モニカ日記①
私の名前はモニカ・ウォルナー。ノイエ=レーベン侯爵家の侍女という高給職に就けたのは、まったくの偶然でした。
くわしい事情は分かりませんが、バーバラ大奥様が屋敷の使用人たちを一斉解雇なさったそうです。人手不足の侯爵家は、新たな使用人を大量に雇い入れました――そのひとりが私です。そんな特別なタイミングでなければ、貧乏男爵家の三女で、「どんくさい子」と言われる私が雇われるなんて、きっとあり得なかったと思います。
(今度こそ失敗しないようにしなくては……!)
実は以前、とある子爵家で働いたことがありました。でも「仕事が遅い」「覚えが悪い」と叱られてばかりで、結局追い出されてしまったんです。だから今度こそ長く勤めて、実家に仕送りしてあげないと……! やる気もひとしおです。
けれど、気合だけではどうにもならないのが現実というもの。
バーバラ大奥様のお召し替えをお手伝いしていたときに、よりにもよってお嫌いな色のブローチをお付けしてしまったんです。
「……まぁ! 当家の侍女ともあろう者が、わたくしの好みも把握していないなんて!」
そういえば……と、青ざめました。
初日に先輩侍女から聞いていたんです――バーバラ大奥様は『緑色』が大嫌いだと。嫁であるジェシカ奥様の瞳の色と同じだから、だそうで。
……知らんがな、と正直ちょっぴり思いました。
ですがここは、平謝り一択です。
私は罰として、1か月間の床磨きとすべての客間のカーテン洗いを命じられました。この広大なお屋敷の床と客間のカーテンを全部を一人で……。なかなかに意地悪ですし、本来はメイドの仕事ですが、まあ仕方ありません。まずは黙々と床磨きを始めました。
……何時間くらいやりましたかね。ふと、視線を感じたんです。
褐色の髪に緑の瞳の、美しい方。ジェシカ奥様です。物陰からひっそりこちらを見ています。
ジェシカ奥様の噂はいろいろ聞いていました。先の大量解雇の際は、全員に紹介状を書かれたとか。でも、同僚たちはこう言っていました。
『ジェシカ奥様は良い方だと思うけど、得体が知れないのよ』
『アレクお坊ちゃまの1歳のお誕生日を境に、まるで人が変わったのよ』
『若奥様と親しくしてはダメよ? バーバラ大奥様に目を付けられちゃうから』
なるほど、いろいろ複雑そうです。触らぬ神に祟りなし。
だから私は、視線に気づかないふりをして床磨きを続けました。ほとんど丸一日がかりでしたが、なぜか若奥様はずっと私を見つめていました。
そしてその夜。
日中にやりきれなかったカーテン洗いをしていると、「部屋に来るように」とジェシカ奥様に呼び出されてしまいました。
(なっ……なんの用ですかね!? やっぱり仕事が遅すぎるから……?)
びくびくしながらお部屋に伺うと――。
「あなた、モニカと言ったかしら。とても良くがんばっているわね」
「……へ?」
怒られるどころか、褒められてしまいました。
仕事で褒められるなんて、人生初です。
理知的な笑みを浮かべながら、ジェシカ奥様はねぎらいの言葉をかけてくださいました。
「手を抜かずにきちんと床を磨き上げていたわ。バーバラお義母様に罰を命じられた侍女を何人か見てきたけれど、最後まで根気強くやりきったのはあなたがはじめてよ」
そう言って、ジェシカ奥様は小さな紙を差し出されました。
「これは掃除ルートの改善案。それと、桶の水を半分にしたほうが運搬は楽よ。水汲みの回数は増えてしまうけれど、身体の負担が格段に減るから」
「……はい」
手荒れだらけの私の手を取ると、ジェシカ奥様は膏薬を塗ってくださいました。
「あなたは、とても誠実な人。あとは要領を身につけるだけね」
翌日から、私の仕事はぐんとやりやすくなりました。アドバイスを取り入れただけで、驚くほど効率的になったんです。他の仕事にも手が回るようになり、仲間の侍女達にも手際の良さを喜ばれるようになりました。
その後もジェシカ奥様は、人目を避けて何度か私に助言してくれました。
「大切なのは、先を読むこと。たとえばお義母様の執務室にいるときは、廊下の足音に気を配るの。家令の歩き方なら事務連絡。シェフならメニューの相談ね。用件を予測するだけで、一歩先んじて動けるようになるはずよ」
奥様の言う通りでした。少し意識を変えてみたら、全体の流れがよく見えるようになってきて……!
「ジェシカ奥様のおかげです。本当にありがとうございます!」
「役に立てたなら光栄よ」
ジェシカ奥様は微笑んでいましたが、どこか張りつめた様子でした。その横顔が、なんだか少し寂しげで――。
*
罰の期間を終え、侍女の通常業務に復帰した日。仕事分担の話になったとき、私は挙手しました。
「ジェシカ奥様のお世話係って、いないんですよね? だったら私がやりたいです」
正気なの……? と、皆は怪訝そうでした。
「……やめたほうがいいわよ、モニカ。バーバラ大奥様に目を付けられるわ」
「平気です」
バーバラ大奥様は、『ジェシカ奥様が専属侍女を持つこと』を禁じてはいません。ただ、誰もやりたがらないよう無言の圧力をかけて、ジェシカ奥様に立場の不利を悟らせようとしている――それが実情のようです。
だったら、私がやります。
私はジェシカ奥様のもとを訪ねて、報告しました。
「ジェシカ奥様。今日から私が専属侍女としてお仕えします」
「……あら。そうなのね、よろしく」
少し警戒しておられるようです。スパイだと思っているのでしょうか。
でも、大丈夫。私は行動で示しますから。
*
おそばで仕えているうちに、ジェシカ奥様は柔らかい表情を見せてくれるようになりました。私はそれが、嬉しくて。
ジェシカ奥様は、このノイエ=レーベン侯爵家を変えようとしておいでです。私のように立場の弱い者を見つけては声を掛け、こっそり力を貸して味方を増やしていらっしゃる――侍従のサムスさんや庭師のダニエルさん、料理人のトマスさん。皆、救われた人たちです。
奥様の味方がもっと増えますように。
――ある夜。
書き物をしていた奥様が、机に伏して寝息を立ててらっしゃいました。
その肩にブランケットをかけようとすると、小さな寝言が。
「ふふふ。悪嫁たる者、その程度のことでは……」
(わるよめ……?)
わるよめって何ですか? ……悪い嫁?
(奥様。ご自分のことを“悪い嫁”だなんて思ってらっしゃるんですか?)
こんなに優しい方なのに。
奥様は、ちょっぴり悪者ぶったような笑みを浮かべて、その後もごにょごにょ言っていました。
「ジェシカ奥様。モニカがおそばにおりますよ」
その声は、ジェシカ奥様には届かなかったと思います。でも、いいんです。
私がずっと支えますから。





