお薦めの品があるんです。ご検討いただけませんか?」
「……か、買います買いましょう買わせてくださいハイいますぐ、ぜひ」
気を抜けば盛大に失禁しそうな、無色の圧。ふだん温和な人間がキレるときの怖さというのは、俺だって何度か経験している。でもこれは、そんな生優しい代物じゃない。
タキステナの馬鹿どもは、敵対する相手を見誤った。眠っていた龍を、起こしてしまったのだ。そしてそれは、絶対に劣位小型種などではない。
「ありがとうございます。この出費は、すぐにでも回収いたしますので」
「お、おお構いなく」
光るプレートを操作したヘイゼルは、満足げに息を吐いた。すぐに調達した物資が現れる。それを見た町の住人の間にざわめきが起こるけれども、動き出すとそれもすぐに掻き消されてしまった。
「ナルエルちゃん」
名前を呼ばれたドワーフ娘はビクンと、電流でも流されたように硬直した。半分くらいは、紐なしバンジーに指名されたような緊張顔。ではあるが、もう半分は。
「ちょっとだけ、お出かけしませんか」
「はいッ!」
未知の驚異を、異界の奇跡を、目の当たりにしたエンジニアの顔だ。不安と期待と好奇心と決意、そして無限の悦びに満ち溢れている。
これは、ドワーフの本能だな。
「ヘイゼルちゃん、ウチも行くニャ」
「もチろン、ワタシもダ」
抱っこ攻撃機組のふたりは、最初からヘイゼルのプレッシャーに影響を受けていないように見える。長い付き合いで気心が知れているせいか、修羅場をくぐり抜けて肝が座ったからなのかは不明。
「行ってくるニャー♪」
ポカーンとしたままの町のひとたちに手を振って、俺たちはすぐに旅立つことになった。
◇ ◇
「おい、どうなっている!」
タキステナの領主館。執務室に詰めたままのオルークファは、襲撃達成の報告がないことに苛立っていた。
「申し訳ありません、領主様。死霊術師からの連絡は、途絶えたままです」
「監視の密偵は出していたんだろう! さっさと報告させろ!」
「それが、そちらも通信用魔道具が、応答せず……」
「ええい、役立たずどもめが!」
いまやオルークファの精神は、怒りと不安と焦燥で軋みを上げ続けていた。
エルフを万能の上位種と考えるオルークファにとって、他種族など下等な半獣に過ぎない。こちらを脅かすものが現れたときには適切に、早急に、厳正に対処するだけのこと。
まずは経済的制裁。次いで政治的制裁。それでも挫けなければ武力的制裁だ。過去には、三段階目まで進んだことなどなかった。それが、あの辺境の寒村は。タキステナから塩の出荷を絞ってやったというのに音を上げるどころか市場を侵食してくる始末。政治的制裁を行うには中央との接点がなく、武力的制裁に踏み切るしかなかったのだ。鎧袖一触との確信は裏切られ、既に三波目になる襲撃も成功報告がないままだ。
聖国の次期教皇ロワンと強固な関係を結び、一時はアイルヘルンの政治経済を掌握するところまで登り詰めたというのに。いや、思えば最初のつまずきは、サーエルバンで聖国が起こした失態に巻き込まれたことだった。
「聖都を壊滅させたのが、あの半獣どもだとすると……」
到底信じ難い報告を黙殺していたオルークファだが、いよいよ真実味を帯びてくると自らの地位が……いや生命までもが脅かされている現実を受け入れざるを得なくなっていた。
それに拍車を掛けたのが、今朝がた鉱山都市マカの領主エインケルから届いた親書だ。そこにはゲミュートリッヒに対する降伏の提案と、“賢人会議”を介しての和平交渉の用意があること、そして提案を蹴った場合の最後通牒が記されていた。
“今後ゲミュートリッヒ及びサーエルバンに対する攻撃は、マカに対する敵対行為と見做す”
「しょせん半獣は半獣ということか」
「領主様!」
オルークファが立ち上がったとき、家令が執務室の窓を指す。
「……なん、だ……あれは」
南西方向の空に、おかしな物体が見えた。近付いてくるそれは、小魚のような形をした異形の物体。風を切り裂き掻き分ける騒音に、エルフの本能がざわめく。
鑑定魔導師として世に並ぶ者がないと自認していたオルークファは、目の前に迫るものの正体が読み取れないことに愕然とする。それが何なのかは不明ながらも、敵意と暴力、いや殺意を形にしたものだということだけは、はっきりとわかった。
“……くる”
“くるよ、こわいの……”
契約を結んだ風の精霊が、金切り声を上げている。なにかを泣き喚き訴えているのは伝わったものの、その声はひどく聞き取りにくい。
“だめ、おこってる”
“あれは、いかいの……”
どんどん近付いてきていた物体は速度を落とすと、急に大きく上昇して視界から消えた。タキステナを守る魔導師の衛兵部隊が反応したのだろう。城壁の防衛塔から、次々に攻撃魔法が放たれる。最精鋭の魔導師たちが打ち上げた高位魔法の炎弾を、空飛ぶ魚は高速で旋回しながら易々と躱してゆく。
“とめられない、だれも”
“なにも”
再び降下してきた敵は横腹から塔に向けて長く細い炎を吐き出す。杭のようなものが突き刺さると防衛塔は城壁ごと吹き飛び、バラバラに粉砕されて崩れ落ちてしまった。
逃げなければいけないと、わかっていた。次にあの炎が向く先は、こちらなのだと。だが逃げ場を探すオルークファの足は、床に張り付いたように動かない。全身が震え、生温かいものが内股を伝ってゆく。けたたましく聞こえていた精霊たちの警報は、そこでパタリと止んだ。
“……だめ、もう……”
“にげられない”
空飛ぶ小魚。執務室の目前まで迫ってきたそれは、塩湖に浮かぶ貿易船ほどもある巨体だった。
その前部にある窓から、なかに乗っている者たちの顔が見えた。ひとりは、銀髪の少女。その隣にいるのは、かつてタキステナの発展に寄与した……そして、裏切って逃げたドワーフとの混血、“薙ぎ倒し”ナルエルだった。
「お、のれ……ッ」
罵り声とともに魔術短杖を持ち上げたオルークファは、炎とともに飛んでくる何かを見た。
防衛塔を吹き飛ばした、細長い杭のようなもの。それが真っ直ぐに、こちらに向かってくる。
展開し掛けた魔導防壁を薄紙のように貫いたそれはオルークファの身体を跳ね上げて爆発し、執務室の内部を一瞬で焼き尽くした。




