娘の名、ポラリス
結婚してからもエマニュエルと、ジゼルの関係性は一向に変わらなかった。
互いに望んだ結婚ではなかった。むしろ、ジゼルは解消しようとしていた。それなのに、訳の分からない焦燥で、エマニュエルはジゼルと無理に結婚した。
ジゼルにつけた番の証を見るたびに、肌が粟立つ。あれを付けるまでは、ただ、戸惑いが勝っていたのに、証を付けた瞬間から、焦燥と表現しがたい感情がエマニュエルの中に渦巻いていた。
これが、番なのかと、エマニュエルは思った。
普通は互いに番になりたいと望んで番になる。互いの意志が存在するが、エマニュエルとジゼルの間にはそれがなかった。だが、それがなくとも、番の証は強力にエマニュエルを縛った。ジゼルの心地よい甘い香りが、エマニュエルを誘うのだ。
ジゼルを求める気持ちが確かにエマニュエルにはあるが、無理に結婚したという自覚があるから、ジゼルとの距離をつめられずにいた。
ジゼルは、エマニュエルが見つめると、すぐに目をそらす。それが、好かれていないことの証明のようで嫌だった。エマニュエルがどんなに誘っても、ラサルに乗ろうとしなくなった。
空を自由に飛びたいという、唯一のジゼルの望みをかなえてやりたいのに、それも受け入れられないでいると、どんどんと焦燥は募った。今は理性が勝っているが、いつ、この感情に負けて、番を求め始めるか分からない。
深いため息をついて、エマニュエルは、近衛兵の控え室で書類仕事をこなしていた。
「おーい、エマニュエル。なんだよ、その深ーいため息は。」
「……クロヴィス。」
人好きする笑顔のクロヴィスは、黒い長い尻尾を意味なく揺らしている。
「なにか、用か。」
「つれないねー。公爵閣下は。」
確か、クロヴィスとジゼルは面識があったはずだ。一度ならずとも二度も、ジゼルにクロヴィスは会っているし、ジゼルもクロヴィスのことを覚えているだろう。そんなこと、許せない。
そこまで考えて、はっとした。ジゼルが、クロヴィスのことを認識しているかもしれない。そんな、どうでもいいことで、嫉妬している。ジゼルはそうではないのに、エマニュエルは、番の証に強く縛られているのだ。
それは、自分が人とは違い、本能のままに生きる獣に近いことを証明しているようで、いらだった。エマニュエルは、獣人であることを誇りに思っている。そして、獣人は獣とは違うと信じていた。
「くそ。」
「え、なに、怖い。」
クロヴィスが眉間にしわを寄せたのを、目の端でとらえて、エマニュエルは冷たく言葉を投げかけた。
「それで、用は。」
「えー、新しく入隊した奴ら集めたんだけど、お前が一応隊長だろう?だから、挨拶するかなーって、呼びに来たんだけど。」
「……早く言え。」
クロヴィスのマイペースが過ぎるのは、個人の特性なのか、獣人としての性なのか、時折分からなくなる。
人馬宮の中庭に集められた真新しい制服を着た近衛兵たちのほとんどが獣人だ。新人らしく、皆、制服をきっちり着ている。エマニュエルは詰襟の息苦しさが苦手で、ジゼルの前以外では、ボタンを外していることが多い。クロヴィスに至っては、上着の着用はほとんどしていない。
並ぶ新人たちは、おしゃべりを楽しんでいたが、エマニュエルが来た瞬間に、全員が口を閉ざした。獣人の矜持を奪われ、公爵位を得た、わがままな姫君に振り回された隊長。
それが、獣人たちの中でのエマニュエルの認識だ。
順番に、一人ひとりの顔を見つめていく、その中で、飛びぬけて小さい娘と目が合った。赤いリボンで髪をまとめている猫の獣人である娘と、目が合った瞬間に、強い風が吹く。胸焼けするほどの甘い香りを感じ、先ほどまで規則正しく拍動していた心臓は、調子を外して訳も分からず脈打ち始めた。相手も、それに気づいたのか、驚き、そして戸惑ってから、顔を赤く染めた。
「あの、娘は?」
「え?うんと、ちょっと待って。あー、グレース・ユルフェだってさ。」
資料をめくっていたクロヴィスは、手を止めて、エマニュエルを見た。だが、エマニュエルは、グレースから視線を外すことができなくなっていた。番のジゼルに感じる焦燥を煮詰めてドロドロにしたような感情と、ジゼルから香る甘い香りを凝縮して鼻をつぶされているようだった。
これが、運命の番。
エマニュエルは、本能的にそう思った。




