【38】ママと『お父様』
丘の斜面を、爽やかな夏の風が駆け抜けていく。アレクはクゥと追いかけっこをしながら、桑畑を見下ろすなだらかな場所を駆け回っていた。
「まてぇ、クゥ!」
『くぅ~!』
小さな翼をパタパタさせて飛んだり跳ねたりするクゥの仕草はかわいくて、ちょっとおもしろい。アレクは声を上げて笑った。
――でも、笑い声はふと途絶えた。
(ぼく、いじわるだったかな……)
なんとなく、足が止まってしまう。胸の奥に、ちくりとトゲが刺さった気がした。
ママとお父様はいつも、あまり近づこうとしない。楽しそうに話していても、ふと距離をとってしまう。
おたがいに嫌い合っているわけではなくて。……むしろ仲良くしたいんだと、アレクにも伝わってくる。
それなのに、二人はいつもぎこちない。
アレクの前では、とくに。
(ママとお父様が、なかよくできないのは……ぼくのせいだ)
『く~?』
追いかけっこが止まったことに気付いたクゥが、首をかしげてアレクの足元にじゃれついてきた。
アレクは思わず、クゥの細い体を抱きしめる。
「ぼくって……わがままだ」
クゥが、ぺろぺろとアレクの頬を舐めた。慰めるように、小さくのどを鳴らしている。
「クゥ。お父様って、なんだろう」
『くー?』
クゥには父親がいない――と、レオンが言っていた。本当は、白竜は番で子どもを育てるらしい。でも、クゥの父親は悪い竜との争いで死んでしまったそうだ。
「クーは、お父様がいなくても、さみしくないんでしょ? ママだけでも、こんなに大きくなったんだもん」
母竜のヴァイスは、今回の視察旅行には来ていない。侯爵邸でおるすばんだ。
レオンいわく、3歳を過ぎた子竜は母竜の袋から出て少しずつひとり立ちするらしい。最近のクゥは、少し硬い肉でも平気でもりもり食べている。
父竜がいなくても、クゥはこんなに元気だ。
(だったら、ぼくも……ママだけいれば……)
でも、胸の奥がぎゅっとなった。
――やっぱり、ちがうのかもしれない。
『父親』という存在は、絵本の中で何度も見てきた。
強くて優しくて、家族を守ってくれる人。絵本の中の『父親』を、この前ジェシカが優しく見つめていたのをアレクは見逃さなかった。
(あのときのママ……お父様のことをかんがえてたんだ)
ページの中の父親を、ママは優しく指でなぞっていた。夢見るような眼差しで、そっと挿絵に触れていた。
(ママに、いっぱい笑ってほしい……。もっとお父様となかよくなってほしい)
でも……もし二人が本当に仲良くなって、自分だけが輪の外に追い出されてしまったら?
きっとママは、そんなことしない。お父様だって、優しい人だ。
(だけど……どうしたらいいか、わからないよ)
頭の中がぐるぐるして、アレクはふと顔を上げた。
丘の上にいるはずの、ママとお父様のほうを見る。
「……あれ?」
見えるのは、お父様だけ。
(ママが、いない……?)
いやな予感がして、アレクはクゥを抱えて丘の上に戻った。レオンのもとまで駆け寄ると、息を切らせて問いかける。
「ママは? どこに行ったの?」
レオンは一瞬だけ言葉を探していたようだが、それから静かに答えた。
「お前の祖母のもとへ向かった」
「……え?」
レオンが、事情を説明してくれた。
この近くに祖母バーバラの住む屋敷があること。
ジェシカは侍女と護衛を連れて、そこに向かったのだということ。
「先日から話していたんだ。私が魔の森から戻ったことを、ジェシカが直接報告したいと」
「――なんで?」
アレクの声は、自分でも驚くくらい尖っていた。
「なんで、ママひとりで行かせちゃったの!?」
クゥが驚いたように『くぅ!?』と鳴いて、アレクの腕から羽ばたく。
アレクはレオンに詰め寄った。二人の間の空気が凍り、離れて控えていた護衛たちが近づいてくる。
レオンは膝を折り、アレクの視線の高さに合わせた。
「ジェシカ自身がそう望んだんだ。今回は、私が行くべきではないと。お前に伝えずに行ったのは、心配をかけたくないと思っていたからだと思う」
「なにいってるんだよ! お父様は、おばあさまのこと何も知らないから、そんなことが言えるんだ!!」
悲鳴のように叫ぶアレクを見て、レオンの顔が強張った。
「アレク……」
「おばあさまは、お父様のお母様なんでしょ!? だったら、なんで分からないの!? おばあさまは絶対、ママにひどいことをするのに!!」
アレクの手が、レオンの服の胸元をぎゅっと掴む。
「お屋敷はどこ!? 早く行かなきゃ!!」
アレクは後ろをふり返り、控えていた騎士たちに向かって声を張り上げた。
「おばあさまのお屋敷に連れて行って! ママがあぶない!」
騎士たちは困惑している様子だ。主人の判断を仰ごうと、全員の視線がレオンに向かう。
「アレク。お前は従者たちと一緒に待っていてくれ」
「やだ! ぼくも――」
「――私が行く」
レオンの瞳は、刃のように鋭くなっていた。もともと険しい目つきではあるが、普段とはまるで別人……戦う者の険しさだ。
父親の変化に、アレクはぞくりとして息を呑んだ。





