27 氷に飛び込む
「ずいぶん思い切ったことをするなあ、うふふ。それでこそお姫だよ」
感心されている場合ではない。ここぞと飛び込んだ菜月は氷を深く深く、潜る。
途中、手を握られる感触があった。
「ひとりにはさせない」
振り返れば、ぬくもりの主はリヒトだった。心強い。
「待ってよ。リヒトさんばっかり、いつもいいところ持って行くんだもの。俺は、大納言さまに声をかけたから、ちょっとだけ出遅れたけど。俺のほうをたくさん頼りにしてよ」
カズヤも追いついた。
「ありがとうございます」
多くの助けがあって、菜月がいる。自分は、ひとりではない。こんなに冷たい氷の渦へ、危険をかえりみずにともに飛び込んでくれる存在が嬉しい。
「それで、どうだ。母君の声は聞こえるか」
菜月は耳を澄ます。
「いいえ。まだ、なにも」
早く終わらせないと、氷の冷たさに身体がもたない。焦れば焦るほど菜月の感覚が鈍り、集中もできずに緩慢としてしまう。
「心を無にするんだ。からっぽに」
「そんなこと、言われても。さっきから、挑戦しているつもりです」
「我慢が足りないんだよ。耐えてよ」
「それは、ふだんのカズヤにも言ってやりたいことばだな」
「今は、俺のことを話ししている場合じゃありませんよね。菜月、集中集中。がんばれ」
カズヤが、空いているもう片方の手を強くつないでくれた。
もう一度、耳を澄ます。氷のゆらぎの中に、父の姿が見えた。ああ、これは外の様子だ。ガラナやサハリクと一緒に、菜月たちが取り込まれてしまっている氷獣を見上げていた。しきりに、なにか叫んでいる。どうやら、菜月とツキハの名前を呼んでくれているようだった。
……母さま、声を聞かせて。会いたい。
菜月は静かに、けれど強く願った。祈った。
母さま。お願い。父上が来てくれたの。母さまのことを、とても心配している。父は都で地位を得たけれど、母さまのことを忘れたことは一度もなかった。父上は、巫女だった母さまを愛してしまった罪を責めている。母さまが風異に身を捧げたことも、己のせいだと真実悔いている。自分のことも、大切にしてくれた。
「菜月、ツキハーっ」
父の声が菜月に届いた。
母さま、聞こえた? 父上の声が。
菜月も父に負けず、見えない母に向かって語り続ける。
「母さ……」
菜月の剣が光った。と、思ったら三人は砂浜の上に投げ出されていた。リヒトとカズヤが菜月をしっかり抱き留めてくれたので、無事だった。しかし、髪や顔は砂だらけになった。装束の隙間からも砂が存分に入ってしまった。
前回のように、身体は冷えなかったのが不思議だった。確かに、氷の中は冷たかったのに。
「うう、砂が。気持ち悪い」
真っ先に立ち上がって砂を払ったのは、カズヤだった。菜月についた砂粒もはたいてくれるのはありがたいものの、どさくさに紛れて胸やらお尻やら、おかしなところも触ってきた。
「って、カズヤさん!」
「へへ。ケガはない? お姫」
「……ええ、まあ。無傷です。リヒトさんは」
菜月はリヒトの身体の上にのしかかっていた。全体重をかけている。たぶん、相当重いはずだ。
「お、重い。俺を潰す気か。早く、下りてくれ……」
「きゃあっ。す、すみません。私ったら」
リヒトの身体から飛び下りた菜月はしきりに謝る。
「菜月が無事ならいいが、お前もう少し痩せろよ。風に立ち向かうにしても、軽やかさがないと」
「触り心地という観点では、やわらかいのはいいことだけどね」
「は、はい。えーと、今後の懸念課題として、しかと心に留めておきますね。藤原さんだけは細いって言ってくださるんですけど、基準が違うのかな……あれ、私の剣が、ない!」
腰周りにいつもの慣れた重みがない。がら空きになっている。いつの間に外れてしまったのか、剣が氷獣に取り込まれたままだった。氷の中で、菜月の剣は輝きをいっそう増している。氷が鏡のように光を乱反射し、あたりはなないろの光に包まれている。
まるで、虹がいくつもかかっているかのような、幻想的な光景だった。
父が氷獣になにかを訴えている。ガラナとサハリクが父を支えているとはいえ、近づき過ぎると危険だ。今度は父が取り込まれてしまう。身体を鍛えているわけでもない、ごく普通の貴族である父は、氷にとらわれたら、たちまちに冷たくなってしまうだろう。
「あぶない、父上っ」
菜月は駆け寄ろうとした。
「待て。見えないのか」
リヒトが菜月の腕をつかんだ。
氷獣の顔とおぼしきあたりが、かすかに女性のもののように見えた。やさしそうな、細い面だ。
「しばらく、説得は大納言さまに任せろ」
父を、贄にすると言ったのはこのことらしい。暴走しないように、菜月の肩を、そっとカズヤがおさえた。ここで、感情的になってはならない。唇を噛みながら、菜月は自制した。




