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【29】家族の朝食

――朝の気配と誰かのぬくもりを感じて、私は重いまぶたを開けた。

「……っ、ひゃ……!」

声にならない悲鳴が、思わず唇から零れた。気付けば私はベッドの上で、旦那様の腕に抱かれて眠っていたのだ。


旦那様も目を覚ましたらしく、銀の睫毛が微かに揺れる。薄く開いた唇から吐息が漏れた。少し寝ぐせのついた前髪の下で、切れ長の双眸が見開かれた。


私は口をぱくぱくさせて固まっていた。ハッとして、自分の着衣を確かめる――良かった、着ている。……旦那様もだ。

ほっと胸を撫で下ろした。


そんな私を見て、旦那様がわずかに戸惑ったように眉尻を下げた。

「……安心してくれ。誓って、ふしだらなことはしていない」

(ふしだらって。もう子どもまでいるのに……)


旦那様の声音はとても平坦だけれど、頬が赤い。――もしかして、照れているのかしら。


「貴女が酔って眠ってしまったので、ベッドに運んだ。本当に、それだけだ」

「さ、さようですか。き、記憶がなくて。ご迷惑を、おかけしました……」

「いや……」

二人ともギクシャクして、不自然な沈黙が流れてしまう。先に口を開いたのは、旦那様のほうだった。


「もし貴女とアレクが嫌でなければ、朝食を共にしたいのだが」

「朝食を――?」

言われて、ハッと気が付いた。旦那様はきっと、私とアレクに歩み寄ろうと努力してくださっているのね。


「お心遣いありがとうございます、旦那様。喜んでご一緒したいと思います。でも念のため、アレクにも聞いてきて良いですか? まだ幼いので、緊張してしまうかもと思うと……」

アレクはまだ旦那様の人柄を知らない。

だから先にきちんと伝えないと――あなたのお父様はとても優しい人よ、って。


「ああ、アレクの気持ちを優先してくれ。無理強いはしない」

「ありがとうございます」

私は居ずまいを正し、にっこり笑って礼をした。


 *


それから私は、子供部屋へと向かった。

「ママ……!」

アレクは、侍女に髪を整えてもらっていた。愛くるしい顔を心配そうに歪めて、私のもとへ駆け寄ってくる。


「ママ、だいじょうぶだった!?」

「ええ、大丈夫よ。もう何も心配いらないわ」

アレクを安心させたくて、ぎゅっと抱きしめて笑みを浮かべた。


「聞いて、アレク。あなたのお父様は、とても優しい方だったの。アレクのことも、大切に思ってくださっているのよ」

アレクにも早く打ち解けてほしい。父親不在の年月を解消して、幸せな親子になってほしい――そんな一心で、青い瞳を覗き込む。


「ママがお父様を誤解していたせいで、アレクを不安にさせてごめんね」

「……」

でもアレクの表情はまだ晴れなかった。どこかジトっとした眼差しで、見上げてくる。


「……ママは、あいつがすきになった?」

(あいつって……)


好きか嫌いの二択なら、間違いなく『好き』のほうだと思う。まだまだ知らないことばかりだけれど、アレクを大切に思ってくれているし、家長として責任を果たそうとしてくださっているんだもの。


「…………ママがすきなのは、ぼくだよね?」

「もちろんよ!」

私が即答すると、アレクは目に涙を溜めてしがみついてきた。胸に顔をうずめて、温もりを確かめるようにすりすりしてくる。


(アレク、すごく不安そう。……当然だわ。実の父親とはいえ、今までいなかった人なんだから)


アレクの気持ちが最優先だ。

いつだってそれは変わらないし、旦那様もそうしてくれと言っていた。だから私はアレクの背中をとん、とんと優しく叩いて穏やかに言った。


「ママはいつだってアレクの味方よ。お父様とは、急いで分かり合おうとしなくても大丈夫だからね? まだ怖いのも、不安なのも当然のことよ?」

するとアレクの背中がぴくり、と震えた。


「今日の朝食はお父様も一緒にと思ったけれど、また今度にしま――」

「ぼく、こわくないもん!」


アレクは顔を上げ、きっぱりと言った。


「ぜんぜんこわくないよ! いっしょに朝ごはんでしょ? いいよ、行こうママ」

「……えっ? アレク……?」

アレクは私の手を引いて子ども部屋を出た。その瞳には、なぜか戦いに挑むような光が宿っている。


「でも、不安でしょう? 無理しなくても……」

「ぜんぜん平気。おなかへった」


大丈夫かしら……。

ちょっと心配になりながら、アレクに手を引かれてダイニングに向かった。


   *


私とアレクがダイニングの席に着いてからしばらくすると、侍女に呼ばれて旦那様もやってきた。初めての家族3人の食卓は、予想通りではあるけれど沈黙に包まれていた。

その沈黙を埋めるように、カトラリーの音だけが微かに響いている。


アレクと二人で食事するときは、どちらからともなく他愛無い話題で笑っていたけれど。……今日は本当に静かだわ。


(ここは、私が何か話題を……)

ちらり、とアレクに視線を投じる。今日のアレクはいつも以上にお行儀が良い。すん、とした表情でスープを口に運んでいる……完全によそ行きの顔だ。


今度は、旦那様の様子を窺ってみた。旦那様は涼やかな顔で紅茶を飲んでいる――でも私の視線に気づいたらしく、こちらを見つめ返してきた。

「どうした、ジェシカ」

「い、いえ。何でもありません」


どうしよう……緊張のせいか、顔が火照ってきた。なぜか旦那様まで頬が赤い。なんだか気恥ずかしくなって、お互いに視線を逸らして静かに紅茶を飲み続けていた。


――すると。

反対側の頬に、じとーっと刺すような視線を感じた。

(……アレク?)

どういう訳か、アレクがぷすっと頬を膨らませて不満げな顔をしている。

「ど、どうしたの? アレク」

「べつにぃ」

ぷいっと顔を背けてしまった。


(……き、気まず過ぎる!)


なんとか空気を変えなくちゃ。私は明るい笑顔を作って「ああ、そうだわ」と声を出した。


「アレク。今日は乗馬の練習の日だったわね」

「……うん。そうだけど」


それから旦那様を振り返り、声を掛けた。

「旦那様。朝食のあと、お時間を少しいただけませんか?」

「構わないが?」

「もしよろしければ、アレクの乗馬を見ていただきたくて」


ぼくの? と、アレクが小さな眉間にしわを寄せた。


「アレクは最近乗馬を始めて、とても筋が良いんです」

「そうか」

旦那様の表情は相変わらず硬いままだけれど、たぶんこれは関心を持っているお顔だ……昨日の晩酌のおかげで、気持ちがちょっぴり読み取れるようになってきた。


「ぜひ見たいが、構わないか? …………アレク」

旦那様の声が掠れているのは、たぶん息子に呼び掛けるのに緊張しているから。アレクと打ち解けるためにも、できれば笑顔で言ってほしいところだけれど……ぜいたくを言ってはいけない。


「アレク? どうかしら」

「……いいよ」

どこかツンとした態度で、アレクは頷いていた。その澄まし顔はやっぱり、旦那様とよく似ている。


(無理のない範囲で少しずつ時間を重ねていけば、きっとアレクも馴れるわよね……?)

アレクと旦那様を交互に見つめながら、そんなふうに思った。


次話は夜21 時頃です。

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