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【3】その契約、無効でしてよ

力を込めてノックをし、義母バーバラの執務室へと踏み込んだ。

部屋の中には義母と家令のシュバルツ、宮廷から派遣されてきた政務官。そして……ベビーベッドで寝息を立てる、1歳になったばかりの息子アレクの姿があった。


義母が目を見開いてこちらを見ている。彼女の右手は、机の上の書類にペンを走らせようとしていた。

書面の上部には、『養子縁組契約書』の文字がはっきりと見える。

今まさに、この女は私からアレクを奪おうとしていたのだ――。

させるものか。


「……まぁ! なんですか、あなたは急に!」

細い眉を吊り上げ、義母は私を叱責した。所領産のレース織を惜しみなくあしらった壮麗なドレスに身を包み、貴婦人らしい凛とした態度である。しかしその実、義母の瞳には動揺の色が浮かんでいた。


私は濡れた裾を引きずりながらベビーベッドに向かい、アレクを背にして立ちはだかった。

「アレクは私の子です。お義母様との養子縁組など、断じて認めません」

「なっ……」

義母の美しい顔がぎこちなく引き攣った。悪巧みを私に暴かれ、ひどく驚いているようだ。


「政務官閣下。その養子縁組は無効です」

私がそう言うと、政務官は眉をひそめて問いかけてきた。

「あなたは?」

「私はジェシカ・ノイエ=レーベン。亡きレオン・ノイエ=レーベン侯爵の正妻にございます」


義母が醜く顔を歪める。

家令のシュバルツは固唾を呑んで、義母と私とを代わる代わる見つめていた。


一方の政務官は、戸惑いがちに私を見やった。侯爵夫人であるはずの女が、びしょ濡れのメイド姿で現れたのだから当然だ。


「……あなたがジェシカ夫人? しかし、アレク殿の養子縁組手続きには、ジェシカ夫人も実母として同意しているのでは?」

「そのような事実は一切ございません」

毅然と告げる私に対し、義母は芝居がかった声で言った。


「あらあら、困った人ね、ジェシカさん。状況次第で発言を変えるなんて、貴族の嫁として恥ずかしくてよ? 先日は『自分では育てられないから、お義母様にお願いします』と泣き付いてきたじゃないの」


政務官に向き直り、義母は憂慮する貴婦人の素振りで言葉を重ねた。

「ご覧くださいませ、政務官殿。このように、嫁はレオンを失って以来すっかり心を病んでしまいましたの。だからこそ、このような取り乱した恰好で……。明らかに、子供を養育できる状態ではございませんのよ」

「……っ」

卑怯者! と叫びたくなった。

でも、ここで感情を露わにしたら本当に病人扱いされてしまう。


「ジェシカの思考は支離滅裂で、見るも無残なありさまです。このような嫁に、次期当主たるアレクを育てる力がないのは明らかですわ。政務官殿もそう思われますでしょう?」


政務官は、手元の書類に目を落とす。

「ふむ……。事実、先程バーバラ夫人が提出なさった書類一式には、ジェシカ夫人の署名もございますな。精神の衰弱により養育困難であるため、バーバラ夫人に親権を譲る――という一筆も」


(私の署名ですって!?)

卒倒しそうになった。まさか義母が書類まで偽造していたなんて。


「私は決して、そのような書類に署名しておりません。署名が代筆だった場合でも、養子縁組は有効になってしまうのですか?」


「いいえ。代筆は認められません」

政務官は、すらすらと法令を(そら)んじた。


「3歳未満の子どもの養子縁組には、実父母それぞれの自筆による同意書と、養父母の同意書および資産目録と家督管理能力証明書が必要となります。3歳以上なら本人の署名も必要となりますが、アレク殿は現1歳。実父レオン殿は故人ゆえ、自筆同意書はジェシカ夫人とバーバラ夫人の双方に必要です」


「であれば、養子縁組は無効です。その同意書は私の自筆ではありませんので」


義母が息を呑む音が、やたらと大きく聞こえた。

「ジェシカ夫人の自筆ではない、と?」

「ええ。偽造です。筆跡鑑定をお願いします」


執務室内に、鉛のような沈黙が満ちる。

「……お待ちなさい、ジェシカさん」

その沈黙を破ったのは義母だった。


「……まったく。アレクを手放すのが惜しくなったからと言って、駄々をこねるのはおやめなさい。わざわざ王宮からお越しくださった政務官殿に、何というご迷惑を」

上品な笑みを顔に貼り付け、義母は政務官に視線を向けた。


「政務官殿。当家の醜態をお見せして、お恥ずかしい限りですわ。このまま話を進めても、混乱を招きましょう。今日のところはいったんお引き取りいただけますかしら」

どうやら義母は旗色が悪いと判断したらしい。


「承知しました。ご家族間で、十分に話し合ってください」

政務官も家の揉め事に巻き込まれたくないと思ったらしく、やや面倒そうな顔でそう答えた。


「シュバルツ、政務官様をお見送りして頂戴」

「かしこまりました。奥様」

家令のシュバルツが恭しく頭を垂れ、政務官を伴って退室していく。



――ぎろり。


ドアが閉まったその瞬間に、義母は憎悪を剥き出しにした。

「……いったい何のつもりかしら、ジェシカさん?」


なんて醜悪なのだろう。

『社交界の華』だなんて笑わせる――こんな女、着飾っているだけの害獣だ。私の何より大切な子を、下劣な手段で奪おうとした。


(上等よ。……受けて立つわ)


アレクを失うことに比べれば、義母の敵意など怖いものか。寒さで冷え切った体の芯に、激しい炎が燃えていた。


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