【5】悪嫁ジェシカの地下活動
こん、こつん、という幼いノックがドアの向こうから響いた。自室で書類を書いていた私は、笑顔で声を投げかける。
「どうぞ」
「ママ――!」
鈴振るような声とともに、息子のアレクがとてとて駆けてきた。
「いらっしゃい、アレク」
ぎゅっと膝に飛びこんでくる可愛い子。4歳のアレクは、今日も無邪気な笑顔を咲かせてくれる。
さらさらの銀髪を指で梳き、私も頬を緩めた。
控えていた侍女のモニカが、微笑ましく私たちを見つめている。
「ママ。おべんきょう終わったから、絵本よんで」
「ええ。お仕事を片付けるから、もう少しだけ待っていてね」
「はーい」
アレクはソファにぽふんと沈み、モニカの用意したクッキーを頬張った。
「おいしい!」
今日もアレクは幸せいっぱい。甘えん坊で明るい子だ。
かつての、氷のように悲しく冷たいアレクとはまるで違う。
(――これは夢でも幻でもないわ。私自身が築き上げてきた『二度目の現実』)
そう思うと、涙が出るほど嬉しくなる。
死に戻ってから早三年半。
今回の人生では、義母にアレクを奪われていない。
もちろん油断はしていない。義母は隙あらば養子にしたがるので、躱すのは本当に大変だ。3歳になったアレクに「お名前、上手に書けるかしら?」などと言って養子縁組同意書にサインさせようとしたときは、本当に肝が冷えた。
「――はい。できたわ、モニカ。お義母様付きの侍女の当番割りは、これで問題ないはずよ」
私は書き上げた書類をモニカに差し出した。
「ありがとうございます! 若奥様」
リスのように大きい瞳を輝かせる彼女は、十代後半ながら有能で最も信頼できる侍女だ。
「ふふ。お義母様に気付かれないようにね」
「もちろんです!」
モニカが退室し、部屋には私とアレクだけが残る。
「お待たせ、アレク!」
私はソファに飛び込むと、とろとろに笑いながらアレクを抱きしめた。
「まってないよ。ママ、だいすき」
「なんて可愛いの……! 私の天使は、天使以上に天使ね。アレクのためならママ、何だってがんばれる……!」
――そう。
ここまでの道は決して平坦ではなかった。
現在この侯爵家は法に則った「当主空席」という特殊な状況にあり、アレクが爵位を継げる年齢になるまで義母バーバラが「当主代行」の役目を担い続けることになっている。如才なく政務を取り仕切るバーバラは、回帰前と変わらず絶対的な権力者だ。
そんな義母の目を盗みながら、こっそりと信頼できる使用人を増やしていくのは至難の業だった。
(……たくさんの犠牲を払ったし、汚い手も使ったわ。他人を踏み台にして、私はここまで成り上がってきた)
私がしてきたこと――それは他人の不幸を利用することだった。
養子縁組を阻止したあの日以降、義母は使用人を大量に解雇した。『密告者』の件で疑心暗鬼に陥ったらしく、私と接点のあった侍女やメイド、侍従などを容赦なく追い出したのだ。
冤罪で首を斬られた使用人達は、不幸な犠牲に他ならない。
そして悪嫁に徹した私は、彼らを利用することにした。再雇用されやすくなるように、懇切丁寧な紹介状を一人一人に書いてやったのである。
長所や実績、当家での働きを称えて、「家の事情でやむなく解雇の運びとなったが、断腸の想いである」と結んで。私は彼らに酷使されていたから、一人一人の働きぶりや短所をよく知っている。短所は裏を返せば長所だ――たとえば、私の些細なミスを神経質に指摘してきたメイドは『よく気づく』。そのミスを同僚に言いふらして笑っていたメイドは、『仲間想いで社交的』。だから、言い換え次第では十分な長所になった。
(要するに、彼らに恩を売ったのよね……)
海の向こうの国には『敵に塩を送る』とか『情けは人の為ならず』とかいう言葉があると聞く。冤罪に苦しんだ彼らは、私の紹介状を泣いて喜びながら受け取った。身一つで放り出されるよりも、若夫人のお墨付き紹介状があるほうが圧倒的に有利に決まっている。それに私の冷遇は侯爵家内部で陰湿に隠されてきたため、外部には知られていない。
『私たちがあれほど手ひどく扱ったのに……若奥様はなんて優しい方なんだ!』
解雇を免れた使用人の間でも、私の評価は上がっていった。新しく雇われた者も私をぞんざいに扱うことはなく、モニカのように忠誠を誓ってくれる者も現れた。
(……現状では、私の味方は3割程度。まだまだ不十分だわ。アレクを守るためには、もっと地盤を固めなくちゃ)
長きに渡る冷遇生活で、すっかり『人を見抜く目』が養われていた。だから私は、使用人ひとりひとりの人柄や悩みを見抜いて、利用できないか考えたのだ。
たとえば、善人の顔をした悪人。平凡に見えて非凡な者。持病を隠して働く者。
そして信頼できる者には業務改善策を与えて、味方にした。さっきモニカに手渡した書類もその一環だ。
(……恩を売れば売るほど、自分の立場は向上していく。ここまで打算で動けるなんて、我ながらびっくりね)
どうやら私には、『悪嫁』の才能があったらしい。
「ママ。今日はこの絵本がよみたいな」
絵本を大事そうに抱え、アレクがきらきらの目で私に言った。
「ええ、読みましょう。お膝にいらっしゃい」
「わーい」
ソファの上でもぞもぞ動いて、膝の上に移動してきた。ちょこんと軽い体重が愛しい。
「昔むかし。あるところに……」
さあ。悪嫁の時間は一時休止よ。
アレクと二人きりのときは、優しいママに戻るんだもの。甘く温かい気持ちに満たされ、私は絵本を読み始めた。
次話は本日10/16の夜に投稿します。





